2004/10/09(土)「デビルマン」

 「デビルマン」パンフレットブライアン・デ・パルマ「ミッドナイトクロス」の冒頭で、シャワー室で襲われる女の叫び声を録音していた録音技師のジョン・トラボルタが、女優のあまりの下手さ加減に匙を投げるシーンがある。「デビルマン」を見ていてそれを思い出した。中盤、主人公の不動明(伊崎央登)がデーモンであることを養父の牧村(宇崎竜童)に知られて上げる叫び声がなんとも迫力のないものなのである。終盤にもう一度、叫び声を上げるシーンがあるが、そこも同じ。これほど真に迫らない叫び声は初めて聞いた。この程度の叫び声でなぜ那須博之監督がOKを出したのか理解に苦しむ。感覚が狂っているのか、現場をコントロールできなかったのか、時間が足りなかったのか。いろいろあるだろうが、こういうところでOKする姿勢が映画全体に波及してしまっている。主人公だけでなく、他の出演者の演技にもまるでリアリティがない。6月公開予定を延期してCGをやり直したそうだが、出演者の演技も最初からやり直した方が良かった。いや、その前に脚本を作る段階からやり直した方が良かっただろう。永井豪の最高傑作とも言えるあの原作がなぜ、こんなレベルの映画になってしまうのか。「スクール・ウォーズ HERO」とは違って、「デビルマン」の物語を本当に理解しているスタッフはいなかったのではないか。

 「外道! きさまらこそ悪魔だ」と、原作の不動明は叫ぶ。悪魔特捜隊本部で悪魔に仕立てられて惨殺された牧村夫妻を発見し、そばにいた人間たちに怒りの声を上げるのだ。「おれのからだは悪魔になった…。だが、人間の心は失わなかった! きさまらは人間のからだを持ちながら悪魔に! 悪魔になったんだぞ。これが! これが! おれが身をすててまもろうとした人間の正体か!」。

 映画にも「悪魔はお前ら人間だ!」というセリフはあるが、それを叫ぶのは不動明ではない。デーモンに合体された少女ミーコ(渋谷飛鳥)である。なぜ、こういう改変を行うのか。主人公にこのセリフを叫ばせなければ、その後の展開がおかしくなってしまう。原作の不動明は愛する美樹を殺した人間たちを一掃し、同時に怒りの矛先を人間たちの心理を利用して自滅させようとした飛鳥了に向ける。映画の明は人間は殺さず、了との対決に臨む。これでは愛する者たちを殺された主人公の怒りが伝わってこない。だからドラマとして貧弱になってしまうのだ。

 脚本は那須真知子。2時間足らずの上映時間に全5巻の原作を詰め込むのは所詮無理な話ではある。しかし、無理は無理なりに何らかの工夫が必要だろう。単に原作をダイジェストにしただけで脚本家が務まるのなら、脚本家はなんと気楽な商売かと思う。那須真知子、監督と同じくSFに理解があるとは思えない。ならば、そういう仕事は引き受けるべきではなかっただろう。原作の飛鳥了は終盤まで自分の正体を知らない。映画では早々に正体をばらしてしまう。原作を思い切り簡略化した話で、それを見るに堪えない演出で語ろうというのだから、つまらなくなるのは目に見えている。

 このほか、不動明とデビルマンの中間みたいなメイクアップがまるで意味をなさないとか、妖鳥シレーヌ(富永愛)の扱いが彩り程度のものであるとか、原作のラストの後に余計なメッセージを付け加えているとか、やり直したCGの場面が少ないとか、ボブ・サップやKONISIKIを使う意味が分からないとか、冒頭にある少年2人のシーンがお粗末すぎるとか、さまざまな不満な点がある。ついでに言うと、こんな雑な映画を作って公開する意味も分からない。こんなことなら、アニメでリメイクした方が良かったのではないか。

2004/10/06(水)「スクール・ウォーズ HERO」

 「スクール・ウォーズ HERO」パンフレット不良の巣窟だった伏見工業高ラグビー部を日本一に導いた山口良治監督を描く熱血青春映画。テレビドラマを見る習慣はないので、山下真司主演のテレビ版は見たことがない。NHK「プロジェクトX」でも取り上げられたそうだが、それも見ていない。監督は関本郁夫。日本映画データベースにあるフィルモグラフィーを見て愕然とするのは、僕が劇場で見た関本監督作品は1本だけで、その「天使の欲望」(「涼子を殺す 殺します」という七五調の字幕が印象的だった)は、25年前の作品だった。すれ違いっぱなしの監督なのである。

 「スクール・ウォーズ HERO」はその関本監督の30本目の作品に当たる。映画に新しい部分はない代わりにしっかりと作ってあり、熱い映画になっている。ラグビー部と熱血教師という設定はテレビや映画で何度も繰り返され、今の時代なら冷笑的にパロディとしてしか成立しにくい物語だが、時代が1970年代なので、熱血先生がラグビー部を精力的に立て直していく描写に少しも違和感がない。生徒との本音のぶつかり合いに素直に感動できる。一番褒めるべきは映画初主演の照英だろう。自身もスポーツマンである照英は恐らく、この物語を心の底から信じている。だから泣いたり怒ったりの演技が演技らしくなく、本当のように見える。その全力を傾けた姿勢に映画の中の生徒と同様、観客も心を動かされることになる。物語を信じている点では関本監督も同じなのだろう。映画に本物の感情とリアリティをもたらすのは、そうした作り手たちの姿勢なのだと思う。

 1974年の京都。ラグビーの元全日本代表だった山上修治(照英)は実業団監督への誘いを断って市立伏見第一工業高に赴任する。荒れる生徒たちを擁護して、校長の神林(里見浩太朗)が言った「生徒たちは寂しいんや」という言葉に惹かれたからだ。しかし、高校は予想以上に荒れていた。酒やたばこは当たり前、校舎の中をバイクで走り回ったり、先生の服に火を付けたり、暴力沙汰も多かった。その不良の中心がラグビー部員と知った山上はラグビー部の監督になり、生徒たちに全力でぶつかっていく。なかなか信用しない生徒を見て落ち込む山上を支えたのは妻(和久井映見)の励ましだった。山上の努力で次第に変化が見え始めたラグビー部だが、京都府高校総体では1回戦で大園高校に112-0で完敗。生徒たちは山上に「俺たちをもっと鍛えてくれ」と泣いて悔しがる。生徒たちを一人ひとり殴って気合いを入れる山上の姿に感銘を受けた生徒たちは心機一転、猛練習に励むようになる。

 こうしたメインプロットに映画はさまざまなエピソードを加えていく。京都一のワルと言われた“弥栄の信吾”(小林且弥)の体格を見込んでラグビー部に入れるため、山上が信吾の家を訪れたら、あばら屋に大酒飲みの父親(間寛平)がいる場面とか、その信吾と殴り合って絆を深める場面などはこうした青春ものによくある場面なのにこの映画では十分効果的だ。あるいは朝、校門に立って生徒たちに「おはよう」と声をかけ始めた山上に賛同して他の先生たちが加わる場面、生徒を殴ったために1カ月の謹慎処分を受けた山上のアパートを訪ねた生徒たちが山上を励ます場面などなどはいつかどこかで見た光景であるにもかかわらず、この映画では一直線に感動的である。

 ラグビー部員を演じるのは無名の若手俳優ばかりだが、それぞれに懸命に演じていい味を出している。マネジャー役のSAYAKAは「ドラゴンヘッド」などより相当いい。試合場面にも迫力があり、この映画、決して手放しで傑作とは言えないけれど、その熱さだけは十分に観客に伝わってくる。熱血が空回りしない作品はまれである。