2004/11/28(日) 高橋源一郎の「電車男」評

きょう付けの朝日新聞にある。本質を突いていると思いながらも、これは少し意地が悪い。ちょっと引用しよう。

しかし、この本は掲示板に掲載された最後の日を素知らぬ顔で削除し、その前日までで完結させている。(中略)不可解なミステリーになるはずの「5月17日」を消し去ることで、この作品は、見事に「純愛」の顔つきをすることに成功している。

5月17日に何があったかと言えば、電車男がエルメスと性交寸前の書き込みをして、それを読んでいたスレの住人たちが、「やめろ」と忠告するのである。この部分をアップしたページもネット上にはあり、僕もそれを読んでいる。

問題はそこを削除したからと言って、非難を受ける筋合いはないということだ。批評というのは出来上がったものに対して行うもので、批評の対象が実際にあったことをどう脚色しようがかまわない。もちろん、そこに目配せするのは重要なことだが、素材と完成品とは明確に区別しなければならない。高橋源一郎は人から電車男はフィクションであると聞かされた上で、この批評を書いているのだから、出来上がったものが掲示板の書き込みと違ったところで、目くじらを立てる必要はないだろう。

「素知らぬ顔で削除」とか「『純愛』の顔つき」という意地の悪い言葉は使う人の品性を表すものでしかない。鬼の首でも取ったようなこの表現には気分が悪くなる。

2004/11/27(土)「Mr.インクレディブル」

 「Mr.インクレディブル」パンフレットスーパー・パワーが社会の迷惑になるとして引退させられ、政府の保護下に置かれたスーパー・ヒーローとその家族が難事件に出会ったことで復活する姿を描くピクサーの3DCGアニメ。おもちゃや魚やお化けを描いてきたピクサーとしては珍しく人間(スーパー・ヒーローだが)が主役の映画で、これは監督のブラッド・バードが加わったことによるものだろう。「アイアン・ジャイアント」の監督であるバードは今回も伏線を張ってしっかりとした物語を組み立て、大人が見ても楽しめるアニメに仕上げている。音楽や悪役の描き方は007調、構成は「スパイキッズ」を思わせるけれど、家族が絆を深める姿やスーパー・パワーを持つ子どもの自己実現の姿をじっくりと描いており、その両者よりは良い出来である。主人公の家族の絆や愛情は普通の家族にも当てはまることで、そうした普遍性を備えているのが強いところか。エモーショナルなものを根底に置くのはピクサー映画の特徴だが、この映画もその例に漏れない。少し長い(上映時間は2時間)ので、小さな子どもにはつらい部分もあるけれど、バードの映画としては、個人的に違和感がつきまとった「アイアン・ジャイアント」よりはるかに優れていると思う。

 主人公のインクレディブルはスーパー・ヒーローとして街を守っていたが、ビルから落ちた男を助けたために訴訟を起こされる。男は自殺しようとしたのであって、助けてもらおうとは思っていなかった。助けられた時のけがで不自由な体になったという理由。同時にスーパー・ヒーローたちの強すぎるパワーは社会問題となり、ヒーローたちは活動を禁じられる。15年後。インクレディブルことボブ・パーは保険会社に勤めてさえない毎日を送っている。妻は元スーパー・レディのイラスティガールことヘレン。消える能力を持つヴァイオレット、超人的な走りの能力を持つダッシュ、赤ん坊のジャック・ジャックの3人の子どもがいる。会社で困っている人に保険金が出るよう手を回したボブは社長から責められ、ふとした弾みで社長に重傷を負わせて会社をクビになる。そこへスーパー・ヒーローの能力を使う依頼が来る。暴走したロボット兵器を止めてほしいというものだった。しかし、その依頼には陰謀があり、ボブは捕らわれの身となる。ヘレンとヴァイオレット、ダッシュは力を合わせて父親を救出しようとする。

 一般市民としての生活を守るため、インクレディブルの家では子供たちにスーパー・パワーの使用を禁じている。その力を思い切り使う場面を用意することで、映画は子どもの自己実現の重要さを訴えているし、同時に父親を助けようとする家族、家族を思う父親の姿を描いて、脚本には隙がない。ユーモラスな描写に絡めてそうした部分をしっかりと描いているのがいい。3DCGの技術はピクサー独自のものではなくなったし、今さら珍しくはないけれど、脚本を大事にする姿勢はピクサー映画のブランド化に大きく貢献していると思う。

 吹き替えは主人公をクレイグ・T・ネルソン、ヘレンをホリー・ハンターが担当。日本語吹き替え版は三浦友和、黒木瞳がそれそれ演じている。どうでもいいが、手足がグイーンと伸びるインクレディブル夫人の能力は「ワンピース」のゴム人間ルフィを参考にしたのではないか。バードはパンフレットで「日本人はそのアニメのポテンシャルに気づいて、アニメの可能性をどんどん切り開いていると思う。世界のアニメは今、日本に追いつこうとしているんだよ」と語っており、日本のアニメはよく研究しているはずである。

2004/11/22(月)「ハウルの動く城」

 「ハウルの動く城」パンフレット前作「千と千尋の神隠し」は2度行って満員で入れず、公開後1カ月にして3度目でようやく見ることができた。今回は平日の朝一番に見に行って、楽々座れた。2館で上映しているためもあるのだろうが、公開が夏休みに重ならなかったことが大きい。大人が見るためにも宮崎駿作品は子どもの休みと重ならない時期の公開が好ましいとつくづく思う。

 さて、今回は一筋縄ではいかない作りである。呪いによって90歳のおばあさんに変えられた少女ソフィーがハウルとその仲間たちと擬似的な家族を築いていく、という表面的な物語自体は簡単なだけに、宮崎駿が込めたテーマが見えにくくなっている。終盤の展開を見れば、宮崎駿が「ハートを取り戻せ」「人間らしく生きろ」と言っているのは明確なのだが、原因と結果の描写を微妙にずらしている(あるいは単純な因果関係にない)ので解釈しにくいのである。これを子どもと一緒に見た親は子どもから「なぜ」を連発されることになるだろう。しかし、そうした描写の仕方によってこれは奥行きの深い物語になった。単純な比喩による一意的な解釈を許さない物語というのは確かにあって、そういう作品は時代によって受け取られ方が異なるものだが、イラク戦争が泥沼化した今の状況を考えれば、これは反戦が大きなテーマと受け取っていいだろう。今さら言うまでもなく、宮崎駿は硬派な人なのである。その意味でこれは「未来少年コナン」「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」という初期作品の延長線上にある作品と言える。

 人の心臓を食べると言われるハウルという魔法使いに街で偶然会った18歳のソフィーが荒れ地の魔女に呪いをかけられ、90歳のおばあさんになる。このままでは家にいられない。家を出たソフィーは荒れ地で、かかしのカブを助けた後、ハウルの動く城にたどりつき、掃除係として一緒に暮らし始める。ハウルの城にはハウルと契約を結んで暖炉に縛り付けられている火の悪魔カルシファーと弟子のマルクルという少年が住んでいる。ハウルは夜になると、どこかへ出かけていく。この4人プラス魔力を失った荒れ地の魔女が次第に家族みたいになっていくと同時にソフィーはハウルに惹かれるようになるというのがメインプロット。併せてこの国で起きている戦争の描写もインサートされる。国王のそばにはハウルの師匠に当たる魔法使いのサリマンがいて、ハウルを戦争に協力させようとしている。このサリマンが一般的に言えば、悪役になるのだが、ここでも宮崎駿は一意的な描き方はしていない。敵を倒して終わらせる物語ではないのである。

 呪いをかける方法は知っていても解く方法を知らないとか、カルシファーの「火薬の炎は嫌いだ。あいつらは作法を知らない」というセリフとか、ハウルが戦争で魔法を使いすぎて魔物になっていく描写(これはフォースのダークサイドに落ちるイメージを思い起こさせる)とか、戦争や愚かな人間を暗示した描写は至る所にある。終盤、ハウルが心臓を取り戻すシーンから一気に戦争の終息を示す描写など見ると、心臓=ハート=人間性を取り戻せば、争いごとはなくなるという主張がくっきりと浮き上がってくる。

 心臓を取り戻したハウルは「体が重くなった」と言う。それに対してソフィーは「心は重いものなのよ」と答える。目に見える敵ではなく、自分の心の中にいる敵。人間の心次第で状況は悪化もすれば、好転もする。映画に戦争はあってもその具体的な理由や戦場の悲惨さはない。戦争を悪いこととして抽象化することで、映画は分かりにくくなっているし、大衆性も伴ってはいないけれど、それによって右翼左翼や宗教上のイデオロギーから独立した普遍的な作品になり得ていると思う。

2004/11/15(月)「コラテラル」

 「コラテラル」パンフレット12年間タクシーの運転手をしているマックス(ジェイミー・フォックス)には夢がある。リムジンの会社を持つこと。タクシー運転手は本人にしてみれば、仮の仕事である。そんなマックスを見透かしたように殺し屋のヴィンセント(トム・クルーズ)が言う。「みんないつかは自分の夢が実現すると思ってる。しかし、何もしない。夢をどこかに置いて、テレビをボーっと見ている。そしてある日、鏡を見て自分が年を取ったことに気づくのさ」。

 これと対をなすのが序盤にある女性検事アニー(ジェイダ・ピンケット=スミス)との会話で、翌日の公判を控えてナーバスになっているアニーにマックスは休養を取るよう勧める。自分は仕事中でもボラボラ島の写真を5分間見ることで休息していると言い、「これが必要なのはあんただ」と写真を渡す。そしてアニーは自分の名刺を渡すのだ(2人に交流が芽生えるこのシーンを見れば、クライマックスの予想は付く)。事件の巻き添え(コラテラル)になったタクシー運転手という本筋の話よりも印象に残るのはそんなセリフで、脚本のスチュアート・ビーティー、サスペンスとは別の意味でなかなかうまいと思う。マイケル・マン監督の映画としては特に出来がいいわけではないが、演出は的確であり、ひと味違ったサスペンス映画になっている。

 マックスはアニーを降ろした後、同じビルの前でヴィンセントを乗せる。予測した通りの時間でヴィンセントを目的地まで送り届けると、マックスの腕を見込んだのか、ヴィンセントは600ドルで今夜行く数カ所への運転を依頼する。マックスが一休みしていたところ、ビルの窓から車の屋根に死体が落ちてくる。死体はヴィンセントが殺した男。ヴィンセントは殺し屋で今夜5人を始末するという。脅されたマックスは男の死体をトランクに入れ、次の目的地に向かう。死んだ男は麻薬組織の一員で、裁判の証人だった。男が消えたことで麻薬捜査官のファニング(マーク・ラファロ)など警察も捜査を開始する。ヴィンセントが3人目を殺したところで、マックスはヴィンセントの鞄を奪い、道路に投げ捨てる。中には標的の資料が入っていた。ヴィンセントは組織のボス、フェリックスに会い、標的の資料をもらうよう強要する。

 タクシー運転手が主人公の映画と言えば、マーティン・スコセッシ「タクシー・ドライバー」がある。あの映画がニューヨークの風俗をつぶさに映し出したほど、ロサンゼルスの街がよく描かれているとはいえないのがちょっと不満な点。これは狙いが違うのだから仕方ないが、平凡な運転手だったマックスの変化も明確には描かれないのが弱いところか。クライマックスは5人目の殺しを阻止しようとするマックスとヴィンセントの対決になる。いくらヴィンセントがけがをしていたとはいっても、マックスに勝てる理由は見あたらないのも弱い。しかし、ジェームス・ニュートン・ハワードの音楽とディオン・ビーブの撮影はともにレベルが高く、映画に貢献している。

 凄腕のタフな殺し屋を演じるトム・クルーズは、白髪交じりの髪に無精ひげのメイクでうまく役にはまっている。美男俳優が殺し屋を演じるのはアラン・ドロンを持ち出すまでもなく、かつては普通のことだった。冒頭、ヴィンセントが降り立つ空港の場面に「スナッチ」「ザ・ワン」のジェイソン・ステイサムが出てくる。ヴィンセントにぶつかって鞄を渡す男の役でパンフレットには名前が記載されていない(この映画のパンフはまったく詳しくない)。ゲスト出演か。

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