2008/04/21(月)「ディセント」

 地底人が出てくるまでは閉所恐怖症的な怖さがあったが、後半に出てくるあの地底人はねえ。あんなにたくさん繁殖しているのは何らかの生態系の説明がないと説得力を欠く。ま、この映画で怖いのはそうした怪異よりも人間だったりするのだが。

 サラ(シャウナ・マクドナルド)は愛する夫ポール(オリバー・ミルバーン)と一人娘ジェシー(モリー・カイル)との平和な家庭を守る平凡な主婦だった。年に一度必ず出かけることにしている女ともだちとの川下りからの帰り道、ハンドルを握りながら何か浮かない顔をしている夫に話しかけた。ポールが前方から目をそらし、助手席のサラに顔を向けた瞬間、対向車と衝突。サラが病院で意識を取り戻したとき、ポールとジェシーはすでにこの世にはいなかった。それから1年後、サラは女友だち5人と洞窟探検に行く。ところが、洞窟が崩落。6人は出口を求めて洞窟内をさまよう羽目になる。洞窟の中には何かがいた。

 最初の川下りと交通事故がクライマックスに結びついてくる。徐々に明らかになる人間関係。極限状態の中でエゴと憎しみと誤解が入り交じり、悲惨な展開となる。映画の作りはB級ホラーではなく、脚本もしっかりしている。ホラーとサスペンスとアクションと人間ドラマが描かれ、出来としてはまずまずか。これで地底人にもう少し工夫があったら言うことはなかった。地底人の「ギギギギギギ」という声は「呪怨」の影響ではないか。

 監督は「ドッグ・ソルジャー」(ニック・ノルティ主演ではない方)のニール・マーシャル。7月に日本で「ドゥームズデイ」(原題)が公開予定だ。ただ、IMDBではあまり評判が良くない。予告編は以下。

 Descentは下降、急襲などの意味がある。僕は高所は怖くないが、閉所は怖い。だから洞窟探検なんか絶対にしない。そうでなくても体がやっと通れるぐらいの所を通るのは嫌ですね。

2008/04/18(金)「クローバーフィールド HAKAISHA」

 怪獣の造型がいいですね。あれは間違いなくエヴァ系のデザイン。壊れた人間とトカゲが合体したような形で、自然界の生物とはとても思えず、劇中でも言及されるが、アメリカ政府の実験施設から逃げ出したのに違いない(ただし、実験施設がニューヨークの近くにあるはずはなく、怪獣が攻撃する都市をフロリダとかサンフランシスコ、あるいは五大湖沿岸地域あたりにしておけば、良かったのではないかと思う)。おまけの小さな怪物の方は「ガメラ2 レギオン襲来」のソルジャーレギオンを思わせる(それよりはずっと小さいけれど)。

 日本の怪獣映画が怪獣を倒すことに傾注しているのに比べて、アメリカ映画の怪獣はディザスター映画(パニック映画)的側面が強調される。この映画もそのパターン。元々のヒントは「ゴジラ」のフィギュアにあったそうだが、米国版「ゴジラ」(ローランド・エメリッヒ監督)と同じアングルがあったりして、製作のJ・J・エイブラムス、怪獣映画が好きなのではないかと思う。小さい怪獣が出てくるあたりは米国版「ゴジラ」や「エイリアン」の影響だろう。米国版「ゴジラ」の小さいゴジラは明らかに「ジュラシック・パーク」のヴェロキラプトルの影響がありましたけどね。ついでに言えば、噛まれた人を軍隊が隔離するのは「グエムル 漢江の怪物」でしょう。

 登場人物が撮影したビデオ映像で語るという同じ手法を用いた「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」も実は嫌いではないのだが、怪異の正体がまったくといってよいほど出てこないのが大きな不満だった。この映画では怪獣の姿をそこそこ見せてくれるけれども、まだまだ見せ方が足りない。きっちり見せて、その正体まで明らかにすれば、言うことはなかった。そのあたりは続編に持ち越されるのだろう。限定的な視点で描いた怪獣映画として良い出来だと思う。

 僕は複数の人が撮ったいくつかのビデオ映像をつないだ構成とばかり思っていたが、撮影したビデオカメラ自体は1台だけだった。ああいうパニック状況の中でビデオを撮り続けるというのはちょっとリアリティを欠くのだけれど、まあしょうがないか。

 それにしても揺れに揺れるこの画面、三半規管の弱い人には勧められない。うちの家内などは絶対に無理。

2008/04/04(金)「マイ・ブルーベリー・ナイツ」

 タイトルからして甘っちょろい映画にほとんど興味はなかったのだが、上映前にパンフレットを読んで「おおおっ」と思った。共同脚本ローレンス・ブロック…。マット・スカダーシリーズ(「800万の死にざま」とか)のブロックが脚本を書いている。そこで座り直して真剣に見ることにした。

 出だしは「ふーん」と思うぐらいの出来だったが、中の2つの話が良かった。最初のアル中警官の話がいかにもブロックが加わった感じを漂わせる。次のギャンブル依存症のようなナタリー・ポートマンも良かった。この2つがいい出来なのにプロローグとエピローグがやはり甘っちょろい。もっと中の話と関連づけてはどうかと思う。スローモーション(というか、コマ落としのような感じ)を多用しているのも目障りだ。アクセントとして用いるならともかく、こんなに多いと見にくいだけである。カーウァイ、自分に酔っているのではないか。

 中の話が良いのでそんなに悪い印象は持たなかったけれど、どうしても話のまとめ方に弱さを感じた。帰宅してIMDBで調べると、ブロックが映画の脚本を書いたのはこれが初めてらしい。なぜ書いたのか。パンフレットをざっと読んでみたが、どこにもその理由は書いてないようだ。

 パンフレットによれば、元々、この話は「花様年華」に入れるはずのものだったという。それがプロローグとエピローグの部分なのだろう。傷心を抱えて旅に出るっという設定までがカーウァイ独自のもので、中のエピソードをブロックが担当したのではないか。それにしてもミステリ風味はないし(、ニューヨークとアル中警官という2つの点だけがブロックらしいというのはもったいない。

 レイモンド・チャンドラーもヒッチコック映画の脚本は書いているので、ミステリ作家が映画の脚本を手がけるのはそんなに珍しいことでもない。それに映画は脚本通りに撮られるわけでもない。中の2つの話の厳しさをカーウァイが勘違いして甘くまとめてしまったのか。ブロックらしさのあった脚本をカーウァイが封じたのかもしれない。

 ちなみにこの映画のノベライズの翻訳はスカダーシリーズを訳している田口俊樹が担当している。ノベライズの方にはブロックらしい部分が残されているのか、気になるところだ。