2014/12/27(土)「サカサマのパテマ」

 重力が逆の世界というのなら珍しくないが、抱きしめていないと、人が空に落ちてしまうという光景は目新しい。ただし、重力が人によって選択的に作用する合理的な説明がない。それをどう評価するかが分かれ目。単なるファンタジーならそれでいいか。

2014/11/24(月)「紙の月」

 いくらなんでもこのラストは吉田大八監督のアレンジだろうと思った。まるでリドリー・スコット監督の「テルマ&ルイーズ」を思わせる弾け方なのだ。ついでにもう一つ、映画で気になったことがあったので、確認のために、見終わってすぐに角田光代の原作を読んだ。ハルキ文庫版には吉田監督が解説を書いている。

 意外なことに原作のプロローグは映画のラストに当たる場面だ。しかし、映画で感じた主人公・梨花(宮沢りえ)の開き直った能動的な変化はここにはない。吉田監督は当初の映画化の構想について解説にこう書いている。

 梨花の「ほんとう」が再起動するのは全てを捨て、渡ったタイ・チェンマイに於いてだろうとまず考えた。

 だから日本の話は三分の一、残りはタイで逃げ続ける梨花を撮る。イミグレーションを越え、国境地帯をさまよい、最後は武装警察あるいは軍隊による包囲網を突破して走り続ける。立ち止まらないことで不可能を可能にする梨花、映画にするとしたらそれしか考えられないと僕は二回目の打合せでプロデューサーに訴えた。僕と初めて仕事をするプロデューサーはただ微笑んでいた。

 「テルマ&ルイーズ」を想起させられたのも間違っていたわけではなかったようだ。そういう風にしたいという思いを監督は演出でこの終盤に表現したのだろう。

 原作は日常の小さな違和感や不満が積もる様子を梨花だけでなく、その友人についても描いていく。映画ではこの違和感や不満を腕時計のエピソードで象徴している。梨花が夫(田辺誠一)のために買った安いペアウォッチを夫は仕事にしていこうとしないばかりか、経済的優位性を示すかのように梨花にカルチェの時計をプレゼントするのだ。そうした中、梨花は平林光太(池松壮亮)と出会う。銀行の顧客である光太の祖父(石橋蓮司)の自宅で会った後、駅のホームで光太とすれ違い、短い言葉を交わす。そして3度目、駅の反対側のホームで光太を見つけた梨花は光太のいるホームへ向かう。映画はこの後、ホテルに行く2人の場面に移るのだが、ここの梨花の心理が僕には分からなかった。

 原作ではこうなっている。祖父の家で出会った後の帰り道、梨花と光太は世間話をする。その後、銀行の飲み会の帰りに梨花は光太と遭遇し、飲みに誘われる。「よく気づいたわね」と尋ねた梨花に光太は「最初に会ったとき、いいなって思ったから」と答えるのだ。そして光太は銀行に電話をかけて梨花を呼び出し、自主製作映画に出るように頼む。こういう風に原作は梨花の中で光太の存在が大きくなっていく過程を丹念に積み重ねていく。これなら納得できる。

 大急ぎで映画を擁護しておくと、物足りなかったのはこの梨花の光太への思いに関する部分だけで、それ以外はとても納得できた。銀行の支店に勤務するお局様のような小林聡美と若い大島優子は映画のオリジナルのキャラクター。近藤芳正が演じる次長も含めて支店内の人間関係とその業務の描写が実に面白い。そして若い男に貢ぐために1億円を横領した女の転落の話という観客の予想を超えて、映画は最初に書いたような一種の爽快さを感じさせるラストへ到達するのだ。

 梨花の変化のきっかけは光太であったにしても、元々、梨花の内面にあったものが発現したのだという風に、吉田監督は描きたかったらしい。だから梨花と光太の関係の始まりをくどくどと描くことをやめたのだろう。ラスト近く、「一緒に行きますか?」と小林聡美に問いかける梨花のセリフは、一緒に煩わしい日常のしがらみを捨てませんか、と言っているに等しい。吉田監督、うまいなと思う。

2014/11/16(日)「FORMA」

 高校時代の同級生・由香里(松岡恵望子)が道路工事の誘導係をしていた綾子(梅野渚)と再会し、「人手不足なので自分の勤める会社で働かないか」と誘ったのが発端。好意の人に思えた綾子だが、由香里にコピーのやり直しや上司の自分に敬語を使うよう命じ、ネチネチとしたいじめが始まる。由香里の婚約者・田村(仁志原了)には高校時代の由香里について告げ口する始末。湊かなえのミステリのようないやーな話、でも面白いと思っていたら、映画は中盤で意外な展開に突き進む。

 坂本あゆみ監督によると、クライマックスの24分間のワンシーンはリハーサルなし、本読みなしの一発勝負だったそうだ。ここの長回しは一定の効果を挙げているが、全編ワンシーン・ワンカットで撮ることには疑問を持つ。映画はカットを割るのが本道だからだ。こういう撮り方をしたのはカットを割る技術と予算的な制約があったのではないかと想像してしまう。

 坂本監督との共同作業の末、仁志原了の脚本は25稿に及んだという。内田けんじの映画を思わせるようなこの脚本がよくできている。綾子が段ボール箱にボールペンで穴を開け、それをかぶって歩く冒頭のシーンの意味はなんだろうと思ったが、映画の展開を見れば、物事を単眼で(一面的に)狭い視野から見てはいけないことのメタファーなのだろう。

2014/10/26(日)「蜩ノ記」

 葉室麟の原作で最も心を動かされたのは不当に10年後の切腹を命じられた戸田秋谷ではない。飲んだくれで怠け者の父親に代わって、母親と幼い妹・お春の暮らしを支えるために懸命に働く源吉の姿だ。源吉は、秋谷の息子で10歳の息子郁太郎と同じ年頃の農家の少年。不作で年貢が重いとこぼす大人たちをよそに、屈託なくこう言う。

 「おれは早くおとなになって、一所懸命働いて、田圃増やしてえ、と思うちょる。そしたら、藺草も作れるようになる。安く買われるって言うけんど、藺草は銭になる。そうすりゃ、おかあに楽をさせてやれるし、お春にいい着物も買うてやれる。おれはそげんしてえから、不作だの年貢が重いだの言ってる暇はねえんだ」

 友人である郁太郎を大事にし、ダメな父親であっても他人が悪口を言うことを許さず、貧しい生活の中でも源吉はまっすぐに生きている。

 映画はこの源吉のエピソードが少ないのが大きな不満だ。もちろん、2時間余りの上映時間で原作のすべてを入れ込むのは無理だが、秋谷の理想的な武士の生き方と農民である源吉の生き方を対比するのは原作のポイントでもあるのだ。それを考慮していないのは脚本の計算ミスだろう。源吉の境遇と郁太郎との友情を十分に描かないと、クライマックスが盛り上がらない。

 小泉堯史監督は春夏秋冬の美しい風景を撮り、ドラマを組み立てているが、それだけで終わった観がある。可もなく不可もなしのレベル。どんなに丁寧に撮っても、映画が傑作になるとは限らないのだ。

2014/09/28(日)「るろうに剣心 伝説の最期編」

 「京都大火編」と合わせた前後編についてはアクション時代劇に革新をもたらすものとして高く評価する。個別に見れば、「伝説の最期編」は「京都大火編」より少し落ちる仕上がりと言わざるを得ない。なぜか。大きな要因はクライマックスのアクション構成の違いにある。

 「京都大火編」のクライマックスでは京都のあちこちでさまざまなアクションが繰り広げられたのに対して、今回は軍艦の中だけに限られる。谷垣健治が演出したスピード感あふれるアクション自体の出来は良いのだが、それが映画のダイナミズムに結びついていかないのだ。例えば、「七人の侍」を思い起こせば、よく分かる。クライマックスを支えるアクションに空間的な広がりを加えると、ダイナミックな映画になり得る。それがなかったのは構成上の惜しい計算ミスと言うべきか。

 もう一つ、アクションにエモーションが裏付けされていないのも弱い。激しいアクションに説得力を持たせるには主人公の激しい感情が必要だ。「京都大火編」にあったさまざまな登場人物のエモーションのほとばしりがないのは、前作で描いたことを繰り返さず、決着を付ける話に絞ったためだろうが、残念でならない。観客は前作のエモーションを携えて劇場に来るわけではない。主人公の怒りの爆発のアクションとして観客に共感を持ってもらうには、もう一度エモーションを高めるシーンを入れておいた方が良かった。

 そういう残念な点があるにしても、「るろうに剣心」の3作が邦画アクションの新たな地平を切り開いたのは間違いない。これが単発の作品とならないことをアクション映画ファンの多くのは望んでいると思う。単発では意味が薄れる。これに続けて谷垣健治のアクション演出の切れ味を生かす映画を誰かまた撮ってほしい。