2003/07/28(月)「茄子 アンダルシアの夏」

 黒田硫黄の連作短編「茄子」の一編「アンダルシアの夏」を「千と千尋の神隠し」などの作画監督・高坂希太郎が監督した47分のアニメーション。47分という長さは映画としては商売になりにくい中途半端さで、オリジナルビデオとして企画されたのではないかと思ったら、やはりパンフレットにそう書いてあった。いくら短編が原作だからといっても、劇場にかける以上は1時間20分程度の作品にするものなのだ。その代わり料金は1,000円だったが、これには異論があって、以前3時間の映画で2000円だったか3000円だったかを取った作品があったけれど、上映時間の長さと料金とは決して比例するものではないだろう。無駄に長くて心をピクリとも動かさない作品はたくさんあるし、短くても十分満足できる作品もある。

 劇場用映画としての長さはともかく、これは自転車レースをアニメではたぶん初めて取り上げて、CGも駆使した佳作になった。主人公の心情とレース展開がクロスしてくるところが定石とはいえ、うまく、ラスト近く、かつて兵役から帰った主人公が故郷でつらい思いをした経験とレースを終えた今の主人公がオーバーラップするところでなんだかジーンと来てしまった。この作品は十分、こちらの心を動かしてくれた。

 スペイン全土を駆け抜ける自転車レース「ブエルタ・ア・アスパーニャ」。主人公のぺぺはパオパオビールチームのアシストとして故郷のアンダルシアでのレースを走ることになる。摂氏45度の中で行われる過酷なレース。集団から抜け出したペペを8人の選手が追う。故郷ではちょうど兄のアンヘルがカルメンと結婚式を挙げたところだった。カルメンはかつてのペペの恋人。兵役に行っている間に兄に奪われた。ちょうどペペが兄の兵役の間に兄の自転車を自分のものにしたように。パオパオビールのエース・ギルモアがレース中に事故を起こしたことから、ペペはエースとして最後までトップを行くよう命じられる。スポンサーから首を言い渡されそうになっていたペペは必死でペダルをこぐが、後方にいた集団からみるみる迫られてくる。

 ペペは兄とカルメンのこともあって故郷を遠く離れたいと思っているが、現実はなかなかうまくいかない。絶望的なつらさは乗り越えたけれど、まだちょっとつらい思いが残っている主人公なのである。描き込めば、さらに深く描ける題材なのだが、映画は47分という短さもあって、淡泊である。しかしその淡泊さが、かえってスマートに見える。主人公が自分の不幸を嘆くようなダサダサの展開から逃れられたのはこの描写のスマートさがあったからだろう。高坂希太郎の脚本・演出は間違っていないと思う。レース場面のCGも迫力がある。

 それにしても、後方集団から3分以上離れていたのに集団が残り5キロでみるみる追いついてくるのはマラソンでは考えられない展開。自転車レースはそういうものなのか。

2003/07/21(月)「踊る大捜査線 The Movie2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」

 5年前の映画版第1作でおおおおお、と思ったのは青島(織田裕二)が「天国と地獄だああ」と叫ぶシーンだった。そこで座り直して、この脚本家はえらいと思った。君塚良一の名前を認識したのは、遅まきながらこの時。今回、最初の方に「天国と地獄」のビデオのパッケージが出てくるのはご愛敬である。

 映画の引用で言えば、今回は「砂の器」+「機動警察パトレイバー2」が入っている。「砂の器」に関しては方言の使い方がそのままだし、見ている人にはすぐに分かる(「砂の器だああ」とは叫ばない(織田裕二は叫びませんが、深津絵里が叫んでいるそうです。見落としてました)。「パトレイバー2」は意識しなかったのかもしれない。進化する街・お台場を舞台にしていることで、必然的に似てきたのだろう。5年前、空き地が目立ったお台場は今や年間4000万人が訪れる観光・レジャースポットになった。そのお台場の地理が物語の重要なポイントになっているし、冒頭、SAT(警視庁特殊急襲部隊)が豪華客船に突入する場面の呼吸もパトレイバー的だった。現場のズッコケ組が事件解決に大きな役割を果たすというのも特車2課の面々の活躍と同じである。ただ、犯人側のスケールが「パトレイバー2」に比べると、ずっと小さい。この程度の犯人の逮捕に警視庁側の捜査態勢は大げさではないか。また、犯人側のキャラクターは現場の刑事たちとの共通点があるのだが、それがうまく表現できていないのは残念だ。

 4つの事件が同時進行するいわゆるモジュラー型の構成である。メインの猟奇連続殺人のほか、親子4人の“アットホームなスリ”と連続噛みつき魔、湾岸署の神田署長(北村総一郎)の不倫メール事件(これはいつもの署内の騒動である)が描かれる。スリと噛みつき魔の捜査に傾注する湾岸署員に対して、連続殺人の捜査本部長を務める沖田管理官(真矢みき)は「所轄の仕事なんてどうだっていいでしょう」と一喝する。「踊る大捜査線」がテレビシリーズの時から一貫して描く現場とキャリア組の確執がこの映画でも重点的に描かれる。いや、この映画はこの確執を描くことだけを念頭に置いたようだ。

 「私たちの仕事はやらなきゃいいって言われるような、そんな仕事なんですか」「俺たち下っ端はなあ、地べたはいずり回ってるんだ」。そんなセリフに象徴される現場の仕事をそれこそ現場主義とでも言うべき描写で執拗に描く。このシリーズが圧倒的な大衆性を備えているのはこういう部分があるからだろう。犯人側をあまり描かないのはこの確執を描くことに筆を費やしたかったからだと好意的に解釈しておく。

 解釈はしておくが、重大な事件が発生しているのにスリや噛みつき魔を追うことを主張するような描写はリアリティーを欠く。警察は重大事件が起こったら、泥棒なんて単純な事件はほったらかしにしておくものなのである。キャリア組の描写もデフォルメされすぎており、君塚良一の脚本は今回、それほどの充実度はない。これは本広克行の演出にも言え、先に書いた冒頭の場面の手際も決して良くないし、全体的に緩い印象だ。

 穴だらけの出来なのに、それでもなおかつ成功しているのは出演者の呼吸がぴったり合っているからで、観客が求めるもの(例えば、青島とすみれの関係。「やっぱり、愛してる…」のセリフに拍手)をことごとく見せてくれるからでもあるだろう。憎まれ役の真矢みきはレギュラー陣に負けない好演をしている。口跡の良さと迫力のある演技はさすが舞台の人なのだなと思う。

 気になったのはフィルムの色合いがくすんだ場面があること。HD24pでの撮影が影響しているのだろうか。

2003/07/09(水)「バトル・ロワイアルII 鎮魂歌」

 前作は傑作だったと思う。あの映画で深作欣二は中学生同士の殺し合いを戦争のメタファーとして描いた。自分の戦争体験を交えて熱く熱く描き、物語の弱さを感じさせない映画に仕上げていた。映画は一にも二にも三にもスジだと僕は思うが、描写のエネルギッシュさがありきたりの物語を凌駕して傑作を生むこともあるのだ。

 今回はまさに戦争である。バトル・ロワイアルに生き残った七原秋也(藤原竜也)はテロ組織「ワイルド・セブン」のリーダーとして爆弾テロを行い、政府から追われている。島に立てこもった組織殲滅のため、政府はバトル・ロワイアルII(BRII)法を制定、落ちこぼれの集まった中学校のクラス42人に七原秋也殺害を命じる。今回も生徒たちは首輪をはめられているが、前回と違うのは出席番号のペアで片方が死ぬと、もう一人の首輪が爆発する仕掛け。前作で殺害された教師キタノ(北野武)の娘シオリ(前田愛)は秋也に会うため、BRIIに参加する。

 生徒たちが島にボートで上陸する場面は映像のタッチも含めて「プライベート・ライアン」そのまま。しかし、どうも「戦争ごっこ」という感じがつきまとう。もちろんBRIIはゲームなのだが、少なくとも前作の生徒たちにはゲームを超えた必死の思いがあった。テロに明確な理由がないことも「ごっこ」感を加速する。秋也は犯行声明で「俺たちはすべての大人に宣戦布告する」と話す。これがもう幼稚な考えとしか思えない。すべての大人ではなくBR法を制定した一部の政治家であり、社会を牛耳る権力、大企業を標的にしないと、単なる馬鹿である。革命にはイデオロギーが必要だし、民衆を味方にしないと成功しないものなのである。

 冒頭、東京の高層ビルがテロの爆破によって次々に崩れ落ちていくシーン(9.11の露骨な影響だ)は視覚的には面白いものの、こういう浅はかな考えに基づくのでは著しく興ざめだ。

 総じて脚本を練る時間がなかったとしか思えないストーリーである。事実、キネマ旬報7月下旬号の製作ドキュメントを読むと、深作健太から脚本の直しを要請された木田紀生には1カ月も与えられず、最終稿が完成したのは撮影開始の2日前というハードスケジュールだ。深作欣二の病状が緊迫していた時だし、撮影が1カ月遅れていたという事情はあるにせよ、あまりにも無茶である。映画の基礎が不十分なので、完成した映画にも一本芯が通っていない。秋也たちテロリストの思想をどう固めるか、そこに十分時間をかけるべきだった。

 深作欣二ならまだ、中学生の話を開き直ってオヤジ映画にしてしまえる技量があったが、監督デビューの深作健太にそれを要求するのは酷だろう。

 前作では生徒たちの死に方が多面的に描かれていた。今回はどれも同じような一面的な描写に終始する。このあたりにも工夫が欲しかった。何より「ワイルド・セブン」の主要メンバーとして役を割り振りながら、スナイパー役の加藤夏希にほとんどセリフも見せ場もないのが大いに不満。ほかの役者も見せ場らしい見せ場はなく、忍成修吾と酒井彩名と前田愛と藤原竜也が中心。生徒たちの集団劇のドラマが今回の主軸ではないにせよ、キャラクターの描写不足が致命傷になった観がある。

 若い役者たちが、ちょっとだけ出てくる北野武や三田佳子、オーバーアクト気味の怪演を見せる教師RIKI役の竹内力に場面をさらわれてしまっているのはそのためだ。

2003/07/02(水)「恋愛寫眞 Collage of Our Life」

 あの「ケイゾク」「トリック」の堤幸彦が監督したラブストーリー。広末涼子と松田龍平主演で、松竹タイトルの富士山の火口がカメラのレンズに重なって始まるデジタルなタイトルバックから良い出来である。前半、カメラマン志望の大学生・松田龍平がちょっと変わった女子大生・広末涼子に出会い、同棲し、ふとしたことで破局を迎える描写の切なさを見ていて、これはもしかしたら大傑作なんじゃないかと思ったのだが、ニューヨークに舞台を移した後半はテレビの2時間ドラマを見るような展開で、急に失速してしまう。ラスト近くのエピソードで映画は盛り返すのだが、惜しい。前半をもう少し膨らませて、後半を簡単な描写にとどめれば、映画の出来はもっと良くなったはずだ。前半100点満点、後半60点程度の出来なのである。

 広末涼子は「これは男の子の目線から描いたラブストーリー」と堤監督に言ったそうだが、その通りの内容だ。誠人(松田龍平)は同棲した静流(広末涼子)に写真を教えて、2人一緒に写真雑誌のコンテストに応募する。誠人は落選するが、静流は新人奨励賞に選ばれる。ずっと写真を続けてきた自分より静流の方が才能があるのか。そんな思いに駆られて、誠人はいたたまれなくなり、結局、静流をアパートから追い出してしまう。「ずっと一緒にいたかっただけなの。誠人と同じことをして」という静流の別れ際のセリフが泣かせる。静流は男にとって理想的な女なのであり、ヒロスエが言う男の目線というのはここを指している。

 とにかく前半のヒロスエが素晴らしく良い。チャーミングな表情の一方で、私生児で家庭的には恵まれなかった静流の生い立ちも含めた深い演技を見せる。加えてタイトル通り、写真(撮影は斎藤清貴)を多用してあるが、その1枚1枚が実に良い出来である。堤監督は撮影にも凝っており、この前半の切ないラブストーリーをもっともっと見ていたかった。

 3年後、誠人にニューヨークへ行った静流から手紙が来る。写真の個展を開くという案内だった。誠人はその手紙を捨ててしまうが、同級生から静流が1年前に死んだらしいとの噂を聞く(映画はこの「死んだ恋人からの手紙が来た」というアイデアが先にあったらしい)。手紙をもらったのに死んでいるわけがない。誠人は自分の目で確かめるためにニューヨークへ行く。ここからのタッチがいつもの堤幸彦の映画を思わせるものであまり良くない。チンピラにボコボコにされた誠人を助ける日本びいきの牧師の描写など不要だと思う。静流のニューヨークの友人役を演じる小池栄子を評価する人もいるようだが、僕はあまり買わない。

 全体としてこれは、なくして初めてなくしたものの重要さに気づく男の話で、若いからこその失敗の話であり、それを乗り越えて成長していく話でもある。20歳になったばかりの松田龍平には少し荷が重い役だったかもしれない。しかし、広末涼子に関しては満足できる映画であり、これが今のところのヒロスエの代表作になった観がある。全編に流れる音楽(見岳章、武内亨)と主題歌の山下達郎「2000トンの雨」も良かった。