2008/07/28(月)「ハプニング」

「ハプニング」パンフレット 不思議なのはなぜこの程度のアイデアの脚本でプロデューサーが映画化を決めたのかということだ。普通ならば、この思いつき程度のアイデアを補強するために脚本家は知恵を絞るだろう。どうやったらリアルなものにできるか、観客に信じてもらえるかを考えるはずだ。M・ナイト・シャマランの場合、それはさっさと放棄して、好意的に言えば、状況を語ることに力を注ぐ。だから魅力的な状況は描けてもネタを知らされたら、何それ、ということになる。どうもシャマラン、基本のアイデアではなく、シチュエーションを先に考えるタイプなのではないかと思う。この状況の説明のために何とか考えたのがこのリアリティー皆無のネタなのだろう。ま、「シックス・センス」の場合はネタが最初にあったのでしょうけどね。

 ニューヨークのセントラル・パークで人々が突然足を止め、ベンチに座っていた女性2人のうち1人が髪留めを外して自分の喉に突き立てる、という始まりはショッキングだ。それに続く、工事現場で人がバラバラと飛び降り自殺をするという場面も面白い。アメリカの東海岸一帯で人々が突然おかしくなり、自殺を始める。何らかの毒物が蔓延し始めたらしいというのが予告編で描かれたこと。ここから映画は一組の夫婦に話を絞り、街なかでの大状況から家族単位の小状況に話を移行させ、サスペンスを煽る。この手法は内容のバカバカしさと併せて「サイン」を思い起こさずにはいられない。

 終盤に登場するある人物がすべてのカギを握っていたという展開ならまだ良かったのかもしれないと思う。命からがら逃げた場所が状況の原因を作っている人物の場所だった、というシチュエーションはホラーなり、SFなりによくある設定である。これの方がまだ話に説得力があっただろう。シャマランもそれを思いついたのかもしれないが、それに説得力を持たせることができなくて放棄したのかもしれない、と想像してしまう。

 状況の面白さとアイデアの陳腐さが対照的なトンデモ映画の1本だと思う。シャマランにとってはこういう作品、「サイン」に続いて2本目だ。シャマラン、限りなく才能が枯渇していっているのではないか。

 パンフレットの監督インタビューで、映画で起こる現象について理由が明かされないのは意図的かと聞かれたシャマランはあきれたことを言っている。

 「この描き方は先鋭的だと思う。僕は、スタジオのために大作を作る、インデペンデントな映画作家だと自認している。これまでにないタイプの物語に挑戦できる立場にあるんだ」

 もう、バカかと思わざるを得ない。これが先鋭的だったら、世の中のクズ映画のほとんどは先鋭的だ。しかも理由がないのはヒッチコックの「鳥」と同じだなんて、たわけたことを言っている。この映画の問題はこれが起こりうる可能性を論理的に説明していないことなのだ。鳥が意図的に人間を攻撃することは現実にありうるが、この映画で起こることとの間には大きな開きがある。それが認識できていないとは、シャマランの頭の中は腐っているようだ。

2008/07/11(金)「タロットカード殺人事件」

 「世の中ウソばかりじゃない。ほとんどウソだけど」。

 ウディ・アレンのセリフの9割近くはジョークだった。まあ、死んだ記者が死に神の船の中で特ダネを知り、それを伝えるために現世へ逃げ出し、記者志望の女子大生(スカーレット・ヨハンソン)に伝えるという設定からしてジョークに近い。というか、アレンはその小説を読んでも分かるようにこうしたSFチックな奇想の系譜に属する作品がある。短編小説では名手と言って良い腕前ですからね。映画では「カメレオンマン」とか「ニューヨーク・ストーリー」の中の1本とか「ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう」とかが思い浮かぶ。

 もっともこの映画、出だしは奇想だが、その後の展開は殺人事件の容疑者に接近した女性が恋に落ちてしまうというよくあるもの。それを救っているのはアレンのジョークとヨハンソンのコケティッシュな魅力か。偽の親子に扮して容疑者の貴族(ヒュー・ジャックマン)に接近する2人のでこぼこコンビぶりが楽しい。「生まれた時はユダヤ教だったが、その後ナルシスト教に変わった」とかユダヤ関連のジョークも相変わらず多い。というわけで僕はまあまあ面白く見た。

2008/07/05(土)「いのちの食べかた」

 クライマックスは牛の解体。それまでに鶏や豚の解体を見ているので、なんてことはないと思っていたが、やはり屠殺の仕方から牛の場合は違う。「ノーカントリー」でハビエル・バルデムが使っていたような屠殺銃を額に押し当てられて牛は一瞬で殺される(と思ったが、あの段階ではまだ死んでいず、失神しているだけらしい)。その直前にガタガタ体を震わせるのは自分の運命を知っているからだろう。その後の流れ作業は鶏や豚の場合とあまり変わらない。皮を剥ぎ、内臓を取り出し、切断していく過程がてきぱきと行われていく。

 豚の場合は電気棒のようなもので、屠殺機の中へ追い立てられ、出て来た時には死んでいる。牛でこういう屠殺の仕方ができないのは体が大きいからなのだろうか。屠殺の過程さえ、自動化してしまえば、牛の解体に感じた残酷さは感じなくなるのかもしれない。実際、死んでワイヤーに吊されたシーンから豚も鶏もおいしそうに見えてくる。

 食肉過程に残酷さを感じないのはすべてが流れ作業で機械化されているからだろう。豚は腹を切り裂く過程さえ、機械で行われている。豚で残酷さを少し感じたのは大きなハサミで足をパチンパチンと切断していくシーンのみ。作業の多くの場面で女性が参加しているのも面白いが、牛の解体に女性がいなかったのはやはり豚や鶏に比べて残酷さを感じる過程が残っているからだろう。

 原題は「Unser taglich Brot」(Our Daily Bread=私たちの日々の糧)。食肉の製造過程だけでなく、野菜や果物、魚などがどう生産され、加工されていくかをランダムに見せる。音楽もセリフもなく、生産過程をそのまま見せることがニコラウス・ゲイハルター監督の意図だったという。豚から野菜に行き、豚に戻り、魚に行くといったランダムな見せ方が映画のポイントで、余計な説明がないのは潔いが、最小限の字幕ぐらいはあっても良かったのではないかとも思う。ひよこに予防注射をしている場面とか子豚の去勢のシーンなどは説明されないと分かりにくいのではないか。

 ゲイハルターは「僕が特に興味を持つのは、『なんでもかんでも機械で出来る』という感覚や、そういった機械を発明しようという精神、それを後押しする組織です。それは、とても怖い感覚で、無神経でもあると思います」と語っている。機械化・自動化によって命を感じさせないことへの批判と受け取れるが、実際に毎日働いている人に命を断つことの重みを感じさせていたら、作業は成り立たないだろう。部分的に作業をやっているからできるのであって、あの過程に参加する数の人間がそれぞれ屠殺から解体まですべて一人でやることは不可能に近い。

 牛の解体をクライマックスに持ってきたのは命を最も感じさせる処理であるからにほかならない。これに比べれば、野菜の生産現場の描写などは付け足しとも思え、牛の人工授精から解体までを詳細に描くだけでも映画として成立するだろう。監督の意図を実現するには牛の解体だけで事足りるのである。ただし、そうなったら重すぎる映画になるのかもしれない。野菜や果物のシーンにも農薬の問題などは含まれているけれども息抜き的な効果の配慮もあるのだろう。