2016/02/22(月)「シン・シティ 復讐の女神」

 9年ぶりの続編。悪がはびこるシン・シティで4つのエピソードがモノクロと効果的なパートカラーで描かれる。前作はレイモンド・チャンドラー「さらば愛しき女よ」を連想させるエピソードがメインだったが、今回はミッキー・スピレイン「裁くのは俺だ」を思わせる話がメイン。原題のサブタイトルにもなっている「A Dame to Kill For」のエピソードがそれで、ガンマンのドワイト・マッカーシーが悪女のエヴァ・ロード(エヴァ・グリーン)に翻弄される。

 ドワイト役は前作のクライブ・オーウェンからジョシュ・ブローリンに代わった。オーウェンの甘いマスクに比べてブローリンはいかついので、マーヴ(ミッキー・ローク)と並ぶと、どちらも同じタイプ見えるのが難か。殺し屋のミホ役もデヴォン青木からジェイミー・チャンに代わった。これはそんなに違和感はない。

 悪女を演じるエヴァ・グリーンは絶品で、アンジェリーナ・ジョリーやレイチェル・ワイズも候補に挙がったそうだが、グリーンで正解だった。色仕掛けで男を翻弄する役柄にピッタリのセクシーさを備えている。

 邦題の「復讐の女神」はグリーンではなく、ナンシー・キャラハン(ジェシカ・アルバ)。シティの大物ロアーク(パワーズ・ブース)への復讐を図る。アルバは9年前とイメージが変わらず、相変わらず美人だが、3作目も9年後になると厳しいだろう。

 僕は好みの世界なので面白く見たが、一般的には圧倒的に好評だった1作目よりも評価が落ちたので3作目ができるかどうかは微妙かもしれない。監督は1作目と同じくフランク・ミラーとロバート・ロドリゲスの共同。

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2016/02/15(月)「チャッピー」

 デビュー作の「第9地区」で高く評価されたニール・ブロムカンプ監督の3作目。ブロムカンプは2作目の「エリジウム」が今一つの出来だったし、「チャッピー」日本公開版は残酷シーンをカットしたものという情報が流れたので劇場公開時には見る気をすっかりなくしてしまっていた。というわけでWOWOWで見た。

 中盤までは普通の出来で見逃しても全然かまわなかったなと思いながら迎えた終盤の展開がとても興味深かった。「第9地区」のラストに通じるものがあるのだ。というか、あれを発展させたのが「チャッピー」の終盤ということになる。

 「ロボコップ」の引用みたいなこの映画の設定(ED-209によく似たロボットも登場する)を見ると、ブロムカンプはSF好きということがよく分かるが、それ以上に人種差別というテーマと深くかかわる映画を作り続けている監督なのだと思う。南アフリカを舞台にエビという蔑称でバカにされ、スラムに押し込められたエイリアンと人間の関係を描いた「第9地区」、富裕層と貧困層に明確に分かれた世界を描く「エリジウム」にもそのテーマは明確にあった。

 「チャッピー」ではどうか。これはA.I.を与えられた警官ロボットが徐々に自我に目覚めるという物語だ。チャッピーと名づけられたロボットはギャングの手に落ち、悪に染まっていくが、バッテリーが残りわずかになって死に行く自分を助けるためにある手段を活用する。終盤に至って外見よりも意識が重要というテーマがはっきりと浮かび上がってくる。

 映画全体に東洋趣味(日本趣味?)がある。ギャングの男はニンジャという名前で(この俳優、芸名もNinjaだ)、そのズボンには「テンション」と片仮名で書かれていたりする。そのためもあって終盤の展開は仏教の輪廻転生も思い起こさせた。僕はこの終盤だけでも買いだと思う。

 ところが、各メディアのレビューから算出したMetacriticのMETAスコアは41点と著しく低い。あまりに低すぎるので、IMDbのユーザーレビューに「Shame on Metacritic and others(メタクリティックその他は恥を知れ)」と怒りのレビューを投稿している人がいた。

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2016/01/18(月)「ブリッジ・オブ・スパイ」

 終盤、東ベルリンで再会を果たした弁護士ジェームズ・ドノバン(トム・ハンクス)にソ連のスパイ、ルドルフ・アベル(マーク・ライランス)が言う。「君への贈り物を預けておいた。あとで受け取ってくれ」。「僕には贈れるものが何もない」と答えるドノバンに対してアベルは「This is Your Gift(これが君の贈り物だ)」と繰り返す。ここから物語が終わった後のだめ押しの電車のシーンまで感動に打ち震えながら、感心しまくっていた。スティーブン・スピルバーグ、うますぎる。サスペンスとユーモアと、何よりもヒューマニズムの太い幹に貫かれた作劇と演出は見事と言うほかない。中盤にあるスパイ機U2撃墜のスペクタクルな描写も含めて、もう自由自在にスピルバーグは物語を語っていくのだ。

 ドノバンがスパイの弁護を引き受ける序盤、本人ばかりか家族まで「ソ連の味方をする裏切り者」として民衆から非難を受ける描写は「アラバマ物語」のコピーかと思って眺めていたのだが、ソ連とアメリカが拘束した互いのスパイ交換の話になってぐいぐい面白くなってくる。アメリカ政府からの依頼で交渉役を引き受けたドノバンは東ベルリンへと向かう。そこで東ドイツに拘束された大学生フレデリック・プライヤー(ウィル・ロジャース)の存在を知り、予定の1対1から1対2に変えて捕虜交換を実現するために奔走する。アメリカが東ドイツを国として認めていないためドノバンは国の代表ではなく、民間の立場で交渉に当たる。国境を越えて東ベルリンに入るのも独力で行わなければならない。そうした困難を乗り越えて、人道的見地からドノバンは交渉を進めていくことになる。

 脚本を書いたのはコーエン兄弟だが、この物語展開はスピルバーグがかなり関わったのではないかと思う。コーエン兄弟が監督していたら、まったく違ったタッチの映画になっていただろう。スピルバーグのヒューマニズムがとても好ましい。ドノバンは確かに政府の依頼で交渉に当たるが、政府の意向に反してプライヤーを助けようとする。ドノバンの行動規範は国と国の関係や国家の利益のためではなく、人としてどうあるべきかに依っている。欲を言えば、ドノバンがなぜこうした考え方を持つに至ったかを描いておけば、交渉役をすぐに引き受ける場面の説得力も増しただろうが、無い物ねだりと言うべきか。

 ベルリンの壁が建設される風景や壁を乗り越えようとして射殺される人たち、冷戦下の厳しい現実を織り交ぜていながら、映画の印象はとても温かい。それは誠実さを備えた人間が苦労の末に勝利する物語だからだ。体型は少し違うけれども、トム・ハンクスはフランク・キャプラ映画のジェームズ・スチュアートを思わせる理想的なキャラクターを演じきっている。

2015/12/23(水)「クリード チャンプを継ぐ男」

 高給の仕事を辞めて、ロサンゼルスからロッキー・バルボア(シルベスター・スタローン)のいるフィラデルフィアに引っ越した主人公アドニス(マイケル・B・ジョーダン)は同じアパートの階下に住むビアンカ(テッサ・トンプソン)と知り合う。ビアンカは進行性の難聴だが、歌手を目指している。なぜ、歌手になりたいのかとアドニスに聞かれたビアンカはこう言う。

 「生きてるって実感できる」

 高給であっても、人生に満足が得られるわけではない。アドニスにとっても、生きていることを実感することがボクシングに打ち込む理由なのだろう、と途中までは思っていた。しかし、そうではなかった。映画はクライマックスで本当の理由を明らかにする。

 チャンピオンとの試合、最終ラウンドに入る前のセコンドでアドニスはロッキーにあるセリフを言うのだ。この一言ですべてが氷解した。そういうことだったのか……。映画はここまで主人公の本当の動機を周到に隠している。いや、あちこちにそれを仄めかすセリフはあるのだが、この一言は決定的に重い。主人公の動機は他人には極めて分かりにくいものになっているのだ。これを聞き逃したり、聞いてもその意味が分からなかったりする人がいるようで、この傑作に低評価を付けている人はたいていこれに当てはまっているのだろう。

 アドニスは「ロッキー4 炎の友情」で死んだアポロ・クリード(カール・ウィザース)と愛人の間に生まれた。生まれた時には既にアポロは死んでおり、母親も出産の際に死んだ。施設に預けられたアドニスは毎日、けんかばかりしている。そこにアポロの妻がやって来て、アドニスを引き取る。その時に初めてアドニスは自分がアポロ・クリードの息子であることを知る。

 はっきり言って、演出も演技もそれほど際立ったものではなく、ラスト近くまでは普通の名作スピンオフというイメージで眺めていた。というか「ロッキー」第1作のリメイクに近いと思っていた。ボクシング映画のパターンというのはそんなに多くはなく、ハングリーな若者がハードワークを続けて夢を掴むまでを描くのが王道だ。脚本・主演のシルベスター・スタローンとともにアメリカン・ドリームを体現したと言われた「ロッキー」がまさにこのパターンだった。アメリカン・ドリームというのは要するに社会的な成功を収めて大金を手にすることだ。既に高給を手にしているアドニスがアメリカン・ドリームを求める必要は少しもない。それではアドニスはなぜボクシングに打ち込み、チャンピオンを目指すのか。

 監督・脚本のライアン・クーグラーはこの「ロッキー」新章を作るにあたって、説得力のある理由を相当に考えたに違いない。普通に作れば、「ロッキー」の焼き直しと言われるのがオチだからだ。熟慮の末、クーグラーは設定も含めてこれしかないという理由にたどり着いた。言われてみれば、なんだそんなことかと思えるもの、しかし本人にとっては自分の人生をかけても良いぐらいのとてつもなく重いもの。この映画の主人公の動機はそういうものになっている。

 最後に主人公の動機が明らかになり、そこまでの行動にすべて納得がいく映画として、僕はロナルド・ニーム「オデッサ・ファイル」を思い出した。ただし、この手は1回しか使えない。続編の要望があるかもしれないが、作るのはやめた方が良いと思う。

2015/12/08(火)「スター・ウォーズ フォースの覚醒」

 ディズニー配給になったため、オープニングに20世紀フォックスのファンファーレはない。その代わりにシンデレラ城が出てきたらどうしようかと思ったが、それはなかった。ルーカスフィルムのタイトルが出た後にいつものように物語の経緯が字幕で画面の奥に流れていく。そこで説明される内容がまず驚きで、そういうことになっていたのかと思う。海外の映画評サイトに第1作「エピソード4 新たなる希望」のリメイクという感想を書いている人がいたが、それに「エピソード5 帝国の逆襲」を加えた感じの物語である。

 J・J・エイブラムス監督の映画としては抜群に面白かった「スター・トレック 」(2009年、amazonプライムビデオ)には及ばず、「スター・ウォーズ」シリーズの中では「帝国の逆襲」「新たなる希望」の次、「エピソード3 シスの復讐」と同じぐらいの出来だと思う。「エピソード1 ファントム・メナス」の時のようなちょっとがっかりした気分はなく、新たな3部作開始の物語として申し分のない出来と言って良い。ライトセーバーが絡む2つの場面にはぐっときた。ハン・ソロなどの懐かしいキャラクターやスターデストロイヤー、Xウイング、タイファイターなどの再登場はファンにはたまらないだろう。エピソード1~3よりも、親近感が強いのはこれが「ジェダイの帰還」の後の物語だからだ。

 ミレニアム・ファルコンに乗り込んだハン・ソロは「Chewie ……,We're home」(チューイ、……我が家だ)とつぶやくが、リアルタイムで「スター・ウォーズ」を見てきた観客にもホームに戻ってきた感覚がある。「新たなる希望」以降の時の流れは自分の時の流れと重なってしまう。だから懐かしさと感慨を持たずにはいられない。そういう幸福な体験をもたらす映画はめったになく、映画の出来以上に、それがこの作品の大きな価値になっている。

 物語は「ジェダイの帰還」から30年後の設定。主人公のレイ(デイジー・リドリー)は砂漠の惑星ジャクーで廃品回収で生計を立てながら、ひとりぼっちで暮らしている。そこにレジスタンスのロボットBB-8とストームトルーパーズから逃げ出したフィン(ジョン・ボイエガ)がやって来て、レイの運命は大きく転換していく。あらすじで書いていいのはここまでだろう。

 予告編を見た時に感じたのはキャストの弱さだった。新人のデイジー・リドリーやジョン・ボイエガで果たして大丈夫なのかと思わざるを得ず、それを補強するのがハリソン・フォード、キャリー・フィッシャー、マーク・ハミルなのだろうと思えた。考えてみれば、「新たなる希望」の時にはこの3人は無名だったのだが、あの時には画期的なVFXという大きな強みがあった。VFXが普通になった今、キャストは重要だ。デイジー・リドリーはよくやっていると思う。ライトセーバーのアクション場面でも不足はない。今回はビリングが5番目だが、エピソード8ではもっと上に行くのではないか。

 ダースベイダーを思わせる新たな悪役カイロ・レンについて、エイブラムスは「いわゆる完璧な悪人ではなく、壊れた悪人として描きたかった。悪党になる過程の、いわば訓練中の悪党としてね」と語っている。ここは議論の分かれるところだろう。ダースベイダーを小粒にした感じが拭いきれないのだ。完璧な悪役として登場したダースベイダーは「ジェダイの帰還」で揺れ動いた。今回はその逆を行っているわけだ。

 今回、レイの出自は明らかにされなかった。それが明らかになるのは2017年に公開されるエピソード8においてなのだろう。大きな感慨と期待を抱かせるラストを見て、待ち遠しい思いを強くした。