2006/09/27(水)「わたしを離さないで」

「わたしを離さないで」表紙 SFとミステリの枠組みで語られる文学。それも素晴らしい文学。中心となるアイデアは昨年公開された映画「アイランド」に似ているが、展開がまるで異なる。最初のページに登場人物たちの秘密につながる重要なキーワードが既に出てくるし、数ページ読み進めるうちにこれはあの映画と同じではないかと分かってくる。そして3分の1ぐらいのところで作者のカズオ・イシグロはそれを明らかにする。その場面が特に強調されるわけではない。そこに至るまでに読者には秘密が分かっているからだ。作者の意図は秘密よりもその立場に置かれた若者たちを描くことにあったのだろう。

 煎じ詰めれば、これは「限られた短い命を定められた若者たちの生き方」を描いた話である。彼らの制限された生き方は普通の人たちと違うのか。少しも違わない。彼らもまた恋をするし、些細なことで怒ったり、笑ったりする。仲間内のいじめもある。にもかかわらず、この小説の全体にあるのは透明で深い悲しみだ。同時に彼らに課せられた過酷な運命とそれを人為的に作り出した人間たちに怒りが湧いてくる。そしてもちろん、カズオ・イシグロは意識しているだろうが、倫理的な問題が残るこの技術を安易に進めるべきではないとの強烈なメッセージになっている。

 彼らの置かれた状況は戦時下にも置き換えられるし、難病を生まれつき背負った患者にも置き換えられる。強制収容所に入れられたユダヤ人たち、屋根裏部屋に隠れて生き延びようとしたアンネ・フランクをも彷彿させる。そこがこの小説の優れたところなのだろう。読売新聞の作者インタビューによれば、「イギリスの田舎に住む若いグループが、核兵器によって短い人生を終えるというのが当初の設定」だったという。自分たちの運命を受け入れ、それでも小さな幸福と小さな喜びにすがって生きる彼らの生き方には胸を締め付けられる。

 終盤、主人公の介護人キャシーとその恋人のトミーは3年間だけ平穏に暮らせるといわれる方法の真偽を確かめる。それが残酷な結末に終わっても、この小説の魅力はそうしたプロットにあるわけではない。例えば、第1章にあるこんな場面で僕はこの小説に引き込まれた。

 癇癪持ちであるためにみんなからいじめられるトミーにキャシーが語りかける場面。トミーは得意のサッカーの選手に選ばれると期待していたが、選ばれず、ぬかるみの中で叫びながら地団駄を踏んで、一番お気に入りのシャツを泥だらけにしてしまう。

「トミー」と、わたしはとがめる口調で言いました。「大切なシャツが泥だらけじゃない」
「だから何だよ」ぼそぼそと言いながら、トミーは下を向き、点々とついている茶色の染みに気づきました。わっと叫ぼうとして、危うく思いとどまったふうでした。次に現れたのは意外そうな表情です。これが大事なポロシャツだってこと、こいつはなぜ知ってる……? その思いだったでしょうか。

 穏やかで繊細な筆致で統一されたこの小説はだからこそ、読む者の胸に迫る。カズオ・イシグロの「日の名残り」は僕には関係ない世界と思って、小説も読んでいないし、映画も見ていないが、これほどの小説を書ける作者の本はすべて読みたくなる。そう思わせるほどの傑作。

2006/09/10(日)「ハリウッドで勝て!」

 「ハリウッドで勝て!」表紙全米ナンバーワンヒットとなった「The Juon/呪怨」のプロデューサー一瀬隆重の本。といっても、本人が書いているわけではなく、大谷隆之という人が聞き書きで構成したもの。一瀬隆重が唯一監督した「帝都大戦」は「帝都物語」の続編で世間的にはあまり評判がよろしくなかったが、僕は超能力バトルの映画としてそれなりに面白く見た。→「帝都大戦」映画評

 この映画は「孔雀王」のラン・ナイチョイが降板してしまい、プロデューサーの一瀬がやむなく引き受けた経緯がある。一瀬は「『帝都大戦』はさんざんな結果に終わりました。この先、自分で監督を引き受けることは絶対にないでしょう」と語っている。しかし、この失敗から監督が映画製作の過程でどんなことを考えるかを身をもって知ることになる。この時の体験が後の「リング」に生かされた。

 プロデューサーを務めた釈由美子主演「修羅雪姫」のパンフレットには「日本映画は今のままじゃダメだ。だから、今日の傑作やヒット作じゃなく、未来の大傑作や大ヒット作を生み出すために、失敗を恐れず実験しなきゃいけない」と書いていた(これについては2002年2月27日の日記にも書いた)。20世紀フォックスとファーストルック契約(スタジオから一定の報酬をもらう代わりに自分の企画はそのスタジオに最初に見せる契約)を結んだ今の一瀬は将来的にそれを実践するつもりなのだろう。テレビ局製作の映画が大ヒットしている現状について「このまま行けば、近い将来、日本映画は観客の信用をもう一度失うことになる」とあらためて語っている。

 「ウルトラQ」の第1回目をテレビの前で心待ちにしていたというから、一瀬の映像体験は僕とほぼ共通している。インディペンデントのプロデューサーがハリウッドでどのようにステップを上がっていきつつあるかが、よく分かる本である。

 個人的に興味があったのは「映画投資ファンド」の話で、映画「忍 SHINOBI」では一口10万円で個人投資家を募り、1300人が応募して5億円余りを調達したそうだ。規制が多くて中小の会社では難しい面があるそうだが、これは機会があったら投資してみたいなと思う。それには少なくとも大幅な元本割れがないようにしてほしい。理想は100円でも200円でも投資額を上回るリターンが望ましいのだが、映画ビジネスの場合、大ヒットにならないと、難しいだろう。貯金しても大した利子はないのだから、映画に投資した方がましである。