2004/01/28(水)「シービスケット」

 大恐慌時代に活躍したチビの競走馬シービスケットとそれを取り巻く人々を描いた実話。非常にゆったりとしたペースで、シービスケットが登場するまでに40分余りかかる(上映時間は2時間21分)。それまでは主要登場人物の人柄と背景を描いている。普通ならシービスケットの登場をもっと早くするはずで、いかにも原作がある映画らしい。

 ゆったりとしたペースはその後も変わらず、ここまで徹底されると、時代背景と合わせたのかなと思いたくなる。アカデミー賞にノミネートされたぐらいだからアメリカでは評判がいいのだろう。ウェルメイドな作りは好ましいし、悪い映画ではないにしても作品賞ノミネートに値するのか疑問。技術的に優れた部分も見当たらないし、普通の作品と思う。アメリカ人はあの戦前の時代に特別な思い入れがあるのではないか。

 ローラ・ヒレンブランドの原作「シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説」は400万部以上売れたそうだ。大恐慌で一家離散となった騎手のジョニー・ポラード(トビー・マグワイア)と息子を自動車事故で亡くした資産家の馬主チャールズ・ハワード(ジェフ・ブリッジス)、時代遅れのカウボーイで調教師のトム・スミス(クリス・クーパー)が力を合わせてシービスケットとともに栄光をつかむ物語である。3人ともそれぞれに挫折の経験があるため、一度の失敗で人を否定するなというメッセージが根底に流れる。

 だから右目を失明し、足を骨折したジョニーと、靱帯を傷めたシービスケットが再起する場面がクライマックスとなる。その前に映画は全米一と言われた名馬ウォーアドミラルとシービスケットのマッチレースを描き、ここもクライマックス並みに盛り上がるシーンだ。ただし、非常に分かりやすい話で、先が読める展開ではある。

 監督のゲイリー・ロスはシービスケットの活躍だけでなく、時代そのものを描くことにも重点を置いたようだ。アメリカの当時の風俗が再現されており、アメリカ人ならそれを見るだけでも楽しいのかもしれない。感心したのはクリス・クーパーの演技で、いつもながら役にぴったりとはまった感じがする。

 レース中のトビー・マグワイアのアップは明らかに合成。体を上下する頻度が多すぎて、遠景のショットとまるで合っていず、この演出はあまりうまくない。

 ディック・フランシスの競馬シリーズが好きなので、競馬を題材にした映画はひいき目に見たいのだが、傑作と呼べる映画はあまり思いつかない。フランシスの傑作を映画化した「大本命」もがっかりするような出来だった。「シービスケット」も全体的には成功しているとは言い難いけれど、馬は美しく撮られており、競馬ファンなら見ても損はないかもしれない。

2004/01/27(火)「半落ち」

 原作に忠実な作りで前半はあまり感心する部分もないなと思いながら見ていた。原作は取り調べに当たる刑事・志木や検事・佐瀬のハードなキャラクターに面白さがあったが、柴田恭平、伊原剛志ではやや軟弱な感じがあるのだ。しかし、クライマックスで佐々部清得意の演出が炸裂する。梶総一郎(寺尾聰)が妻を殺すに至った経緯と殺してからの2日間の秘密が法廷で明らかになる場面。それまでの抑えた演出とは打って変わって佐々部清はここを情感たっぷりに演出するのだ。アルツハイマーの妻役・原田美枝子の自然な演技と樹木希林の熱演が加わって胸を打つ場面になっている。こういう大衆性が佐々部清の利点と言えるだろう。このあたりからおじさん、おばさんが詰めかけた場内はすすり泣きである。

 ただ、クライマックスの人を動かす演出に感心しながらも、全体としては凡庸な部分も目に付く。映画にゲスト出演している原作者の横山秀夫は「映画『半落ち』はですから、佐々部監督率いる『佐々部組』の『読み方』であり『感じ方』であるということができます」と書いている。その通りで、これは佐々部清の解釈なのであり、題材を自分に引き寄せた映画化なのである。佐々部清はミステリーよりも人情の方に重点を置いた。というか、これまでの2作「陽はまた昇る」と「チルソクの夏」を見ても、そこに重点を置くしかなかったのだと思う。それが悪いとは思わないし、大衆性を備えたことによってこの映画はヒットしているのだから、勝てば官軍ではあるのだが、割り切れない部分も残る。佐々部清は自分流の演出で映画を成功させたけれど、同時に一通りの演出法しか持っていないという限界も見せてしまったようだ。

 原作は6人の視点から語られる。映画は一番最後の刑務官を登場させず、裁判の場面にクライマックスを持ってきた。上映時間が限られる以上、この脚本(田部俊行、佐々部清)の処理は悪くないが、残念なのは警察と検察の裏取引や記者と警察の取引が通り一遍の描写になってしまったことと、弁護士や裁判官のキャラクターの掘り下げが(國村隼、吉岡秀隆の好演を持ってしても)足りないことだ。十分に描く時間がないなら、もう少しスッキリとまとめた方が良かっただろう。

 映画の本筋は骨髄移植とアルツハイマーを通した命の絆や「誰のために生きるのか」という問いかけ、魂を失った人間は生きているのか死んでいるのかという設問にあるのだから、こうした部分をもっと前面に持ってきた方が良かった。同時に梶が妻を殺さなければならなかった苦悩も描き込む必要があった。深刻な顔をし続ける寺尾聰だけでは弱いのである。

 僕は佐々部清の演出が嫌いではない。1、2作目を手堅くこなした後の3作目の今回はホップ・ステップ・ジャンプになるはずが、ホップ・ステップ・ステップにとどまったなという印象がある。次作では本当のジャンプになることを期待したい。

2004/01/21(水)「ミスティック・リバー」

 ネタバレになるので、詳しく書けないが、ラスト、パレードのシーンの演出は奥が深い。殺人事件を経た登場人物たちのそれぞれの表情が次々に描写される。夫の姿を探し求める妻、父親がいなくなってうつむいたままパレードに参加する少年、やっと帰ってきた妻と一緒にパレードを見つめる夫、その視線は恐らく友人を殺したであろう男に注がれており、手で銃の形を作り、男に向ける。事件はすべてが解決するわけではなく、登場人物たちの苦悩は残されたままになる。実質的な主人公であるケヴィン・ベーコンとショーン・ペン、ティム・ロビンスの好演に加えて、ロビンスの妻役マーシャ・ゲイ・ハーデン、ペンの妻役ローラ・リニー、ベーコンとコンビを組む刑事ローレンス・フィッシュバーンとスキのないキャスティングが映画を重厚なものにした。

 デニス・ルヘインの原作をクリント・イーストウッドが監督したこの作品、撮影や編集などの技術も高い水準にあり、感心させられる。ただし、話の悲痛さが意外に伝わってこない。バランスの良さと役者たちの演技の充実は最初から最後まで維持されるにしても、何かが足りないのだ。それは何か。最も釈然としないのは殺人事件の真相だった。これまたネタバレになるので詳細は避けるが、こういうことであるならば、犯人は関係者ではなく、まったく別の人間であっても良かったのだ。犯行の裏にどんな動機があるのか期待して見ていると、肩すかしを食うことになる。

 もちろん、この犯人像に人生の皮肉はある。犯人の凶器の出所や元々の凶器の持ち主と被害者とその父親との関係は、因果関係があってなるほどと思わせる(当事者たちはまったくそれを知らない)。一つの殺人事件が過去を掘り起こし、現在の苦悩を浮き彫りにするというのは特にハードボイルド・ミステリではよくある話であり、映画の狙いもそこにあったのかもしれない。しかし、この映画の場合、登場人物たちの苦悩に有機的な結びつきがないのである。これを束ねるのが殺人事件の真相であれば、映画は一つの大きな根幹を持つことになっただろう。これがないので、それぞれの苦悩がバラバラなままで深みに欠けてくる。具体的に書けないので、どうも書いていてもどかしいが、要するに、この映画の話の組み立て方には欠陥があると思うのである。付け加えれば、犯行当日の夜に偶然が2つも3つも重なることも興を削ぐ。

 脚本のブライアン・ヘルゲランドは「L.A.コンフィデンシャル」では良い仕事をしていたが、あれはもしかすると、カーティス・ハンソンの力量なのかもしれず、今回もまた、脚本が良いと思うのは大きな間違いでイーストウッドが力業でねじ伏せたのかもしれない。

 暗鬱な曇り空の下、25年前の忌まわしい事件で幕を開けた映画はクライマックス、誤解から生じた悲劇を引き起こすことになる。これが一番のポイントなので、映画はここをさらに効果的に見せる話の組み立て方をした方が良かった。

 アカデミー有力とも言われているが、イーストウッドはもう監督賞は取っているし、無理だろう。今年の本命は、いや今年こそ「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」なのだと思う。

2004/01/05(月)「アンダーワールド」

 吸血鬼(ヴァンパイア)と狼男(ライカン)一族の数世紀に渡る戦いを描くホラーアクション。アイデアからしてB級で、内容も「ブレイド」を思わせるようなもの。主役のヴァンパイアを演じるケイト・ベッキンセールだけは黒いロングコートにタイトなボディスーツがよく似合い、魅力的に撮られている(このファッションとか動きは、日本のアニメを参考にしたのではないか)。監督のレン・ワイズマンはMTV出身でこれが長編デビュー作。画面構成などにはセンスを感じるが、話にあまりオリジナリティがないし、狼男の変身シーンも水準的なレベルで、「ハウリング」のころからあまり進歩していない感じがある。2時間1分もかけて語るべきほどのものではなく、平凡な出来に終わっている。

 ヴァンパイアのセリーン(ケイト・ベッキンセール)は処刑人として狼男一族を追っている。戦いがなぜ始まったのかはもはや明らかではないが、長年の戦いでライカンはもはや絶滅寸前と言われている。ある夜の戦いでセリーンはライカンたちがある男を探していることを知る。その男、マイケル・コーヴィン(スコット・スピードマン)は普通の人間だった。セリーンはマイケルのアパートを突き止めるが、狼男たちが襲撃。マイケルは、死んだと思われていたリーダーのルシアン(マイケル・シーン)に噛みつかれてしまう。このままでは2日後の満月の夜に、マイケルは狼男に変身してしまうことになる。一方、ヴァンパイア一族の中にもリーダー、クレイヴン(シェーン・ブローリー)の不穏な動きがあった。

 戦いで銃を使うのはやはり「ブレイド」を参考にしたのかもしれない。スタイリッシュなアクション自体は悪くないが、途中で飽きてくる。話が大きく動くのはクライマックスからで、ヴァンパイアと狼男の血を巡る出自が明らかにされ、いかにも続編ができそうなラストを迎えることになる。その通り、続編の製作が決まっているとのこと。しかし、もう少し話を深くして、VFXを炸裂させないと、続編は難しいように思う。

 狼男のことをライカンと呼ぶのは初めて知った

2004/01/03(土)「大日本帝国」

 1982年の作品で第1部「シンガポールへの道」、第2部「愛は波濤をこえて」の計3時間。昨日、第1部を見て、きょう第2部を見た。

 笠原和夫脚本、舛田利雄監督作品で、公開当時、僕はこのとんでもないタイトルから「ケッ、右翼映画め」と思って見のがしたのだった。「昭和の劇」を読んで無性に見たくなったが、ビデオ店にもなかったので購入した(DVD発売は昨年12月21日。これから入るかもしれないし、大きなビデオ店にはあるだろう)。

 東映ビデオ「夏目雅子メモリアル」の1本となっている(収益の一部を骨髄移植財団と夏目雅子ひまわり基金に寄贈するそうだ)。なるほど、でなければ、DVD化されなかったのかもしれない。夏目雅子は確かにこの映画でもきれいだが、それよりも関根恵子(当時)の印象が強烈。したたかな下町女性を演じて説得力があるし、悲劇的で凄惨な場面が多いこの作品の締めくくりを晴れやかなものにしている。いつの時代も強い女性は素晴らしい。

 しかし、とりあえず、こちらの興味は笠原和夫脚本にある。「二百三高地」のヒットに気をよくしたプロデューサーが太平洋戦争の勝ったところばかりピックアップしてつなぐという企画を出したのに対して、笠原和夫は逆にシンガポール、サイパン、フィリピンと激戦地ばかりをつないで脚本を書いた。根底に流れるのは天皇の兵士として召集され、死んでいった兵士たちの恨みつらみである。といっても、兵士たちは天皇非難の言葉を直接吐くわけではない。フィリピンでB・C級戦犯として裁判にかけられた西郷輝彦は絞り出すような声でこう言う。

 「大元帥陛下が我々を見殺しにするはずはなかでしょ。我々は天皇陛下の御楯になれと言われてきたとです。そう命じられた方がアメリカと手を結んで我々を見捨てるなんちゅう事は絶対にありません。日本政府はポツダム宣言を受諾したとしても、天皇陛下はたとえお一人になられたとしても、必ずわたしらを助けにきてくださるはずです。こげな、いかさまみたいな裁判で死刑にされて浮かばれますか」。

 笠原和夫が偉いのはこういうセリフを用意する一方で、戦友を殺した米軍に対する憎しみを所々に描いていることだ。単純な正義感でもなく、理想主義でもなく、戦争の現実を描写し、上が始めた戦争によって苦しめられる庶民の姿を浮き彫りにしていく。

 年末に放送されたNHK「映像の世紀」(これは8年前のものだった。もうそんなになるのか)を再見して改めて面白いと思ったが、こうしたニュース映像、記録映画から抜け落ちるのは庶民の思いなのだろう。太平洋戦争の始まりから終わりまでを描く「大日本帝国」にあるのはそうした庶民から見た戦争である。監督が舛田利雄なので必ずしもすべてが成功したわけではない(舛田利雄はサイパンの玉砕シーンをどう撮れば良いか分からないと笠原和夫に相談したそうだ)けれど、焦点深度の深い笠原脚本を堪能できた。