2008/02/24(日)「ライラの冒険 黄金の羅針盤」

 盛り上がらずに終わった感じ。所々眠かった。子供向けにしては話の基本設定が難しい。この世界とは違う別次元の世界の話で、人はダイモンと呼ばれる魂(動物の姿をしている)を引き連れている。これに意味があるかというと、ほとんど意味がないように思える。演出にもメリハリがない。監督の才気は微塵も感じられず、凡庸の塊だな、これは。良かったのは鎧熊イオレクのCG(と、ニコール・キッドマンとエヴァ・グリーン)ぐらい。

 これで250億円の製作費は回収できるのだろうか。1カ月間招待券が使えないのは製作費回収が難しいとの判断からなのだろう。監督は「アバウト・ア・ボーイ」のクリス・ワイツ。こういうファンタジー大作になぜこの監督を選んだのか不思議だ。原作自体、大した作品ではないようで、キネ旬でおかだえみこは「(3部作の)最後はひろげた大風呂敷が収拾できず、ホコロビがあちこちに残る」と書いている。製作費を使いすぎて2作目、3作目は無理との話もあるそうだ。

 ちなみにダイモンはDaemonと書く。これ、コンピュータ用語では普通、デーモンと呼ぶ。映画の中ではディーモンと発音していた。

2008/02/23(土)「ラスト、コーション」

 「ラスト、コーション」パンフレットくるくる回る風車が印象に残る。ラスト近く、主人公のワン・チアチー(タン・ウェイ)が乗る人力車(自転車タクシー)に付いた風車。自転車をこぐ男も底抜けに明るい笑顔を見せる。これが印象的なのはそういう無邪気なものをチアチーが失ってしまっているからだ。そして、通りを封鎖され、マンションに帰ることができなくなったチアチーは覚悟を決める…。4年前の1938年、香港で学生生活を送っていたチアチーは抗日の演劇が喝采を浴びたのに気をよくした仲間たちとともに、卑劣な売国奴の暗殺計画を立てる。演劇だけではなく、それを実行に移そうという軽い乗りの計画はしかし、手痛いしっぺ返しを食うことになった。なかなか死なない男をめった刺しにする中盤の長く凄惨な殺人シーンが強烈だ。ここでチアチーたちは何か大事なものをなくしてしまった。青春時代に別れを告げることになったのだ。

 通過儀礼というにはあまりにショッキングな出来事。後半のハードコアな描写に気を取られがちだが、この映画、前半に青春時代の愚かな行動と挫折を描き、それで映画全体を包み込んでいる。自分たちの存在価値を守ろうとして、あるいはかつて失ったものを取り戻そうとして再び暗殺を企てる仲間たちの中で一人、チアチーだけは暗殺対象のイー(トニー・レオン)との性愛に溺れていく。いや、別の価値観を知ると言った方がいいかもしれない。アン・リー監督はそうした枠組みの中で男女の性愛を活写し、死とエロスをテーマにした作品に仕上げた。チアチーと仲間たち、孤独なイーのラストの姿にはそれぞれに時代に翻弄された人間たちの悲哀がにじみ出る。ヴェネツィア映画祭金獅子賞は当然の結果だろう。

 ここまで書いて、アイリーン・チャンの原作「色・戒」を読んだ。文庫本で43ページと短く、エロスを強調したものではない。「欲情を戒める」というタイトルはイーの立場を表したものである。映画はほぼ同じプロットながら、チアチーの立場で物語が進行する。原作でイーとの性交渉についてチアチーはこう振り返っている。

 「易(イー)と一緒に過ごしたあの二回は、びくびくし通しで、気を抜くどころではなく、どういう感覚なのかと自分に問いかける余裕さえもなかった」

 映画とは随分違う。性愛に目覚めるどころではなく、舞台の延長でチアチーはずっと緊張したまま演技しているのだ。しかし、映画同様に原作のチアチーはイーへの愛を突然自覚し、「早く行って」(映画の字幕では「逃げて」)とイーを助けてしまう。

 「この人は本当に私を愛している。いきなりそう思った。すると激しい炸裂音が胸の中で起こり、何かを失ってしまったように感じた」

 この失ったものを丁寧に描いたのが映画なのだと思う。ワン・フィリンとジェイムズ・シェイマスの脚本(当然のことながら、アン・リーの意見が取り入れられているだろう)は原作の細部を膨らませ、豊かで激しい情感を加えて素晴らしいというほかない。原作に殺人場面はなく、クァン・ユイミン(ワン・リーホン)へのチアチーのほのかな恋心にも描写を割いてはいないのだ。何よりも映画が物語を青春の喪失の観点から組み立て直したのは卓見と言うべきだろう。前半の遊びの延長のような甘い暗殺計画と後半の命をかけた暗殺計画が見事な対となっている。

 中国の現代史を知らないと、分かりにくい部分があり、僕は映画を見た時点ではイーのキャラクターに疑問を持った。卑劣な売国奴があんな風にクールでカッコイイか。パンフレットと原作を読んで、イーが日本の傀儡政権である汪精衛(ワン・ジンウェイ)率いる南京国民政府の諜報機関のトップであり、蒋介石の国民党と対立していた時代背景を知って、こういうキャラクターなのにも納得できた。

 驚くほどの美人とは思えなかったタン・ウェイは映画が進むにつれて魅力を増していく。アレクサンドル・デスプラの哀切な音楽も心に残った。「ブロークバック・マウンテン」をはるかに超えてアン・リーのベストだと思う。

 蛇足的に付け加えると、映画は後半だけだったら、色仕掛けで近づいた敵の男を愛してしまうという「ブラックブック」と同じ趣向の作品になっていただろう。その「ブラックブック」の監督ポール・バーホーベンはヴェネツィア映画祭の審査員を務めていたそうで、そうなったら、バーホーベン、金獅子賞には反対していたのではないか。

2008/02/21(木)「ナイト・ウォッチ」

 原作は「ロシアの作家セルゲイ・ルキヤネンコによって書かれたファンタジー小説」。それをティムール・ベクマンベトフ監督が2004年に映画化して、日本では2006年に公開された。

 光の勢力と闇の勢力が1000年前に休戦協定を結び、お互いに相手を監視している現代が舞台。光の勢力側の監視役をナイト・ウォッチという。「マトリックス」を思わせるようなビジュアルは合格点だが、お話にあまりピンと来ない。スケールが大きいようで小さく、SF的なアイデアの発展もない。主人公はナイト・ウォッチの見習いみたいな役で、もう少し強い方がいいと思う。

2008/02/17(日)「アメリカン・ギャングスター」

「アメリカン・ギャングスター」パンフレット

 「知らないのか。ニュージャージーの警官は狂ってる。悪党を逮捕するんだ」

 あるいは、

 「それなら列に並べ。俺を殺したいと思っているやつは大勢いる」

 というセリフにうれしくなってしまう。ニュージャージーの刑事リッチー・ロバーツ(ラッセル・クロウ)はこうしたワイズ・クラックを吐きながら、ニューヨークのハーレムを牛耳る麻薬組織のボス、フランク・ルーカス(デンゼル・ワシントン)を追い詰めていく。前者はニューヨークの悪徳警官に対して、後者はルーカスに対して吐くセリフ。こういう気の利いたセリフがハリウッド映画には必要なのである。

 リドリー・スコットの映画としてはもう「ブレードランナー」に肩を並べる大傑作。と、ルーカス逮捕の場面までは思ったが、その後の展開が個人的には少し邪魔に感じた。実話を基にした映画なので仕方がないのだが、軟弱な私生活の底に強い正義感を持つ刑事がああいうことになってしまってはちょっと幻滅なのである。まあ、2時間37分の映画なので、終盤の10分ぐらいには目をつぶってもかまわない。それであっても傑作であることに変わりはない。これは70年代の刑事アクション、特に「フレンチ・コネクション」をイヤでも思い出させる映画であり、そういうジャンルの好きな映画ファンにはたまらない作品である。

 例えば、飛行機を徹底的に捜索する場面は「フレンチ・コネクション」でジーン・ハックマンとロイ・シャイダーが押収した自動車を徹底的に分解するシーンと呼応するし、麻薬王の不敵な在り方などもまたシャルニエ(フェルナンド・レイ)を思い起こさせる。クロウが教会から出てくるワシントンを待つ場面も「フレンチ・コネクション」にそっくりの場面があった。ついでに言えば、100万ドルを拾っても署に届けてしまうクロウの正義感は「セルピコ」を思い出さずにはいられない。映画の時代背景が1960年代末から70年代中盤なのもよく、ベトナム戦争の激化と終結がドラマの中で重要な役割を果たしている。

 刑事とギャングの歩みを交互に描き、マジソン・スクウェア・ガーデンでのモハメド・アリの試合で交錯させ、後半の追い詰める展開に至る。スティーブン・ザイリアンの脚本は多数の登場人物に明確なキャラクターを与えた見事な出来である。それをスコットが的確な演出でくっきりと描き分け、緊密な映画に仕上がっている。いつものスコット映画ならば、ストーリーよりも映像の方が印象に残るのだけれど、これは物語の面白さで見せきられた感じ。悪を追い詰める刑事のドラマティックな高揚感が特に後半にはあふれている。まるで「ゴッドファーザー」のように家庭的なギャングのワシントンよりも、腐敗しきった警察の中で信念を貫くクロウのキャラクターに僕はしびれた。クロウにとっては出世作となった「L.A.コンフィデンシャル」以来の好演だと思う。

 「アメリカン・ギャングスター」というタイトルではあっても、刑事ドラマと見ても一向に構わないし、マーティン・スコセッシが描くギャング映画とは本質的に異なる映画なのである。リドリー・スコットは70歳だが、まだまだ製作意欲は旺盛なようで、次の作品も楽しみに待ちたい。