2017/03/30(木)「キングコング 髑髏島の巨神」

 後半の展開が惜しい。いや、展開がないのが惜しい。ここに新しい話が出てこないので、怪獣プロレスの域をまったく出ないのだ。後半の退屈さはすべて新たな展開(アイデア)がないことに起因している。

 1944年、ある島に戦闘で墜落した米軍と日本軍のパイロットが戦っていると、突然、崖の下から巨大な猿が姿を現す。この冒頭から、時代はニクソン大統領がベトナム撤退をアナウンスする1973年に飛ぶ。観測衛星ランドサットによって、その島(スカルアイランド=髑髏島)が発見され、巨大生物の存在が確認されたことから、ベトナム撤退直前の米軍ヘリ部隊が政府の特務機関モナークとともに島へ向かう(監督のジョーダン・ボート=ロバーツはこの映画について、怪獣映画×「地獄の黙示録」と言っている)。という序盤はとても面白い。

「キングコング 髑髏島の巨神」パンフレット

 島に着いてすぐに、ヘリはすべてキングコングからたたき落とされる。そんなに近くを飛ばなきゃいいのに、というのは言わないお約束だ。コングだけではなく、この島には多数の怪獣がいた(閉ざされた島の大きな生物は体が小さくなるという一般的な進化の法則も言わないお約束だ)。ここから脱出するためには3日後に島の北部で落ち合うというあらかじめ決めていた作戦通りに北へ向かう必要がある。ヘリの墜落で2手に分かれた部隊はそれぞれ北へ向かうことになる。

 主人公で元SASの傭兵コンラッド(トム・ヒドルストン)、写真家のウィーバー(ブリー・ラーソン)らの一行は途中で原住民と一緒に暮らすマーロウ(ジョン・C・ライリー)と遭遇する。このマーロウが冒頭に出てきたパイロット。マーロウによると、コングは島の守り神で、地下につながる穴から出てくるトカゲの怪獣(スカル・クローラー)から島を守っているという。一方、パッカード大佐(サミュエル・L・ジャクソン)が率いる米軍チームはコングを倒そうとしていた。

 周囲が猛烈な嵐に覆われているため衛星からしか見つけられなかった島というのは怪獣映画としてクラシックな舞台設定だ。1933年の「キング・コング」でもスカルアイランドは巨大生物の巣窟だったから、この島の設定は1933年版を踏襲している(1933年版の設定はコナン・ドイル「失われた世界」よりも、時期から考えると、エドガー・ライス・バローズ「時間に忘れられた国」の影響ではないかと思う)。この島にベトナム戦争のヘリ部隊を向かわせるのはジョーダン・ボート=ロバーツ監督の趣味以上のものではないようだ。インタビューで監督はどういう映画だったら友だちに進められるかを考えた時に浮かんだのが「ジャングルにナパーム弾を投下するヘリ軍団の前に、夕日をバックにそびえ立つコングのイメージ」だったと語っている。ただ、「地獄の黙示録」を思わせるオープンリールのテープレコーダーを搭載してはいても、ヘリから「ワルキューレの騎行」は流れない。

 「シン・ゴジラ」は怪獣映画に斬新さをもたらしたけれど、クラシックな設定であっても今のVFX技術で作れば怪獣映画は面白くなる。この映画の前半を見ていると、そう思える。しかし、この映画、設定を作っただけでそれ以後の話に深みがないのだ。観客は怪獣プロレスを見せておけば喜ぶとでも思っているのか、ジョーダン・ボート=ロバーツ。

 エンドクレジットの後に今後の展開が示唆される。モスラ、キングギドラとゴジラを戦わせるのは本気らしい。そしてその後にゴジラとキングコングが戦うことになる。しかし、ゴジラが地球環境の守護神で、キングコングもまた正体不明のトカゲ怪獣から島を守る守護神であるならば、どちらも同じようなタイプであり、両者が戦う必然性はないような気がする。どういう展開にするのか、楽しみに待ちたい。

2017/03/05(日)「最期の祈り」

 Netflixオリジナル作品で「ホワイト・ヘルメット」と同じくアカデミー短編ドキュメンタリー賞にノミネートされた。原題はExtremis。監督はダン・クラウス、上映時間24分。カリフォルニア州オークランドにあるハイランド病院の終末期医療の現場で人工呼吸器をして延命するか、外すかの選択をする患者とその家族、医師たちの苦悩を描く。

 気管に挿管した人工呼吸器はかなり苦しいようで、外すのを防ぐため患者は拘束してある。ここからの選択肢は2つ。気管を切開して人工呼吸器を付けたまま生きるか、外して死を待つか。外せば2、3日の命だという。

 日々、どこかの病院で行われている選択だが、こんなにつらい選択もない。家族にとってはどんな状態でも生きていてほしいと思うものだが、患者にとって苦しい状態をそのままにしていいのか。患者が外してくれと言っても、医師たちは「正常な判断ができているかどうか、分からない」と悩む。胸をかきむしられるような作品だ。

 驚いたのは救急車の費用。「救急車を頼むと2000ドルかかるので車で運んだ」と家族の1人が言う。アメリカの救急車は民間が行っているが、そんなにかかるとは知らなかった(タクシー同様、距離で費用は異なるようだ)。高規格救急車だから緊急時には確かに一命を取り留めるのに効果があるだろうが、この費用を知って救急車を呼べるのは高額所得者だけではないか。

2017/03/04(土)「ホワイト・ヘルメット シリアの民間防衛隊」

 第89回アカデミー賞短編ドキュメンタリー賞受賞作(映時間41分)。Netflixで昨年9月から公開されている。ホワイト・ヘルメットとは空爆で破壊された建物の瓦礫に埋まった人たちを救助する民間組織で、防衛隊というより救助隊の方が正確だろう。

 シリアのアレッポが舞台。いきなり大きな爆音が轟く。ロシア軍の空爆だ。ホワイト・ヘルメットのメンバーは誰よりも速く現場に駆けつけ、救助活動を開始する。空爆の犠牲者の中には幼い子どももいる。担架に乗せられた父親に「死なないで」と泣き叫ぶ子どもの姿もある。空爆下の状況をリアルに記録していて、よくこんな撮影ができたなと思えるが、ホワイト・ヘルメットのメンバーにカメラを預けて撮影してもらったのだそうだ。シリアは外国人が入ると、拉致される恐れもあるのでこれは当然か。

 空爆の恐怖は凄まじく、見ていると何とかしなければという気になる。映画の最後に2013年以降、ホワイト・ヘルメットは130人の隊員が死に、5万8000人を助けたと字幕が出る。当然のことながらこの数字は日々増えていて、アカデミー賞の受賞スピーチでオーランド・ボン・アインシーデル監督は「8万2000人が救助された」と言っていた。

 ホワイト・ヘルメットはノーベル平和賞の候補になったそうだが、中立・不偏ではなく、反体制派の色合いが強いという指摘もある(「ホワイト・ヘルメット」をめぐる賛否。彼らは何者なのか? ニューズウィーク日本版)。しかし、人命救助活動に当たっていることは間違いないし、シリア問題の早期解決を図らなくてはいけないことも事実だ。ハリウッド屈指のリベラル派俳優ジョージ・クルーニーはホワイト・ヘルメットの実話の映画化を企画しているそうだ。

2017/03/01(水)「ラ・ラ・ランド」

 「僕にとって重要なのは、夢を追う者たちの映画を作ることだった。大きな夢を持つふたり。その夢が彼らを突き動かし、彼らを一緒にし、そして別れさせもするんだ」

 デイミアン・チャゼル監督はインタビューでそう語っている。タイトルの「ラ・ラ・ランド」はロサンゼルス、あるいは夢の国を意味する。映画はそのタイトル通りの内容で、歌と踊りを交えながら夢を追う若い2人のドラマを描いていく。そしてこちらの感情をグラグラ揺さぶるのは歌や踊りのシーンではなく、この核となっているドラマの方だ。夢だけではなく、現実の厳しさを併せ持った大人視線のドラマが素晴らしいからこそ、この映画は多くの観客の支持を集めて成功したのだと思う。

「ラ・ラ・ランド」パンフレット

 冬から冬までの物語(その後にエピローグと言うべきエピソードがある)。冒頭、ロサンゼルスのフリーウェイで渋滞した車のドライバーたちが次々に外に出て歌い踊り始める。曲はリズミカルな「アナザー・デイ・オブ・サン」。カットを割らずに踊り手にクローズアップしたり、クレーンを使ったりして、ワンカットで描かれる楽しくて躍動的なオープニングだ。この渋滞の中にミア(エマ・ストーン)とセブ(ライアン・ゴズリング)がいて、2人は最良とは言えない出会いをする。ミアは女優を夢見て、カフェで働きながらオーディションを受け続けている。セブは自分の店を持つのが夢のジャズピアニスト。2人の境遇を描く冬のパートに続いて、春のパートがa-haの「テイク・オン・ミー」のメロディーで始まる。

 3度目の出会いをした2人の間には恋が芽生え、夏のパートでそれが燃え上がる。ロスの夜景が美しい高台で2人がタップダンスを踊る「ア・ラブリー・ナイト」はロマンティックでキュート、とても愛らしく微笑ましい。歌と踊りのベストシーンだ。セブは知人のミュージシャン、キース(ジョン・レジェンド)に誘われ、バンドのキーボードを担当することになる。ジャズではないので望まない仕事だったが、ミアとの将来を考えた上での決断だった。

 そして秋(Autumnではなく、Fall)。バンドが売れて忙しくなったセブと、ミアはすれ違いが多くなる。夢を捨てたかのように見えるセブに対して、ミアは怒りをぶつけてしまう。オーディションを落ち続けていたミアは2次のオーディションに進むが、演技をする間もなく簡単に落とされる。ちょっと抵抗しそうになって考え直し、「ありがとう、楽しかったわ」と礼を言うミアの姿が切ない。ここからの展開に胸を打たれた。この後、ミアには残酷で大変な失意のシーンがあるが、ミアはセブの励ましでそれを乗り越えていくのだ。

 主演のエマ・ストーンは15歳からオーディションを受け続けてきたので、この役に共感する部分が多かったという。だから「オーディション(ザ・フールズ・フー・ドリーム)」を熱唱する場面が胸に迫る。それはゴズリングにも監督にも共通することなのではないか。周知の通り、デイミアン・チャゼルは最初にこの映画を撮りたかったが、新人にこれだけの予算を任せる映画会社はなく、自分の実力を証明するために低予算の「セッション」を撮った。その「セッション」、一般的な評価は高かったが、あまりにも主演2人のキャラがバカすぎて僕は褒める気にならなかった。なぜああいう映画になったのか、今にして分かる。チャゼルは2作目と同じ作品になることを避けるために、自分が本当に撮りたかったものを省いて物語を作ったのだろう。「セッション」もまた自分の夢を実現したい男2人の映画ではあったのだ。

 「ラ・ラ・ランド」は何よりもまず今現在、夢に向かって苦闘している人たちへの応援歌になるだろう。そしてかつて夢を追ったことのある人たちもまた熱い共感を持ってこの映画を受け止めるに違いない。すべてがうまく行くわけではないビターな結末だが、これもまたハッピーエンドなのだ。アカデミー賞では監督、主演女優、作曲、歌曲、美術、撮影の6部門を受賞した。

2016/12/20(火)「ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー」

 帝国に対するスパイ行為や暗殺などの汚い仕事をこなしてきた“ならず者”たちが、主人公ジン・アーソ(フェリシティ・ジョーンズ)の言葉に賛同してデス・スターの設計図を盗む作戦に参加する。こういうプロットであるなら、エクスペンダブルのような扱いを受けてきたならず者チーム(ローグ・ワン)の悲哀を描くのが冒険小説や映画の常道だ。ところが、この映画にはそういう部分がほとんどない。「スター・ウォーズ」のスピンオフという性格上、本編とあまりにかけ離れた描き方をするわけにもいかないのだろうが、主人公とならず者たちのドラマがもっと欲しくなってくる。ギャレス・エドワーズ監督は「GODZILLA ゴジラ」もそうだったが、VFXの使い方など見せる技術は水準以上にあっても、ドラマを盛り上げる力には欠けている。ローグ・ワンたちの運命は悲劇的なのに、それが十分に機能していないのが残念だ。

「ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー」パンフレット

 それでも終盤、「エピソード4 新たなる希望」(1977年)につながる話になってくると、こちらの気分は高まってくる。なにしろ「新たなる希望」の冒頭、レイアの乗った宇宙船がダース・ベイダーの乗るスター・デストロイヤーに捕捉される場面の直前までを描いているのだ。2つの月が昇る惑星タトゥイーンの場面で終わる「エピソード3 シスの復讐」(2005年)を見た時、「(スター・ウォーズは)28年かかって見事に円環を閉じた」と感じた。この映画にも同じような感慨を持った。いつものジョン・ウィリアムズではなくマイケル・ジアッキーノが担当した音楽は「スター・ウォーズ」のテーマとは少し異なるメロディーで始まり、エンドクレジットで「スター・ウォーズ」そのものになる。「スター・ウォーズ」の正史から弾かれた外伝として始まった物語はここでプリクエルに昇格するのだ。

 ジンの父ゲイレン(マッツ・ミケルセン)は優秀な科学者で、デス・スターを完成させるために帝国に連れ去られる。母ライラ(ヴァレン・ケイン)はこの時、殺された。ジンは反乱軍の過激派ソウ・ゲレラ(フォレスト・ウィテカー)に助けられる。数年後、成長したジンは反乱軍から、父親がデス・スター建造の中心人物であると知らされる。ジンは父の汚名を晴らすため情報将校のキャシアン・アンドー(ディエゴ・ルナ)、盲目の僧侶チアルート・イムウェ(ドニー・イェン)、その親友のベイズ・マルバス(チアン・ウェン)、ロボットのK-2SOらとともにデス・スターの設計図がある惑星スカリフに向かう。

 驚いたのはモフ・ターキンが出てくること。「新たなる希望」でデス・スターとともに死んだターキンを演じたのは1994年に亡くなった名優ピーター・カッシング。この映画に出てくるターキンを演じたのはガイ・ヘンリーという俳優だが、カッシングにそっくり、というよりカッシングそのものだ。イングヴィルド・デイラというノルウェーの女優が演じるあのキャラクターもそっくり。どちらもメイクアップだけではなく、CG処理を加えているのだろう。

 ダース・ベイダーももちろん登場して反乱軍の兵士をライトセイバーとフォースでバタバタと倒し、圧倒的な強さを見せつける。声は以前と同じくジェームズ・アール・ジョーンズだが、少しニュアンスが異なっている感じ。動きも若々しい。やはり「スター・ウォーズ」にはダース・ベイダーが出てこないと話にならないなと思う。