2021/09/12(日)アクションを繰り返し見たい「ベイビーわるきゅーれ」

 十代の女殺し屋コンビのダラダラした日常と颯爽とした活躍を描くアクション。作りは非常に荒削りだが、同時に大きな可能性を感じさせる。「ベイビーわるきゅーれ」の感想はそんな感じになる。可能性というのは主演の一人、伊澤彩織がアクション女優として大成する可能性だ。クライマックスの伊澤彩織の格闘シーンは一見の価値どころか、100回ぐらい繰り返し見たくなる。動きがしなやかで柔らかく、めちゃくちゃ速い。女優が演じたアクションでこんなにレベルの高いものは初めて見た。

 冒頭、コンビニ内での男3人を相手にしたアクションよりもクライマックスが数段凄いのは敵役の三元雅芸(みもとまさのり)のアクションが凄いからだ。Wikipediaによれば、三元雅芸はアクション俳優として活躍するほか、「るろうに剣心」などのアクション監督谷垣健治の下でスタントマンを務めた経験があり、殺陣師でもあるという。伊澤彩織もスタントパフォーマー(男女を区別しないために伊澤彩織がこだわる言い方)出身で「るろうに剣心 最終章」2部作でもスタンドインを務めたそうだ。YouTubeで公開されている刀のアクションシーンを見ると、伊澤彩織、「るろうに剣心」で佐藤健のダブルも務めたのではないかと思えてくる。殺陣の動きがよく似ているのだ。

 そうした実力のある2人が激突するわけだから当然迫力のあるものになってくる。伊澤彩織はラストファイト撮影の1週間前、練習中に三元雅芸から自分のパンチを「フッ」と笑われ、「火が付いた」。だから本番では肘打ちも入れたという。アクション監督の園村健介はアクションシーンの設計で「女性が大勢の男の人を殺す説得力を持たせないといけないので、それなりにやっぱり、やられなきゃいけないし、素手になった時にはなるべくフィジカルの差をどう克服するかを考えた」と語っている(【ベイビーわるきゅーれ】主演 伊澤彩織&アクション監督 園村健介が語る制作舞台裏 - YouTube)。



 これは頷ける発言で、コンビニ内のアクションで伊澤彩織がナイフを振り回し、クライマックスで落とした拳銃を拾おうとするのはまったく正しい。例えば、シャーリーズ・セロンのように身長が男優に劣らない女優であっても、「アトミック・ブロンド」では周囲にあるものを手当たり次第に武器にした。身長159センチの伊澤彩織のアクションに説得力を持たせるにはハンディを克服するための銃とナイフを利用した方が良いのだ。それがリアリティーにつながる。
宮崎キネマ館に舞台あいさつで訪れた高石あかり(2021年9月11日)
宮崎キネマ館に舞台あいさつで訪れた高石あかり(2021年9月11日)

 もう一人の殺し屋役高石あかりはそうしたアクションはできないものの、ガンプレーの速さを見ると、相当に練習したことがうかがえた。コミュ障で社会不適合者で陰キャの役柄の伊澤彩織に対して明らかな陽キャ。この2人が高校卒業と同時に殺し屋の寮を出てアパートで一緒に暮らす、というのが映画の設定で、2人は仕事である男を殺したことからヤクザに付け狙われることなる。

 偏執的で凶暴なヤクザの親分を演じる本宮泰風の怖くておかしい味わいとか、その娘秋谷百音の弾けたキャラとか、息子役うえきやサトシのなんだかかわいそうなキャラとか、キャストはいずれも好演している。映画全体としては脚本も演出もまだ改善するところはあるのだろうが、阪元裕吾監督のまとめ方は悪くない。この設定の話ならシリーズ化も可能だ。荒削りな部分をなくし、アクションファン以外にもアピールする第2作、第3作を切望したい。

2021/08/12(木)「海辺の彼女たち」が示す移民の苦境

 ベトナムから技能実習生として来日した3人の女性たちの苦境を描く。ミャンマー人家族を描いた「僕の帰る場所」(2017年)に続く藤元明緒監督の長編2作目。話の展開は、環境も待遇もひどかった最初の職場から逃げだし、雪国の漁港で働き始めた3人のうち1人が体調不良になり、妊娠が発覚する、というだけなのだが、事態は極めて深刻だ。技能実習生ではなくなった途端、身分証も保険証もなくなり、不法滞在になっているので病院に行くこともできないのだ。不法滞在が発覚すれば、強制送還が待っている。
「海辺の彼女たち」パンフレット

 困ったフォン(ホアン・フォン)は身分証と保険証を偽造してもらい(5万5000円もかかる)、病院に行く。体調不良の原因は妊娠の影響で逆流性食道炎になったことだった。超音波で胎児を見たフォンは日本語で「小さい」とつぶやく。

 彼女たちはベトナムのブローカーに大金を払って来日している。職場を変わる際にも大金を払った。技能実習という国の制度を利用しているにもかかわらず、こうした余計で不透明な金がかかる現状はおかしいだろう。実習生の期間は3年に限られており、低い賃金の中から支払った金を取り戻すのも大変な現状なのだ。だから実習生の脱走が相次ぐことになる。制度不良と言って良いと思う。

 パンフレットによると、日本は世界4位の移民大国で、来日する実習生の6割はベトナムからだそうだ。彼らは風俗産業に就いているわけではないが、境遇は1980年代に問題になった「じゃぱゆきさん」とあまり変わらないだろう。いや、当時の日本は裕福な国だったが、現在は違う。東京の最低賃金はタイのバンコクより低いそうだし、平均年収は韓国より低い。

 タイやフィリピンからの労働者が減っているのはそうした日本の経済力低下が関係しているだろう。超高齢社会の日本は将来的に移民労働者をあてにしているが、自国より低い賃金の国に誰が働きに来ますか。ベトナムの実習生も待遇を改善しないと、いずれ来てくれなくなるだろう。実習生の待遇改善には日本の労働者の待遇を改善しないと、どうしようもない。アベノミクス以降、円安誘導の経済政策を続けてきた結果、円の価値が下落し、日本の労働条件は諸外国に比べて大きく低下してしまった。80年代から90年代にかけてのバブル期を知る中高年層にはまだ日本が裕福と思っている人がいるが、そうした幻想はとっとと捨て去った方がいい。

 この映画は音楽もなく、自主映画に近い体裁だが、現状を知らしめる意味で作った意義は大きい。撮影は青森県外ヶ浜町で行われ、町も撮影に協力してくれたそうだ。彼女たちを演じたのはホアン・フォンのほか、アン役にフィン・トゥエ・アン、ニュー役にクイン・ニュー。パンフレットには彼女たち3人が美しく着飾った写真が掲載してある。粗末な小屋での寝起きを演じた彼女たちは、日本の現状をどう思っただろう。

2021/07/18(日)「美女と野獣」の先にあるテーマ「竜とそばかすの姫」

 キネマ旬報2021年8月上旬号の細田守監督インタビューによれば、「竜とそばかすの姫」のコンセプトとして監督が考えていたのは「インターネットの世界を舞台に、現代の『美女と野獣』を描きたい」ということだった。細田監督はディズニーの名作アニメ「美女と野獣」(1991年)に大きな影響を受けている。だから「おおかみこどもの雨と雪」(2012年)の母親とオオカミの関係は美女と野獣だし、「バケモノの子」(2015年)の英題は「The Boy and The Beast」なのだそうだ。今回初めて「美女と野獣」によく似たシーンが登場するが、ただのオマージュに留まっていないのは竜=野獣の正体がハンサムな王子様などではなく、そこから本当のテーマが立ち上がってくるからだ。
「竜とそばかすの姫」パンフレット
 「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」(2000年)とそれを深化・拡大した「サマーウォーズ」(2009年)と同様の舞台である仮想世界で、傷ついた竜の正体を知った主人公は現実世界で苦しむその正体の人間を助けるために奔走する。仮想世界でも現実世界でも世界を変革するにはちょっとした勇気が必要だ。映画はそんなことを語りかけてくる。

 主人公は高知県の田舎町に住む女子高校生のすず(中村佳穂)。すずの母親はすずが幼い頃、増水した川の中州に取り残された少女を助けようとして亡くなった。その事故以来、父親と2人暮らしで、成長したすずは父親とまともに会話していない。好きだった歌も歌えなくなった。ある日、すずはパソコンに詳しい親友のヒロちゃん(幾田りら)に誘われ、50億人以上が集うネットの仮想世界<U>に参加する。<U>は現実の人間のキャラクターを元にした分身As(アズ)で別のキャラクターを生きることができる。すずのAsはベルという名の歌がうまい、そばかす美人だった。ベルは歌と美貌で人気を得てコンサートを開くが、そこに竜と呼ばれる謎の存在が現れ、コンサートを無茶苦茶にしてしまう。正義を名乗るAsの集団は執拗に竜を追い詰めていく。

 近年の細田監督作品は家族をテーマにしている。この作品も終盤、「美女と野獣」を離れて家族の問題を描いていくことになる。すずの母親が少女を助けようとして死ぬ設定はなぜ必要だったのか。クライマックス、すずは自分の行動の過程であの時の母親の姿を思い出す。母親は危険を冒してでも少女を見殺しにすることなどできなかった。母親は自分を見捨てて少女を助けようとして、結果的に自分に寂しい思いをさせることになったと、すずは思ってきたのだが、自分が同じような立場になって初めて母親の決断を肯定することができたに違いない。それは母親を深く理解することであり、父親との和解にもつながっていく。そうしたすずの変化が胸を打つ。

 3DCGを取り入れた<U>の造型は素晴らしく、アニメーションの表現は細部まで美しく丁寧だ。「美女と野獣」のアラン・メンケンほどではないにせよ、音楽も世界を豊かに彩っている。アニメの表現を突き詰め、テーマを十分に描いて間然とするところがない傑作だと思う。

2021/06/24(木)世界レベルのアクション「ザ・ファブル 殺さない殺し屋」

 1年間殺しを禁じられた凄腕の殺し屋ファブルの活躍を描く2年ぶりの続編。アクションもドラマも前作を大きく上回る傑作に仕上がった。クライマックス、団地の足場を崩しながらのアクションは世界レベルに届くスケールだし、冒頭の猛スピードで暴走する車の上でのアクションも迫力とオリジナリティーに富んでいる。特徴的なのはアクション場面のスピード感で、主演の岡田准一だけでなく、木村文乃も動きが速い速い。笑いの場面も含めて映画の完成度は高く、ここ数年の邦画アクションでは間違いなくダントツの面白さだ。
「ザ・ファブル 殺さない殺し屋」パンフレット

 4年前、6人の殺しを命じられたファブル(岡田准一)はワゴン車に乗った5人目を簡単に始末するが、男が倒れ伏して車は立体駐車場内を暴走。後部座席には涙ぐむ少女が乗っていた。ファブルは少女を助けようとするが、車は屋上から転落、間一髪、ファブルは少女を抱えて車から飛び降りる。2人は車の屋根に落ち、少女は気を失う。そして今、ボス(佐藤浩市)から殺しを禁じられたファブルは佐藤アキラと名乗り、相棒ヨウコ(木村文乃)と兄妹を装って普通の生活をしている。ある日、公園で車椅子の少女ヒナコ(平手友梨奈)と出会う。ヒナコは鉄棒を使い、立ち上がろうとして倒れる。それを見ていたファブルは少女に「歩けるようになる」と話す。ヒナコは4年前に駐車場でファブルが救おうとした少女であり、あの時の事故で歩けなくなったらしい。今は子どもを守るNPO団体の代表・宇津帆(堤真一)と暮らしているが、宇津帆は影で殺人も厭わない危ないビジネスを行っていた。

 「1作目を超えなければ2作目を作る意味がない」というのは「ルパン三世 カリオストロの城」(1979年)公開時のコピーだが、今回、「ザ・ファブル 殺さない殺し屋」のスタッフも「前作を超える」を合言葉にしたそうだ。アクション場面が凄いのは今回から加わったアクション監督横山誠の功績かと思ったら、キネマ旬報2021年2月上旬号(1858号)の特集を読むと、岡田准一のアクションにかける熱意によるところが大きいようだ。横山誠のインタビュー記事には「本作を圧倒的に特別なものにしたのは、やはりファブルを演じた岡田の素材だった」とある。
「ロケの許可が下りて仕込みが終わった後、まず僕らアクション部でリハーサルをするんですが、岡田さん、すでにその場にいましたからね。ジャージー姿で(笑)。ふつう役者さんは本番の日に初めて現場に来るものですけど、岡田さんがリハに来てくれたのは1回や2回じゃないし、必ずそこでプラスアルファのアイデアをどんどん出してくれる。武術に関しては僕らなんかより詳しいうえに、誰よりもうまいですしね」
 岡田准一がアクションの人と認識されたのは「SP 野望篇」(2010年)「SP 革命篇」(2011年)の2部作からだろうが、それ以前の「フライ、ダディ、フライ」(2005年)でも体の動きは人並み外れていたなと今にして思う。デビューしてから25年、岡田准一は孤独に黙々とアクションに関する勉強や準備をしてきたのだという。「主演をメインとした人物の動きや技で見せていってそこに美を求めるのが東洋のアクションの構成です。対して、ストーリーに沿った登場人物の心情を、その人物に与える負荷や場の動き、転がし方などを画(え)で見せつつ表現していくのが西洋のアクション」という指摘ができるほど、アクションに精通しているのだ。

 立体的に構成された団地のアクションを見て、僕は「プロジェクトA2 史上最大の標的」(1987年)を思い浮かべた。当時のジャッキー・チェンはハロルド・ロイドやバスター・キートンなどサイレント映画のアクションに強い影響を受けていた。岡田准一がジャッキー・チェンをどう評価しているかは知らないが、この映画でやったことはジャッキーのアクションをより洗練された形で見せていることにほかならない。

 ドラマパートに関しては元アイドルの域を超えた平手友梨奈の好演が目立ち、佐藤二朗のおかしさを含めてエンタテインメントとしてよくまとまっている。こういう破綻のないアクション映画が見たかったのだ。江口カン監督、横山誠アクション監督、岡田准一主演でぜひぜひ続きを見せてほしいと思う。

2021/06/06(日)細やかな描写が欲しい「るろうに剣心 最終章 The Beginning」

 主人公の緋村剣心(佐藤健)が「不殺(ころさず)の誓い」をして逆刃刀(さかばとう)を持つ契機となった出来事を描く「追憶編」の映画化で、シリーズ第5作。“人斬り抜刀斎”と呼ばれた幕末の剣心を描く「始まりの物語」なので、「最終章」はおかしいのだが、このスタッフ・キャストでの映画版はこれが最後という意味だろう。映画本編のタイトル(最後に出る)に「最終章」の文字はない(「The Final」の時にもなかった)。

 毎回、「アクションは良い、ドラマが弱い」と言われてきたシリーズだが、今回はドラマがメインになる。それではドラマは良くなったのかというと、やっぱり弱い。心の動きを表現する細やかな描写とエピソードが必要な内容なのに、それがないのだ。例えば、山田洋次「たそがれ清兵衛」のような在り方が望ましいが、大友啓史監督、そういう部分は得意ではないのだろう。
「るろうに剣心 最終章 The Beginning」パンフレット

 京都所司代・見廻組の清里明良(窪田正孝)を斬った際に左頬に切り傷を負った剣心はある夜、酒場で一人の女を酔っ払いから助ける。店の外の暗がりで襲ってきた何者かを剣心は斬り捨てるが、礼を言おうと追ってきた女がそれ見ていた。「あなたは本当に血の雨を降らすのですね」。斬られた男の血を浴びた女はそう言い、気を失う。剣心は長州藩士たちが泊まる宿に女を連れ帰る。女の名前は雪代巴(有村架純)。「帰りを待つ家族はいない」と言う巴は翌日から、その宿で働く。京都では新選組が長州藩の謀反の動きを知り、藩士が集まった池田屋を襲撃する。続く「禁門の変」でも敗北した長州藩の桂小五郎(高橋一生)や高杉晋作(安藤政信)らはしばらく身を隠し、反撃の時を待つことを決めた。剣心は巴と一緒に農村に行き、畑を耕して暮らすことになる。穏やかな暮らしの中、2人の間には徐々に愛が芽生え始める。

 この農村での描写が映画のキモになるはずが、そうなっていない。巴は剣心に殺された清里明良のいいなづけで、復讐のため剣心の弱みを握るために幕府直属の暗殺集団「闇乃武」に命じられて剣心に接近した。その巴が復讐心を捨て、剣心に惹かれるようになった直接的なきっかけを描かないと、説得力に欠けるのだ。剣心は終盤まで巴の正体を知らなかったという設定だが、これも最初から知っていた設定にした方がドラマに深みが出たのではないかと思う。剣心の十字傷の理由もその方がしっくり来る。

 ただし、巴を演じる有村架純は抜群の良さだ。薄幸で不運な巴の悲しさを漂わせ、この映画を強く批判する人でも有村架純のたたずまいの素晴らしさには矛を収めるだろう。「花束みたいな恋をした」でも感じたが、有村架純、絶好調と言うほかない。

 映画はラスト、シリーズ第1作(2012年)の「鳥羽・伏見の戦い」の場面につながっていく(この映画より後の時代の話なのに、斎藤一を演じる江口洋介が今より若いのは仕方がない)。シリーズは9年かけて円環を閉じた。アクション映画好きとしてはこのシリーズ、少しぐらいドラマが弱くても、時代劇アクションに新たな地平を切り開いた功績を積極的に評価したい。かつての日本映画なら「新」とか「続」とか付けてシリーズを続けただろうが、もうそんな時代ではない。大友啓史、佐藤健には別のアクション映画での復活を期待したいところだ。