2016/05/28(土)「ルーム」

「ルーム」パンフレット

 狭い部屋に7年間監禁された母親ジョイ(ブリー・ラーソン)とその子どもジャック(ジェイコブ・トレンブレイ)。ジャックは5歳になったばかりだ。ジョイはこの部屋でジャックを産んだ。ジャックの父親はジョイを拉致した犯人でオールド・ニック(ショーン・ブリジャース)と呼ばれる(本名は分からない)。部屋の中で物語が進行する前半を見ながら思ったのは、この状況は暴力的な夫から支配され、逃れられない母子と容易に置き換えられるということ。そして、部屋の中が世界のすべてと思っている子どもはSFにありそうな存在だということだ。

 エマ・ドナヒューの原作は部屋の中を描く「インサイド」と脱出後を描く「アウトサイド」の構成になっているそうだ(この原作、2014年に文庫が出たが、現在絶版で読めない。映画公開に合わせて復刊できないのは出版不況のためか)。ブッカー賞の候補になったという原作が面白いのだろうが、この構成を踏襲した映画も見ていて前のめりになるぐらい面白い。前半と後半で面白さの質も異なる。

 部屋は3.3平方メートルしかないらしい。トイレと浴槽、台所設備はあるが、窓は空しか見えない天窓だけ。ドアは暗証番号を入れないと開かない。閉所恐怖症の人には耐えられないような狭さだ(ジョイが大声で叫ぶ場面がある)。外の世界を知らないジャックはテレビの内容を本物ではないと思っている(そう教えられている)。本物なのは自分と母親だけ。ジョイはそんなジャックを頼みにして「モンテ・クリスト伯」を参考に脱出計画を立てる。

 この中盤の場面がとてもスリリングで感動的だ。高熱を出した(ふりをした)後、オールド・ニックに死んだと思わせたジャックは絨毯にぐるぐる巻きにされてピックアップトラックに乗せられる。走り始めて3回目に一時停止したところでトラックを飛び降りるが、オールド・ニックに気づかれ、捕まってしまう。そこに通報を受けた警官がやって来る。女性警官パーカー(アマンダ・ブルーゲル)はジャックの話を根気よく聞いて、母親が監禁されているらしい場所の手がかりを得るのだ。

 ここから映画は社会に復帰した母子を描く。ジョイの両親(ウィリアム・H・メイシー、ジョーン・アレン)は離婚し、母親は別の男と暮らしていた。17歳で拉致され、社会と隔絶された7年間を過ごしたジョイは徐々に精神的にまいっていく。ジャックは初めて知る世界の大きさを少しずつ理解し始める。ジョイの父親は犯人の子どもであるジャックをまともに見られない。ジョイは7年間を耐えられたのはジャックがいたからこそで、ジャックに父親はいないと思っている。映画がキワモノにならず、心を揺さぶる作品に仕上がったのは母子を見つめ続ける視点に揺るぎがないからだ。

 「ショート・ターム」(2013年)で注目されたブリー・ラーソンはこの映画でアカデミー主演女優賞を受賞した。確かに好演しているが、同賞にノミネートされた「キャロル」のケイト・ブランシェットや「さざなみ」のシャーロット・ランプリングに比べて演技的に際立って優れたところはないように思う。映画の出来がとても良かったことが受賞につながったのではないか。ラーソンよりもジャックを演じたジェイコブ・トレンブレイの方が映画を支えている感じだ。監督はこれが長編5作目のレニー・アブラハムソン。脚本に原作者が加わったことも功を奏したのだろう。

2016/05/10(火)「モンスターズ 地球外生命体」

 「GODZILLA ゴジラ」のギャレス・エドワーズ監督が注目された低予算のSF。2010年公開。KINENOTEには「1万5千ドルの低予算ながら、カンヌ国際映画祭で上映され絶賛されたパニック映画」と書いてあるが、怪獣もちゃんと出てくるし、この内容を1万5000ドルで作るのは無理だ。絶賛というのもオーバーな表現ではないか。Wikipediaを見ると、「設備機材費は1万5千ドルで、製作費は50万ドル」とあった。

 太陽系に地球外生命体の存在を確認したNASAが探査機でサンプルを採取するが、大気圏突入時にメキシコ上空で大破。地球外生命体が増殖し、メキシコの半分は危険地帯として隔離される。6年後、モンスターの写真を撮りにメキシコを訪れたカメラマンのコールダー(スクート・マクネイリー)は手にけがをした社長令嬢のサマンサ(ホイットニー・エイブル)をアメリカまで送り届けるよう上司から命令される。フェリーで帰ろうとしたが、パスポートとチケットを盗まれたために2人はフェリーに乗れず、危険地帯を通る陸路を進むことになる。

 モンスターはタコみたいな造型。低予算のため、街の破壊シーンなどはない。クライマックスの描き方は「GODZILLA ゴジラ」のムートーを思わせた。ムートーはこれを発展させたものなのだろう。映画の作りは正統的でそこが評価された要因か。

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2016/05/09(月)「スポットライト 世紀のスクープ」

「スポットライト 世紀のスクープ」パンフレット

 カトリック教会の神父による児童への性的虐待と教会の組織的な隠蔽を調査報道したボストン・グローブ紙の実話。記者たちが一大スキャンダルを調査するという点で「大統領の陰謀」(1976年)を思い浮かべたが、監督のトム・マッカーシーも映画化の際に「大統領の陰謀」を参考にしたそうだ。そして「大統領の陰謀」と同じく、この作品もアカデミー作品賞を受賞した。

 しかし、この映画は「大統領の陰謀」以上に胸を打つ。それは題材がワシントンポスト紙のボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインが追及したウォーターゲート事件よりも身近であり、被害者が圧倒的に多いからだ。記者たちは被害者に会い、子ども時代に受けた傷が未だに影響していることを知る。中には自殺した被害者もいた。記者たちが突き動かされたのは単純な正義感ではない。権力をかさに貧困家庭の少年少女に標的を絞った汚いやり口への嫌悪感、信者の信頼を裏切る事件を隠蔽してきた教会への怒り、過去に事件を大きく取り上げてこなかった自分たちへの後悔などがないまぜになったものだ。

 「スポットライト」とは同紙の特集記事で、4人の記者が担当している。2001年、ニューヨーク・タイムズのマイアミから編集局長としてマーティ・バロン(リーヴ・シュレイバー)が赴任してくる。バロンから指示された4人は神父の性的虐待事件を調べ始める。その神父、ゲーガンは30年間に80人の児童に性的虐待をした疑惑が持たれていた。事件を調べるうちに、虐待をした神父はゲーガン以外にもおり、それが想像以上に多いことが分かってくる。教会は事件を起こした神父を異動させ、被害者の家族と裁判所を通さない示談を行い、事件の表面化を防いできた。教会の組織的な隠蔽を暴き、事件の再発防止を図るため、チームは資料を調べ、地道な取材を積み重ねていく。

 4人の記者はチームのリーダー、ウォルター”ロビー”ロビンソン(マイケル・キートン)、熱血漢で粘り強いマイク・レゼンデンス(マーク・ラファロ)、被害者に寄り添うサーシャ・ファイファー(レイチェル・マクアダムス)、データ分析担当のマット・キャロル(ブライアン・ダーシー・ジェームズ)。作品賞を取りながら、だれも主演賞にノミネートされなかった(ラファロとマクアダムスが助演賞ノミネート)のは、この調査報道が1人の功績ではなく、チームの共同作業およびそれをバックアップしたボストン・グローブ全体の成果として描いているからだろう。

 4人はそれぞれに好演しているが、毅然とした編集局長を演じるリーヴ・シュレイバーが一番の儲け役かもしれない。事件への過去の対応を悔やむロビーに対して、バロンは言う。「我々は暗闇の中を手探りしながら歩いている。光が差して初めて間違っていたことに気づく」。ジャーナリズム云々の前にこれは組織を描いた映画として見ることができる。

 欧米で教会の権力は大きく、その信者も多い。さまざまな圧力と妨害を受けながら、記者たちが真実にたどり着くまでをトム・マッカーシー監督は緊密なタッチでまとめた。ハワード・ショアの音楽も相変わらず一級品だ。

 新聞をまねた体裁のパンフレットに「『スポットライト』の後、何が起こったのか」という文章を町山智浩さんが書いている。それによると、「2002年から全世界で報告された神父によるレイプは4000件におよび、800人が神父の資格を剥奪され、2600人が職務永久停止処分を受けた。カトリック教会が支払った賠償の額は2012年には26億ドルを超えた。多くの教区が破産した」。報道の影響はウォーターゲート事件以上なのではないか。

2016/05/06(金)「キャロル」

「キャロル」パンフレット

 パトリシア・ハイスミスの原作を読んでから見たので、ダイジェスト感がそれなりにあったが、脚本が物語のセリフの多くを作り直していることに感心した。原作のプロットを追いながら、セリフの9割ぐらいはオリジナルではないか。主人公テレーズ(ルーニー・マーラ)が目指している仕事も違い、原作では舞台美術家だが、映画では写真家だ。このほか、原作にはないエピソードや描写を織り交ぜていながら、映画は原作通りという印象を与える。フィリス・ナジーの脚本は本筋を誤っていない。

 結論から言うと、同じトッド・ヘインズ監督で同じく50年代を描き、同性愛がモチーフの一つにあった「エデンより彼方に」(2002年、ジュリアン・ムーアがアカデミー主演女優賞を受賞した)ほどの充実度はない。しかし50年代を再現した美術とファッション(衣装デザインは「エデン…」と同じサンディ・パウエル)、主演2人の的確な演技によって見応えのある映画になっている。

 原作はハイスミスがデビュー作「見知らぬ乗客」の次、1952年に出版した第2作。同性愛を扱ったためにクレア・モーデン名義で出版されたが、1年後に出たペーパーバック版は100万部のベストセラーとなったそうだ。デビュー2作目とは思えないほどうまい小説で、描写の隅々や登場人物の造型、ハイスミスらしいサスペンスでぐいぐい読ませる。何より女性同士の恋愛を普通のラブストーリーとして描いたのが当時としては画期的だったのだろう。ハイスミスの名前で出版するにはそれから40年ほどかかった。

 映画は原作よりもLGBTへの偏見の問題を前面に出している。テレーズはマンハッタンの高級百貨店フランケンバーグのおもちゃ売り場でアルバイトをしている。クリスマス間近のある日、毛皮のコートを優雅にまとった美しい女性(ケイト・ブランシェット)がやってくる。その女性、キャロル・エアードは4歳の娘リンディへのプレゼントを買いに来た。この出会いの場面はハイスミスが原作を書くきっかけになった実体験に基づいており、テレーズがキャロルの美しさに目を留め、そして視線が合う描写が印象的だ。この描写はラストシーンにつながっている。テレーズはキャロルが売り場に忘れた手袋をクリスマスカードとともに郵送する。数日後、キャロルが電話をかけてきて、テレーズを昼食に誘う。そこから2人の交流が始まる。キャロルは郊外の屋敷に住んでいるが、夫のハージ(カイル・チャンドラー)とはリンディの親権を巡って離婚協議を進めていた。

 離婚理由の一つはキャロルの同性愛にあり、キャロルは幼なじみのアビー(サラ・ポールソン)と過去にそういう関係にあったことが示唆される。社会全体が同性愛を異常なものとしてとらえていた保守的な時代、離婚調停でも道徳的規範が持ち出され、親権の行方はキャロルに不利な状況にある。キャロルはテレーズを誘って、西部への旅行に出かける。

 キャロルとハージの言い争いや離婚協議での口論は原作にはない。いや、同じ場面はあるが、映画の方がどちらの場面も激しく、LGBTの問題を浮き彫りにしている。それが60年以上前の原作を映画化する意味でもあるのだろう。1950年代より随分ましとはいえ、偏見はなくなっていないのだ。ゲイを公言しているヘインズと恐らく同性愛者のフィリス・ナジーはここに自身の主張を込めたのだろう。

 ルーニー・マーラは相変わらず良い。マーラから美貌のひとかけらか、ふたかけらを取りのぞき、憂いの表情を葬り去ると、オードリー・ヘップバーンになる感じだ。「なんてきれいなの」とキャロルが感嘆するシーンがあるけれども、その通りだった。

 旅行の途中、ウォータールーを訪れたキャロルが「ひどい名前ね」と言う場面がある。原作によると、ウォータールーには「挫折、失敗の意味がある」のだそうだ。