2011/06/22(水)「15のわけあり小説」

 ジェフリー・アーチャーの短編集。収録された15編のうち、10編が事実を基にしたもので、残り5編が完全なフィクション。前者に比べて後者が大いに見劣りしている。落ちが読めるのだ。同じジェフリーでもディーヴァーの切れ味の鋭さに比べると、アーチャーは(短編に関しては)二流だなと思う。しかし、事実を基にした小説がすごく面白い。ゴルフクラブの会員になりたくて努力を重ねる男の人生を描いた「メンバーズ・オンリー」など中盤から最後まで面白い小説が並び、途中でやめなくて良かったと思った。

2011/06/07(火)「わたしの渡世日記」

 文筆家としての高峰秀子を僕はまったく知らなかった。この本は北海道で生まれて、養女にもらわれ、養母との凄絶な愛憎を経て松山善三と幸福な結婚をするまでの半生を綴ったもの。結婚後20年ぐらいを経た時点で書いている。第一章の「雪ふる町」でその文体と内容に強く引き込まれる。映画ファンはいっそう楽しめるが、そうでなくても面白く読める一級の読み物だと思う。高峰秀子は5歳から女優の仕事を始め、ろくに学校にも行っていない。なのに、これほど面白い文章が書けるというのは、やはり生まれ持った才能によるものと、文章に人柄がにじみ出ているからだろう。

2011/05/02(月)「フランケンシュタイン 野望」

 ディーン・クーンツの小説。天才科学者ビクター・フランケンシュタインが200年後の今も生きていて、新人種を多数作り出しているという設定。新人種は社会の至る所に送り込まれ、旧人種(つまり今の人間)を絶滅させる日に備えている。臓器など体の一部を切り取る凄惨な連続殺人事件の捜査をしていた女性刑事カースンとマイケルはフランケンシュタインの存在にたどりつく。フランケンシュタインが最初に創造したモンスターはデュカリオンと名乗り、やはりフランケンシュタインの野望を阻止しようとしていた。

 シリーズの第一弾。連続殺人事件だけで話が終わるのはいかにも導入部という感じだが、物足りないことこの上ない。話の密度が薄いのだ。元々、マーティン・スコセッシも企画に加わったテレビシリーズ用に書いた原作だが、制作者と意見が合わず、クーンツもスコセッシも降板した。テレビシリーズ自体もパイロット版(2004年、マーカス・ニスペル監督)だけで頓挫したとのこと。同じクーンツのオッド・トーマスシリーズは1作目が素晴らしかったので、4作目まで読んだが、そのシリーズを中断してこれにとりかかる必要があったとは思えない。といっても水準はクリアしている。パイロット版は「デュカリオン」としてDVDが出ている。新たに映画化の話があるそうだ。

2011/04/23(土)「クリスマスに少女は還る」

 昨年、このミスで1位となった「愛おしい骨」のキャロル・オコンネルの小説で2000年版このミス6位。個人的には「愛おしい骨」より面白かった。

 「クリスマスも近いある日、二人の少女が失踪した。刑事ルージュの悪夢が蘇る。十五年前に殺された双子の妹。だが、犯人は今も刑務所の中だ。まさか? 一方、監禁された少女たちは奇妙な地下室に潜み、脱出の時をうかがっていた」という物語。

 終盤に驚愕すること請け合い。意外な犯人には驚きもしないが、読者に仕掛けるトリックが秀逸。物語の魅力になっている部分にトリックがある。それがトリックだけに終わらず、物語とキャラクターの深みにつながっているのが良い。「愛おしい骨」の解説で川出正樹は「超絶技巧の」と紹介していたが、なるほどと思った。

2010/08/21(土)温暖化否定の3冊

 鹿野司の科学エッセイ「サはサイエンスのサ」の終盤に地球温暖化に対する疑問が出てくる。鹿野司はIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の「一切の温暖化対策をしない場合、地球平均気温が1.1~6.4度の幅で上昇し、それに伴って18~59センチの海面上昇が起きる」という第四次報告書に関して「傾向は当たっている、定性的には当たっているとは思うけど、定量的な数字はマジに受け取るべきではない」という立場だ。「なぜなら、この値を導いたのは、ある仮定に基づくモデルに過ぎなくて、そのモデルに用いられるデータも地球まるごとという規模からはほど遠いからだ」。そして「ここで問題になるのは、一度発表された数値は、そういう科学的な態度とは別の次元で一人歩きしてしまうってことだ」としている。

 一人歩きもいいところで、現在、地球温暖化はほとんどの人の了解事項になっている。「エコ、エコ」の大合唱でプリウスなどのハイブリッドカーやエコ家電などが売れている。まあ、一般消費者がエコロジーの意識でこういう製品を買っているとは考えにくく、単に燃費の良さや消費電力の少なさによる出費の少なさ、つまりエコノミー的な考えが大半だろう。低炭素社会というキーワードで二酸化炭素の削減が地球温暖化を防止するというのもほとんどの人が思っていることだ。というか、僕もそう思っていた。温室効果ガスの削減が声高に叫ばれ始めたのは京都議定書が議決された1997年の地球温暖化防止京都会議(COP3)のころからで、温暖化防止=二酸化炭素削減という図式はすっかり慣れ親しんだものになっている。

 広瀬隆の「二酸化炭素温暖化説の崩壊」はそれを真っ向から否定する。定量的な否定ではなく、IPCCの主張が間違っている、というか、データを捏造していたという驚くべき事実が分かったクライメートゲート事件を紹介しているのだ。日本ではあまり報道されなかったこの事件は気温が20世紀に入って急上昇したことを示すIPCCのグラフが捏造だったことが分かった事件。IPCC関係者が「うまくだました」とはしゃぐメールが流出したことで事件が発覚した。IPCCは捏造を認めているという。なんとね。あきれるばかりだ。IPCCの報告に沿って、二酸化炭素削減政策を取ってきた各国政府や民間の環境保護団体の立場はいったいどうなるのか。

 事件によってIPCCは「過去15年にわたって、統計的に有意な温暖化は起こっていない」と認めた。温暖化が近代産業による明確な結果だという主張も崩れた。二酸化炭素排出増加による温暖化は起こっていない。よくも騙してきたな、という感じである。

 本書は第1章「二酸化炭素温暖化論が地球を破壊する」でこうした二酸化炭素温暖化説のウソを徹底的に暴く。問題はなぜIPCCがそんな捏造を行ったのかという点が不明確なことで、「IPCC議長が温室効果ガスの排出権取引で莫大な利益を得ている銀行の顧問を務めていた」というだけでは弱いだろう。

 第2章「都市化と原発の膨大な排熱」はヒートアイランド現象と電力について俯瞰している。「東京に原発を」「危険な話」の広瀬隆だから、原発の危険性と効率の悪さ、環境破壊を強調した上で、新しい発電法ガス・コンバインドサイクルを用いた火力発電と、電気と熱を同時に産み出すコージェネレーション技術を紹介している。

 マイケル・クライトンの「恐怖の存在」は2004年に発行され、2007年に文庫になった。僕は文庫を買ったが、当時は常識と思われていた温暖化を否定する小説をどうしてクライトンが書いたのか分からなかったし、評判も良くなかったので読んでいなかった。前記の2冊を読んで、温暖化疑問の視点に納得できたので読み始めた。付録1「政治の道具にされた科学が危険なのはなぜか」を読むと、クライトンの危機感の切実さがよく分かる。クライトンはユダヤ人虐殺につながった優生学と、ソ連の生物学を牛耳った自称農学者を例に挙げ、その悲劇を紹介した後、こう指摘する。

 そしていま、われわれはふたたび、大いなる理論に呪縛されている。またしても世界じゅうの政治家、科学者、著名人に支持されている理論にだ。大規模な財団のあと押しを受けている点も同じなら、いくつもの有名大学で研究されている点もおなじだ。そしてやはり立法措置がとられ、その名のもとに社会計画が推進されている。反対意見を表明する者が少数であり、反対すれば手厳しい批判を浴びる点も変わらない。

 科学と政治の混合は悪い組み合わせであり、悲惨な歴史を生んだ理由もそこにある。われわれは歴史を憶えておかなくてはならない。そして、世界にまっとうな知識として提示するものが、利害関係ぬきの、公平無私で公正なものであるようにしていかなければならない。

この3冊に共通するのは一つの仮説だけに基づいて社会全体が動いていくことの危険性を指摘していることだ。地球温暖化教を信奉するのは勝手だが、それを押しつけないでほしいものだ。