2003/06/17(火)「スパイ・ゾルゲ」

 細かいことから始めるなら、ロシア人もドイツ人も外国人の話す言葉はすべて英語というこの映画の取った手法は間違っている。少なくとも昭和史を描く覚悟があるなら、ロシア語とドイツ語ぐらいしゃべれる俳優を用意しなくてはいけない。さらに細かいことを言えば、226事件の将校たちが処刑される場面で頭を撃たれたのに「天皇陛下バンザイ」などと叫ぶのはおかしい。このほかにもたくさんツッコミどころのある映画で、主演のイアン・グレン(「トゥームレイダー」)がまるで木偶の坊であるとか、女優たちはいったい何のために出てきたんだか分からないとか、主人公がゾルゲか尾崎秀実(本木雅弘)か揺れ動くとか、いくらなんでも3時間2分は長すぎるとか、話に起伏がなさすぎるとか、もう挙げていったらきりがない。篠田正浩監督、本当にこの映画で引退するのか。

 大物スパイのゾルゲを中心にして激動の昭和史を描くというアイデアだけは良かった。篠田正浩が間違ったのは描くのは人間ではなく、状況だ、と考えたことだ。状況を作り出すのは人間なのだから、まず何を置いてもそういう状況を作り出した人間を描かなくてはいけない。戦前の上海から始まって満州事変や226事件を経て開戦に至る昭和の歴史を単に順番に並べただけで話にまったく深みがない。それは人間を描いていないからにほかならない。

 映画は「スター・ウォーズ クローンの攻撃」でも使われたHD24pでハードディスクに撮影されたそうだが、そうしたCGを駆使した映像をいくら使っても時代のリアルな感じは意外なほど出てこない。人の営みや苦しみなど普通の風景と感情が映画からすっぽり抜け落ちているからだろう。無味乾燥な映画なのである。だいたい、観客はだれに感情移入してこの映画を見ればいいのか。ナレーションが尾崎になったり、ゾルゲになったりするようではストーリーテリングの基礎をわきまえていないと思われてしまう。

 いっそのことゾルゲでも尾崎でもなく、別の第3者の視点から物語を組み立てた方が良かったのではないかと思う。この映画の一番の弱さがこの昭和史を極めて表面的になぞっただけのつまらない脚本にあることは間違いなく、これが故笠原和夫なら、と思わずにはいられない。笠原和夫なら間違いなく、沖縄出身でアメリカ人からも日本人からも差別され、共産主義に希望を見いだした宮城与徳(永澤俊矢)の視点から話を語ったのではないか(篠田正浩も途中でそれを考えたという)。映画のクレジットに出てくる参考文献を篠田正浩は簡単にまとめただけなのだろう。脚本を17稿書いたとはいっても、出来がこれではお話にならない。

 見ている最中、凡庸という言葉が頭に浮かんでいた。篠田正浩はこんなに凡庸だったのか。話の語り方、表現、手法のことごとくが新人監督が撮ったように青臭くて下手である。前作の「梟の城」の時にも思ったのだが、篠田正浩は60年代から70年代初めまでで才能を消費し尽くしてしまったのではないか。