2001/05/29(火)「ホタル」

 高倉健が映画の中で歌う「アリラン」の訳詞に作家の帚木蓬生が協力している。どうせなら脚本にも協力が欲しかったところだ。映画は特攻隊の生き残り高倉健とその妻田中裕子を中心に特攻隊の回想と現在(昭和から平成に変わる1989年の鹿児島)を織り交ぜて、初老の夫婦の日常を描くのだが、脚本の焦点がやや定まらない感じを受ける。

 特攻隊で亡くなった朝鮮人・金山少尉の存在が大きいのに、それをうまく生かしていない。というか設定に多少無理があるし、もっともっとここを中心に組み立てた話にした方が良かったと思う。設定の無理についてはキネマ旬報6月上旬号で韓国文化院長が指摘している。朝鮮の人が特攻隊に参加する理由として「朝鮮民族のため」と語るのは不自然なのである。なぜ特攻隊に参加することが朝鮮民族のためになるのかよく分からない。それなりの理由づけが必要だっただろう。

 日本軍に協力して戦死した朝鮮人1000人の遺骨を韓国政府は引き取っていないとか、映画は朝鮮半島と日本の関係をエピソードとしては紹介するのだけれど、どうも深く言及するのを差し控えたような印象がある。降旗康男は社会派の監督ではないし、やんわりとした描写はその持ち味でもあるのだが、せっかくの題材なのにもったいない。もっと鋭く、もっと深く描くべき題材だったように思う。

 高倉健が雪の中で鶴の真似をするシーンや韓国へ金山少尉の遺品を届けに行き、家の前で突っ立ったまま遺族と長々とやりとりをする場面などは違和感が残る。このほか細かい部分に不自然な描写があり、演出的にも緩んだ場面が散見される。田中裕子の病気の設定も僕には不要のように思えた。

 ただし、奈良岡朋子は凄かった。特攻隊員の面倒を見て長年“知覧の母”と言われた奈良岡朋子が自分の半生を振り返って「本当の母親なら息子を次々と特攻隊に送り出すはずがない」と泣いて悔やむシーンは圧倒的な演技と相俟って強い印象を残す。元々この映画、「知ってるつもり!?」で紹介された“知覧の母”が企画の始まりという。それならば、やはり戦争中の場面を中心にした方が良かっただろう。時代を1989年にしたのは高倉健の年齢的な制約によるものだが、そもそもこの時代設定に間違いがあったのではないか。

2001/05/05(土)「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲」

 このシリーズほどテレビシリーズとギャップがある映画は珍しい、という趣旨のことは以前書いたような気がする。繰り返すと、テレビは日常ギャグ漫画、映画の方はSFなのである。なぜ、こうなるかというと、長編化する場合に冒険的な要素が入ってくるからで、子供の冒険というのは古今東西のジュブナイルの名作を見てもらえば分かるようにたいていSFなんである。もちろん、映画の作者たちは意図的にSFをやっている。そしてこれが重要だが、SF的設定に外れがないのである。

 今回の設定はノスタルジーマシーンとでもいうべきもの。しんのすけ一家は1970年の大阪万博に来ている。そこに怪獣が現れ、パビリオンを破壊。しんのすけの父親ヒロシはスーパーヒーロー“ヒロシSUN”に変身し、怪獣を倒す。何かと思ったら、これはビデオの撮影で、最近、「20世紀博」という大人を対象にしたテーマパーク(?)が流行っているのである。大人は70年代の日本を懐かしみ、夢中になっている。

 しかし、この「20世紀博」には陰謀があった。大人たちを洗脳し、20世紀のままの日本で生活させようとしていたのだ。町の大人たちは「ハメルンの笛吹き」の子供たちのように「20世紀博」に連れ去られてしまう。しんのすけたち「カスカベ防衛軍」は大人を連れ戻そうとするが、洗脳された大人たちは攻撃を仕掛けてくる。

 「20世紀博」の首謀者(ケンちゃんとチャコちゃん!)は21世紀がくだらない世の中なので、まだ21世紀に夢や希望を持てた20世紀に帰ろうとしているのだった。もちろん、最後にはしんのすけたちの活躍で20世紀博の陰謀は潰される。原恵一監督は昔を懐かしがっているばかりではダメということを言いたかったらしいが、同時に1970年代の生活へのこだわりも見て取れる。万博会場、足踏みミシン、メンコ、缶蹴り、トヨタ2000GTなどといった70年代を象徴するガジェットは30代後半から40代前半の大人にとってノスタルジー以外の何物でもない。