2006/06/24(土)「マンダレイ」
ラース・フォン・トリアー監督のアメリカ3部作の第2弾。前半は「ドッグヴィル」と同じような話だなと思い、退屈だったが、後半面白くなる。これは異常な共同体を描いた映画だと思う。終盤、この共同体の真実が明らかになり、それまでの見方を変えざるを得なくなる。こういう話、世間から隔たった狭い集団の中ではよくある話。集団だけの規則を作り、世間とは独立して独自の世界を築き上げていく。サイコな宗教集団などにありそうだ。この異常な世界に入った主人公のグレース(前作のニコール・キッドマンに代わってブライス・ダラス・ハワード)は表面的な部分を見て民主的な改善をしようとするのだが、表面とは違ったねじれた世界なので、そのしっぺ返しを食うことになる。
この前半のグレースの行為はほとんどお節介から始まったとしか思えず、そこがこの映画の弱いところ。ただし、終盤の展開で盛り返した印象がある。この映画、正義を振りかざして他国の内政に干渉するアメリカへの皮肉にはなっているかもしれないが、奴隷制度や黒人差別などのまともな批判になっているかというと、全然なっていない。トリアーも本気でそういう趣旨を込めたわけではないだろう(本気なら何か勘違いしている)。「ドッグヴィル」ほどの完成度はないにせよ、これも興味深い話だ。思えば、「ドッグヴィル」は支配と被支配の関係が固定されたことによって村人が邪悪に変わっていく話だった。「マンダレイ」は支配と被支配の関係から抜け出せず、それを維持しようとしてねじ曲がった人々の話と言える
「ドッグヴィル」同様、簡単なセットで映画は展開する。1933年、ドッグヴィルを焼き払ったグレースとギャングの父親(ウィレム・デフォー)はデンバーで縄張りが荒らされていることを知り、アラバマへ向かう。マンダレイという名前の農園で一人の黒人女がグレースに助けを求めてくる。屋敷の中では黒人男がむち打たれようとしているところだった。奴隷制度は70年前に終わったのに、ママと呼ばれる女主人(ローレン・バコール)が支配するこの農園ではまだそれが続いていた。黒人の苦境を見たグレースは父親と別れてマンダレイに残る。女主人は間もなく死ぬが、死ぬ前にグレースにマットレスの下に隠された本を処分するよう頼む。それは農園の決まりや黒人たちを分類した“ママの法律”だった。グレースは奴隷を解放して農園を民主的に改善しようとする。しかし、黒人たちは働かなくなり、小屋を修理しようと庭の木を切ったために農園は砂嵐に襲われる。木は防風林の役目を果たしていたのだ。
グレースが農園に持ち込むのは自由と民主主義で、それまでママの法律に沿って営まれていた農園は多数決で物事を決めるようになる。その結果、グレースには過酷な任務が待ち受けることになる。これは民主主義の皮肉さを描いているのだろうが、展開として優れているわけではない。僕が感心したのはこの集団の異常さで、このあたりはトリアーの本質が出た部分と思う。トリアー、こういう気持ちの悪いシチュエーションを描かせると、本領を発揮する。万人向けの映画ではないが、オリジナリティのある変わった映画であることは確かだろう。
ブライス・ダラス・ハワードはキッドマンほどの美貌はないけれど、清楚な役柄にはぴったり。R-18指定の要因になったと思われる過酷な場面もこなしており、「ヴィレッジ」よりも成長した跡がうかがえる。
アカデミー賞6部門ノミネート。1部門も取れなかったが、ジョージ・クルーニーの「シリアナ」での助演男優賞受賞はこれとの合わせ技と考えていいのかもしれない。最初と最後のエド・マローの演説は感動的で、マローがテレビに対して希望を捨てていないのがよく分かる。「テレビは人間を教育し、啓発し、情熱を与える可能性を秘めている。だが、それはあくまでも使い手の自覚次第だ。そうでなければ、テレビはメカの詰まった“ただの箱”だ」。この映画もまたマローの言葉に沿うようにただの娯楽作品ではない。安っぽいヒロイズムやエモーションとは無縁の堅い演出で、圧力をはねのけてジョゼフ・マッカーシー上院議員を批判する番組を作るマローとそのスタッフの姿を真摯に描き出す。マッカーシーの赤狩りは恐怖政治と同じことで、刃向かえば自分の身に火の粉が降りかかかる。それに立ち向かう勇気の必要さを映画を訴えており、いつの時代にも通用する話である。マローを演じるデヴィッド・ストラザーンの厳しい硬質の演技に感心するが、それ以上にこれはクルーニーのスタンスをはっきりさせている映画だと思う。「シリアナ」とこれでクルーニーはハリウッドの良心を一人で背負って見せた。クルーニーはアメリカの自由を信じているのだろう。