2015/06/21(日)「マッドマックス 怒りのデス・ロード」

 「マッドマックス」第3作の「サンダードーム」から実に30年ぶりの第4作。直接的には「マッドマックス2」の世界観を受け継いでいる。石油と水が枯渇しそうになった核戦争後の世界で民衆を暴力で支配する集団から逃走する女たちとそれに協力するマックスの戦いを描く。

 シンプルな復讐譚に圧倒的なスピード感を加えた第1作が好きだったので「マッドマックス2」に僕は違和感を覚えたが、一般的な評価は「2」の方が高く、「北斗の拳」に強く影響したことでも知られている。僕が「2」にあまり乗れなかったのは世界の描き方が不足していたからだ。荒廃した世界でのアクションというと、まず永井豪「バイオレンスジャック」があるし、あの傑作漫画の世界観に比べれば、「2」は世界の構築が甘い。その上、アクションが炸裂するクライマックスまで延々と待たされた感があった。マックスがアクションに動く動機も殺された妻子の復讐という第1作に比べて弱いと思った。

 「怒りのデス・ロード」は「2」に比べて予算が大幅に増額されているようだ。悪の集団のボス、イモータン・ジョーやその息子の造型は「サンダードーム」にあったようなフリークス趣味で、世界の描き方もビジュアル的にはまずまず。それでもまだ広がりが足りないのはジョージ・ミラー監督が世界の構築よりもアクションの構築に主眼を置いているからだろう。最初から最後までほとんどアクションという構成は悪くない。ひたすら感心するような場面は実はなかったのだが、この激烈なアクションには見応えがあり、30年ぶりに作った価値は十分にあったと思う。ジャンキー・エックスウェルの音楽がとても効果的だ。

 メル・ギブソンからマックス役をバトンタッチしたトム・ハーディは可もなく不可もなし。もう少し個性があると、映画が締まったのではないかと思う。その代わりに、片腕の女戦士フュリオサ(シャーリーズ・セロン)が良い。アクションだけでなく、故郷を喪失したと知って砂漠で慟哭する姿などは胸を打つ。さすが、セロン。

 ジョージ・ミラー監督はキネ旬7月上旬号のインタビューで「音やセリフではなく映像で語る、ヒッチコック的アプローチ」を取ったと語っている。序盤にセリフが少ないのはそういう理由で、確かにセリフなしでも分かる展開だった。ただ、僕は見ていてヒッチコックよりもサイレント映画のアクション・コメディをぼんやり思い浮かべていた。

2015/06/11(木)「スティーヴン・キング ファミリー・シークレット」

 原作の「素晴らしき結婚生活」はBTK(緊縛・拷問・殺害)殺人鬼と言われる実在のシリアル・キラーをヒントにスティーブン・キングが書いた中編(「ビッグ・ドライバー」所収)。結婚25年目にして夫が殺人鬼であることを知る妻の話である。キング自身が脚本を書きながら、原作より劣る出来になるのはどういうわけだろう。この原作自体、傑作が多数あるキング作品の中では特に優れているとは言えないのだが、映画に比べれば面白い。

 終盤のシーンが原作と少し違う。原作と同じセリフに落ち着くのだけれど、余計と思えるエピソードを付け加えている。これは別になくても良かったのではないか。主人公は原作ではジョアン・アレンより若いイメージがある。シリアル・キラーを描いた割に描写はおとなしく、映画館で上映するには地味な作品に思える。ケーブルテレビ用の作品なのではないかと思って調べたら、アメリカでも限定公開後にDVDリリースされていた。劇場で本格的に公開するレベルには達していないというわけだ。

2015/05/10(日)「イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密」

 アカデミー脚色賞を受賞したこの映画の若き脚本家グレアム・ムーアは授賞式のスピーチでこう話した。

 「主人公アラン・チューリングはこんな大舞台で表彰されなかった。でも僕はここにいる。なんて不公平なんだ。だから短い時間だけど、一つだけ言わせてほしい。

 僕は16歳で自殺未遂をした。自分の居場所がないような気がして。それが今ここに立っている。

 だから、自分は変わり者で居場所がないと感じている若者たちへ。そのままの自分で大丈夫、輝くときがくる」

 映画の中で2度繰り返されるセリフ、「誰も想像しないような人物が誰もできなかったような偉業を成し遂げる」というセリフはムーアの強い思いを託したものなのだろう。

 変わり者で孤独な天才数学者アラン・チューリング(ベネディクト・カンバーバッチ)を主人公にナチス・ドイツの暗号エニグマを解読する英国チームの物語。この映画の成功はムーアの素晴らしい脚本が一番の要因だ。ムーアはチューリングの生い立ちを絡めながら、暗号解読の過程を描き、同時に空襲にさらされる戦時下のロンドンを点描し、チーム内の人間関係によりスパイ映画のようなサスペンスとミステリの要素を取り入れている。仲間と入った酒場でエニグマの復号キーに気づく場面のドラマティックな描写、終盤の悲劇的な展開、さらに心を揺さぶるエピソードをちりばめてあり、エンタテインメント映画の脚本としてまったく欠点の付けようがない。設計図がここまで完璧ならば、映画の成功はほぼ決まったようなものだ。

 映画の序盤、仲間から昼食に誘われたチューリングの不器用で頓珍漢な受け答えを見ると、どうもチューリング、アスペルガー症候群か、少なくとも広義の自閉症スペクトラムだった可能性がある。他人の言葉を字義通りに受け取り、裏の意味が読み取れないチューリングは周囲に理解されず、孤独は深かっただろう。だからこそ、パートナーとなったジョーン・クラーク(キーラ・ナイトレイ)の存在が心にしみる。ジョーンはチューリングの人柄と才能を理解し、仲間と仲良くするようアドバイスする。「ジョーンに言われた」と言って林檎を配るチューリングに対して仲間が打ち解けていく場面はハートウォーミングな良い場面だ。

 チューリングの暗号解読によって、戦争終結が早まり、1400万人の命が救われたとされる。暗号解読器(クリストファーと呼ばれる)のチューリングマシンはコンピューターの原型となった。しかし、戦後、暗号解読器は廃棄され、チューリングの功績は長い間、世間に知られないままだった。戦後のチューリングの運命には涙を禁じ得ない。不運なチューリングの名誉が回復されたのは2009年だという。

 シャーロック・ホームズ役でブレイクしたカンバーバッチはホームズのように天才的なチューリングを繊細に演じてアカデミー主演男優賞にノミネート。パズルを解くことに抜群の才能を見せ、女性の社会進出が難しかった時代に自立した意識を持ったジョーンを演じたナイトレイは助演女優賞にノミネートされた。この映画は閉鎖的な時代と人を阻む壁にもがき、抗う2人を描いた映画でもある。ムーアはチューリングの生涯にかつての自分を重ねたに違いない。だからこんなに胸を打つドラマに仕上がったのだろう。

2015/05/09(土)「フォックスキャッチャー」

 アメリカでは有名な事件らしいので予告編でも描かれているし、紹介記事にも書かれていることだが、僕はどういう事件か知らずに見た。そしてクライマックスで驚くことになった。そういう事件だったのか。この犯人はサイコパス(精神病質)じゃないか(実際には統合失調症だったとのこと)。そういう話であるのなら、大富豪でありながら何を考えているのか分からない男を演じるスティーブ・カレルの演技にも十分納得がいく。

 カレルはデュポン財閥の御曹司でアマチュアレスリングで金メダルを取る選手を育てることに意欲を燃やすジョン・デュポンを演じ、アカデミー主演男優賞にノミネートされた。ジョンはロス五輪レスリングの金メダリスト、マーク・シュルツ(チャニング・テイタム)にソウル五輪で金メダル獲得を目指すチーム(これがフォックスキャッチャーと名づけてある)に入るよう誘う。マークは金メダリストでありながら苦しい生活を送っていた。質素なアパートでインスタントラーメンを食べる姿がわびしい。アメリカではアマチュアレスリングが盛んとは言えないので、金メダリストであってもああいうものなのだろう。マークは参加するが、妻と2人の子供を持つ兄のデイヴ(マーク・ラファロ)は誘いを断る。ジョンの豪華な邸宅の敷地内に住まいと練習場が整備され、最初はうまくいっていたマークとジョンの関係は次第に険悪なものに変わっていく。

 この険悪な関係になる理由を映画は明確には描いていない。2人の間に同性愛の関係があることを匂わせるのだが、それもはっきりしない。マークとデイヴの兄弟が映画の冒頭、練習場で組み合う場面からそういう雰囲気は立ちこめている。ただし、実際にはマークに同性愛の気はなかったそうだし、ジョンとの関係もそうではなかったという。つまり映画の脚色なのだが、これも含めて3人の関係を子細に見つめ、微妙な感情の揺らぎを描いた脚本の出来は見事と言って良い。

 この3人を描く一方で映画はジョンと母親(バネッサ・レッドグレイブ=そこにいるだけで貫禄の演技だ)の関係を浮かび上がらせる。一流の競走馬を所有する母親は息子も息子が好きなレスリングもバカにしている。ジョンはそんな母親になんとか認められたいと思っている。練習の見学に来た母親の前で急に選手を指導するふりをするジョンの姿が悲しい。ノーマン・ベイツのように喜怒哀楽を表に出さないジョンはノーマン・ベイツのようにマザーコンプレックスなのだろう。

 ベネット・ミラー監督作品としては「カポーティ」「マネーボール」を超えて最も良い出来だ。スティーブ・カレル、チャニング・テイタム、マーク・ラファロの演技がいずれも充実している。特にカレルの演技が素晴らしい。

2015/05/04(月)「セッション」

 名門音楽大学にあるジャズのビッグバンドの厳しい指導者とジャズドラマーを目指す生徒をめぐる話である。見終わって思い浮かべたのは「アマデウス」。ただし、この映画にはアマデウスことモーツァルトは登場しない。出てくるのはサリエリ(以下の人々)である。天才がいなくなった(出てこなくなった)世界で天才の域に達することは金輪際ないであろう2人の凡才が敵対する話。そう受け止めてまず間違いではない。

 天才には確かにインスピレーションのほかに汗が必要なのだろうが、ここで教師フレッチャー(J・K・シモンズ=アカデミー助演男優賞受賞)が要求する汗は多分に間違っている。フレッチャーの低俗で独善的な人間性があらわになるクライマックスで監督・脚本のデイミアン・チャゼルはそう言っているように思える。厳しい教師には立派な人間性を備えていてほしいものだが、それは幻想なのだろう。主人公のアンドリュー(マイルズ・テラー)もまた自分のジャズの道に邪魔になるからという理由でガールフレンドに別れを切り出すバカで浅はかな男なのだから救いようがない。天才が登場しないのと同じ意味合いで映画には正義も真っ当な人間も登場しない。結局、俗物同士の対決の映画なのだ。

 罵詈雑言を吐き、生徒の人間性を徹底的に否定する教師の姿は「愛と青春の旅立ち」のルイス・ゴゼット・ジュニアかと思ったら、「フルメタル・ジャケット」のR・リー・アーメイになり、さらにその先まで行っているところが映画の新しさ。これは音楽ドラマである前にとても興味深い人間ドラマだ。どうもこの映画、というか監督には人間不信が根底にあるようだ。そういう部分がこの先鋭的なドラマを生んだ要因かもしれない。

 先鋭的だから面白いのかと言われれば、そうでもなかった。これ、ジャズでなくても成立する話であり、そこに普遍性があって良く出来ていると思うのだけれど、映画が面白くなるのとは別次元の話であったりする。プロの音楽家からはこの映画の音楽の部分について酷評が出ている。しかし、一般人にはほぼ分からないので支障はない。プロの指摘は映画をリアルにする上では有用だけれども、音楽がダメだからといって映画全体がダメになるわけでもない。

 フレッチャーは「グッジョブ」という言葉が、天才が出なくなった理由だと言う。安易な褒め言葉は人をダメにするという信念の持ち主なのだ。それは一面で真理ではあろうと思うが、「褒めて育てる」という言葉もありますからね。軍隊式の厳しさだけでは天才は生まれない。軍隊式を結局否定しているという意味ではこの映画、「愛と青春の旅立ち」「フルメタル・ジャケット」と共通しているのだった。デイミアン・チャゼル監督にあるのは人間不信ではなく、軍隊不信なのかもしれない。