2014/10/26(日)「蜩ノ記」

 葉室麟の原作で最も心を動かされたのは不当に10年後の切腹を命じられた戸田秋谷ではない。飲んだくれで怠け者の父親に代わって、母親と幼い妹・お春の暮らしを支えるために懸命に働く源吉の姿だ。源吉は、秋谷の息子で10歳の息子郁太郎と同じ年頃の農家の少年。不作で年貢が重いとこぼす大人たちをよそに、屈託なくこう言う。

 「おれは早くおとなになって、一所懸命働いて、田圃増やしてえ、と思うちょる。そしたら、藺草も作れるようになる。安く買われるって言うけんど、藺草は銭になる。そうすりゃ、おかあに楽をさせてやれるし、お春にいい着物も買うてやれる。おれはそげんしてえから、不作だの年貢が重いだの言ってる暇はねえんだ」

 友人である郁太郎を大事にし、ダメな父親であっても他人が悪口を言うことを許さず、貧しい生活の中でも源吉はまっすぐに生きている。

 映画はこの源吉のエピソードが少ないのが大きな不満だ。もちろん、2時間余りの上映時間で原作のすべてを入れ込むのは無理だが、秋谷の理想的な武士の生き方と農民である源吉の生き方を対比するのは原作のポイントでもあるのだ。それを考慮していないのは脚本の計算ミスだろう。源吉の境遇と郁太郎との友情を十分に描かないと、クライマックスが盛り上がらない。

 小泉堯史監督は春夏秋冬の美しい風景を撮り、ドラマを組み立てているが、それだけで終わった観がある。可もなく不可もなしのレベル。どんなに丁寧に撮っても、映画が傑作になるとは限らないのだ。

2014/09/28(日)「るろうに剣心 伝説の最期編」

 「京都大火編」と合わせた前後編についてはアクション時代劇に革新をもたらすものとして高く評価する。個別に見れば、「伝説の最期編」は「京都大火編」より少し落ちる仕上がりと言わざるを得ない。なぜか。大きな要因はクライマックスのアクション構成の違いにある。

 「京都大火編」のクライマックスでは京都のあちこちでさまざまなアクションが繰り広げられたのに対して、今回は軍艦の中だけに限られる。谷垣健治が演出したスピード感あふれるアクション自体の出来は良いのだが、それが映画のダイナミズムに結びついていかないのだ。例えば、「七人の侍」を思い起こせば、よく分かる。クライマックスを支えるアクションに空間的な広がりを加えると、ダイナミックな映画になり得る。それがなかったのは構成上の惜しい計算ミスと言うべきか。

 もう一つ、アクションにエモーションが裏付けされていないのも弱い。激しいアクションに説得力を持たせるには主人公の激しい感情が必要だ。「京都大火編」にあったさまざまな登場人物のエモーションのほとばしりがないのは、前作で描いたことを繰り返さず、決着を付ける話に絞ったためだろうが、残念でならない。観客は前作のエモーションを携えて劇場に来るわけではない。主人公の怒りの爆発のアクションとして観客に共感を持ってもらうには、もう一度エモーションを高めるシーンを入れておいた方が良かった。

 そういう残念な点があるにしても、「るろうに剣心」の3作が邦画アクションの新たな地平を切り開いたのは間違いない。これが単発の作品とならないことをアクション映画ファンの多くのは望んでいると思う。単発では意味が薄れる。これに続けて谷垣健治のアクション演出の切れ味を生かす映画を誰かまた撮ってほしい。

2014/09/21(日)「柘榴坂の仇討」

 原作は浅田次郎の短編集「五郎治殿御始末」に収められた同名作品。映画を見た後に読んだら、5つの場面で構成され、38ページしかない。映画と同じ冒頭の長屋のシーンと回想の桜田門外の変の場面、主人公の志村金吾(中井貴一)が司法省の秋元警部(藤竜也)宅を訪ねる場面、柘榴坂での対決とその後の場面の5つである。浅田次郎作品の中でこの短編が特に優れているわけではなく、泣けるわけでもなく、これがなぜ映画化されたのかよく分からなかったが、公式サイトを見ると、「男たちの矜持を映画にしたい」というプロデューサーの好みによるようだ。

 それはそれとして、原作だけでは長編映画にはならないので脚本はそれを大きく膨らませている。登場人物を増やし、エピソードを加え、金吾とその妻セツ(広末涼子)の長屋での貧しい暮らしを描く。映画が付け加えたエピソードで良いのは中盤、金貸しに返済を迫られた元侍を助けようとした金吾に周囲の町民が次々と元武士であることを名乗り出て手助けしようとする場面だ。明治維新後の廃藩置県で180万人の武士たちは野に下ったが、武士の気概をなくしたわけではないことを象徴している。

 主人公の金吾は剣の達人で井伊直弼の警護を担当していたが、桜田門外の変で奪われた槍を取り返しに行っている間に井伊は殺されてしまう。両親が自害したために切腹も許されず、逃亡した犯人たちの一人を討つことを命じられ、13年間、犯人の姿を追い求めることになる。若松節朗監督の「ホワイトアウト」「沈まぬ太陽」はいずれも信念を曲げない男を描いていた。この映画の主人公もそういうタイプであり、愚直な生き方を貫いている。

 しかし個人的に映画で最も心を動かされたのは「ひたむきに生きる」主人公ではなく、人力車夫の直吉(阿部寛)が同じ長屋に住むマサ(真飛聖)に言うセリフだ。

 「今度、おちよ坊を(俥に)乗っけて、湯島天神の縁日にでも行きやせんか」

 直吉は桜田門外の変で大老井伊直弼を襲撃した18人の刺客の1人。事件後に逃亡し、本名の佐橋十兵衛から名前を変え、人力車を引きながらひっそりと暮らしている。マサは出戻りで幼い娘のチヨと暮らす。チヨがなついている直吉に密かに思いを寄せているが、「出戻りの女なんて相手にされるはずがない」と思い込んでいる。このセリフはそんなマサを思っての言葉であるだけでなく、桜田門外の変後、ほとんど人生を捨てていた直吉が再び生きようとする決意が表れたセリフでもあるのだ。飾らない阿部寛のたたずまいが実に良く、13年間の直吉の逃亡生活をもっと見たくなる。

 雪が降りしきる桜田門外の場面など映画の描写やエピソードはどれも悪くはない。ただ、全体的にもっと細やかな情感が欲しいところだ。正直な映画化で大きく減点すべき部分はないのだけれど、十分に満足できたわけでもないのだ。

2014/09/07(日)「ぼくたちの家族」

 「キョウコさん、今日は一晩中付き合ってほしいんですけど」

 「あたし、童貞君はNGだから」

 という池松壮亮と市川実日子のやり取りでクスッと笑い、その後のラッキーカラーとラッキーナンバーのエピソードで石井裕也監督、うまいなあと思った。ラッキーカラーのだめ押しで黄色いタクシーが出てきたところで場内は爆笑である。物事がそんなにうまくいくはずはないし、そんなに偶然が続くわけでもないが、「こうしたことあるある」「こんなことがあってもいいよね」と思わせるのだ。

 母親(原田美枝子)が脳腫瘍で余命1週間と宣告されるのが発端となるような映画で誰が笑いを予想するだろう。脳腫瘍のほかに両親の多額の借金も出てくるし、無粋な監督が撮ったら、陰々滅々の映画になっていてもおかしくなかった題材なのだ。突然、関係ないことを口走る原田美枝子の絶妙の演技で幕を開けた映画は家族(父親と息子2人)の苦悩を描きながら、ユーモアを挟むことでキャラクターに血肉を通わせる。これが映画に膨らみを持たせることにもつながっている。実際、どんなに深刻なシチュエーションであっても人間、1人でなければ、家族や仲間がいれば、ずーっと苦虫を噛み潰したような顔をしているわけではないだろう。映画が終わっても、家族が抱えた問題は何一つ解決しないが、それでも気分はとても晴れやかになる。

 石井裕也監督の手つきは日本映画がかつて得意だった笑いとペーソスではなく、かつての良質なハリウッド映画の洗練を感じさせる。小品だが、秀逸な家族映画だ。

2014/07/20(日)「私の男」

 熊切和嘉監督の前作「夏の終り」はドロドロした話なのに、画面にはドロドロさがまったくなかった。主演の満島ひかりが健康的すぎたためだろう。似合わない役柄だったのだ。きれいすぎる女優はリアルな役柄には向かないのではないかと思う。「私の男」の二階堂ふみは中学生から20代前半までを演じて、そのドロドロさを画面に充満させている。

 とはいっても、こちらが考えるドロドロさとは違う映画だった。おどろおどろしさもなければ、陰湿さもない。浅野忠信と二階堂ふみの濃厚な絡みの場面を見て、日活ロマンポルノや神代辰巳の映画のようになっていくのかと思ったら、そうはならず、映画は少女の成長と変貌に焦点を絞っていくのである。絡みの場面で血の雨を降らせる演出は画面のショッキングさとは裏腹にメタファーが分かりやすすぎて気恥ずかしい(後の殺害シーンで血しぶきを浴びる浅野忠信の場面と呼応している)し、映画は終盤、エピソードを大胆に省略・改変しているのだけれど、それでも話はつながるし、よく分かる。

 何よりもこの終盤は二階堂ふみの変貌に目を奪われるのだ。これは小説では表現しにくい、映画の利点と言える。二階堂ふみ、まったくうまいとしか言いようがない。幼虫から成虫になる過程を思わせる二階堂ふみの演技は映画の説得力を背負っており、モスクワ国際映画祭で浅野忠信が主演男優賞を取ったのは何かの勘違いとしか思えない(ニューヨーク・アジア映画祭で二階堂ふみはライジング・スター・アワードを受賞した)。

 映画には納得して深く感心したが、死体の処理を描かないのが気になって桜庭一樹の原作を読んだ。同じように気になった人のために書いておくと、死体はビニールのふとん収納袋に入れて密閉した上でふとんにくるみ、奥の四畳半の押し入れに入れてある。だから2人の住む古びたアパートには饐えた臭いがかすかに漂うことになっている。映画ではアパートの周囲と部屋の中にゴミ袋が散乱しているので死体をバラバラにしてゴミ袋に入れたのかと想像したが、何も処理していなかったわけだ。

 原作は映画のラストシーンから始まる。あの後の話(結婚式とそれ以降)を描いた後、第2章から原作は過去にさかのぼっていく。2008年現在から2005年、2000年7月、同1月、1996年を経て発端の1993年、北海道南西沖地震で津波に襲われた奥尻島へ。この時系列を逆にした構成が秀逸だし、細部の描写がいちいちうまい。直木賞受賞も当然の傑作だと思う。

 映画は原作の構成を捨て、物語を時系列に沿って語っている。冒頭の流氷の海から這い上がる主人公花(二階堂ふみ)の場面から津波で生き残った子供の頃へと画面が切り替わるジャンプショットを除けば、起きたことを順番に描いている。映画化の企画は多数あったそうだが、この単純とも言える構成が逆に幸いしたのではないか。

 良かれと思ってしたことが徒になって、流氷の上でなすすべもなく遠ざかっていく藤竜也。雪と氷に覆われたオホーツク海に臨む紋別の描写が魅力的だ。