2002/12/31(火)「マルホランド・ドライブ」

 デヴィッド・リンチのベストワークだと思う。欲を言えば、ミステリの種明かしが非常によく分かりすぎることで、その明かし方にもリンチらしい芸があっていいのだけれど、かつてのリンチならもっと分かりにくくしたような気がする。いや、これは誉めているのであって、技術的に向上したから映画が分かりやすくなってしまったのである。「ツインピークス ローラ・パーマー最期の7日間」はこういう風に映画化すべきだったのだろうが、あのころのリンチにはこれほどの技術はなかったのだ。

 マルホランド・ドライブの事故で記憶をなくした女(ローラ・ハリング)と、女優を夢見てハリウッドの叔母の家にやってきたベティ(ナオミ・ワッツ)が出会う。リタ・ヘイワースのポスターを見て女はとっさにリタと名乗るが、すぐにベティにうそを見抜かれる。ベティはリタに好感を抱き、記憶を取り戻させようと手がかりを追い求める。

 ブロンドのベティとブルネットのリタは視覚的にも好対照なのだが、光り輝くベティ=陽と、陰気なリタ=闇の描きわけがまず面白く、これが後半に逆転するのも面白い。物語のプロットを突き詰めると、ベティはリタに影響されて闇の世界に引き込まれてしまうのである(前半と後半では違う人物じゃないか、という議論は置いておく)。

 前半は物語を構成するさまざまな断片を描いてある。登場するのがエキセントリックなキャラクターばかりなのはリンチらしいが、後半にそれを収めるべき所に収める手腕が見事。リンチは物語を語るために神の視点、というか狂言回し(カウボーイ)も登場させ、強引に、しかし見事に話を進めていく。

 だからこれは難解でもなんでもなく、単純なプロットをリンチの語り口で語っただけの作品と言える。そして映画を彩るさまざまな要素(例えば、種明かしの場面に進むきっかけとなる小さな箱と鍵)にほれぼれとせずにはいられない。構成も脚本もリンチは随分うまくなったのである。

 いつものようにアンジェロ・バダラメンティの音楽は素晴らしく、ピーター・デミングの撮影もいい。しかし、特筆すべきはナオミ・ワッツの好演で、中盤にある映画のオーディション場面の迫真の演技には驚いた。前半と後半のまったく質の違う演技を難なくこなしており、なぜアカデミー主演女優賞にノミネートもされなかったのか理解に苦しむ。

2002/12/24(火)「ギャング・オブ・ニューヨーク」

 19世紀のニューヨークを舞台にアメリカで生まれ育ったネイティブズの一団とアイルランド系移民の抗争が描かれる。米同時テロによって公開が1年延びたマーティン・スコセッシの超大作(撮影270日、製作費150億円)。

 スコセッシは主人公の復讐劇に合わせて当時のニューヨークの風俗を詳細に描いており、アナーキーで暴力が横行していた当時の様子を町並みも含めて再現している。そうした描写自体は悪くないのだが、物語にひねりがなく、2時間48分を引っ張るほどの魅力に欠けた。ダニエル・デイ=ルイスの悪役のみ深みがあり、主演のレオナルド・ディカプリオとキャメロン・ディアスがやや精彩を欠いている。というか、もともとディカプリオにはこういうタフな男の役は似合わないのだろう。デイ=ルイスも決してタフなタイプではないが、この人の場合、演技力がもの凄いから有無を言わせない残酷さと非情さ、加えて人間の複雑さまでをも表現できている。仇役が主人公より圧倒的に強そうで、ディカプリオでは役不足なのである。

 冒頭に描かれるのは1846年のニューヨーク。アイルランド系移民のデッド・ラビッツとネイティブズの縄張り争いが激化し、両者は雪の広場で対決する。デッド・ラビッツを率いるヴァロン神父(リーアム・ニーソン)は戦いの中で、ビル・ザ・ブッチャー(ダニエル・デイ=ルイス)に殺され、神父の息子アムステルダムは少年院に入れられる。

 16年後、少年院を出たアムステルダム(レオナルド・ディカプリオ)は復讐を胸にニューヨークに帰ってくる。ここからすぐに復讐が始まるのかと思いきや、アムステルダムは正体を隠してビルの組織に接近し、ビルに気に入られるようになる。かつてのデッド・ラビッツの仲間もビルに取り入っている。そうした描写が長々と続く。父親の命日についにアムステルダムはビルを殺そうとするが、逆に重傷を負わされる。と、ここまでが1時間半余り。その後はけがの癒えたアムステルダムがデッド・ラビッツを再結集し、一大勢力を築き上げていくくだりが描かれる。

 普通の復讐劇であるなら、終盤の1時間がメインになるはずである。しかし、スコセッシに興味があったのは復讐劇などではないのだろう。ニューヨークに生まれ育ったスコセッシはこれまでにもさまざまなニューヨークを描いてきたが、これはその原風景とも呼ぶべき世界。だからギャング同士の抗争は「グッドフェローズ」の原点なのだろうし、政治家や警官とギャングの癒着や背景となる南北戦争にも細かい目配りがうかがえる(消防士がまるでギャングのように描かれる場面もあり、これも公開延期の一因かもしれない)。ただ、こうした要素が物語と密接な連携をしているとは言い難い。こうしたことを描くのであれば、復讐劇ではない方が良かったのではないか。大作にふさわしいうねりがないのは致命的だ。復讐劇がいつもそうであるように要は単純な話なのである。

 クライマックス、南北戦争の徴兵制度に反発する市民が起こした暴動の中で、ネイティブズとデッド・ラビッツの抗争が始まる。そこに海上から軍の砲弾が浴びせられ、兵士の銃撃によって両者ともに多大な死者が出る。粉塵が漂う中でのディカプリオとデイ=ルイスの対決をスコセッシは黒沢明のように演出したそうだ(見れば分かる)。しかし黒沢のダイナミズムには到底及ばない。エキセントリックな小さな話を演出させると、スコセッシは才能を発揮する監督だが、モブシーンはあまり得意ではないのだろう。大作を締め括れるクライマックスになっていない。

 ラストに貿易センタービルを捉えたロングショットをあえて用意したスコセッシにはニューヨークに対する特別な思いがあったのにちがいない。思いは分かるが、作品として十分に結実はしなかったのが残念だ。

2002/12/23(月)「ミニモニ。じゃMOVIE お菓子な大冒険」

 「ガメラ」などのVFXを担当した樋口真嗣(クレジットはヒグチしんじ)の監督デビュー作。ミニモニ。を主人公にするというお仕着せの企画を逆手にとって実写と3DCGアニメを融合させた楽しい作品に仕上げてある。

 極彩色で人工的なセットはそのままアニメの世界に通じるものになっており、樋口真嗣のビジュアルな設計は見事。シュークリームのロボットは「ギャラクシー・クエスト」の岩のエイリアンを思わせる。「シュレック」あたりも参考にしているようだ。ミニモニ。が歌と踊りも披露するというアイドル映画として正しい映画化といえる。女王の声を演じる中沢裕子の歌のみ減点対象(下手だね)。2本立てにするなら、こちらがメインの方が東映らしくてよかったかも。5歳の次女も満足した様子。

 併映のというか、本来はメインの「仔犬ダンの物語」は沢井信一郎監督作品。普通の児童映画にモーニング娘。がゲスト出演しているという感じ。子役のセリフがすべて棒読みであるとかを除けば、2chで滅茶苦茶にたたかれているほど悪い出来ではない。原田美枝子や柄本明、榎木孝明、斉藤慶子ら脇役陣はいい。

 ただ、モー娘。の映画を期待していくと、肩すかしを食うだろう。いや、本来はモー娘。の映画のはずなのだが、モー娘。をすべて取り除いても成立してしまうのが、企画のまずいところ。結局、パッケージングでモー娘。を前面に出したいのなら、この話ではだめだろう。映画の内容とクレジット(というか、大ラスのエンディング。これは2本を合わせたエンディングとしての演出か)で流れる歌と踊りが、これほど合わない映画も珍しい。

2002/12/15(日)「ゴジラ×メカゴジラ」

 手塚昌明監督の前作「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」(2000年)とは正反対にVFX部分が良いのにドラマがまったくダメである。釈由美子扮する主人公の家城茜は1999年のゴジラ襲来の際、メーサー砲の操縦を誤り、仲間の自衛隊員が乗った車を崖下に転落させてしまう。車の乗員はゴジラに踏みつぶされて死亡。茜は資料課に転属させられる。この設定ならば、「私はゴジラを許さない」的展開になるはずなのだが、それをやってしまっては「ゴジラ×メガギラス」の田中美里の役柄と同じになってしまう。

 手塚昌明はそれを避けようとして、茜をだれからも希望されずに生まれた天涯孤独な人間として、社会のすべてと戦ってきたキャラクターに仕立てた。それはいいのだが、こうした設定は茜の口から説明されるだけで、描写としては一切ない。これが弱い。釈由美子は「修羅雪姫」を引きずったようなキャラクターを懸命に演じているのに、手塚昌明の演出とストーリーはそれを十分に生かしていないのである。1時間28分の上映時間は併映の「とっとこハム太郎」に圧迫されたためでもあるだろうが、主人公の心情を十分に描かないと、説得力を欠き、薄っぺらな映画になってしまう。通り一遍の描き方が惜しい。宅間伸親子のエピソードなどばっさり削り、ヒロインを十分に描いてくれたなら、傑作になる可能性もあったと思う。

 機龍(メカゴジラ)の設定はテレビの巨大ロボットものを踏襲したものになっている。メカゴジラは昭和29年に芹沢博士のオキシジェン・デストロイヤーで殺されたゴジラの骨からDNAを抽出して生体ロボットとして作られた。このため、ゴジラとの最初の戦いでゴジラの咆哮を聞いたことでメカゴジラは操縦不能になり、暴走してしまう。それを修復した2度目の戦い。最初は遠隔操作で操るが、ゴジラの攻撃にダメージを受けて操縦系が故障し、ヒロインはメカゴジラのメンテナンスルームに乗り込んで直接操縦することになる。ここでメカゴジラとヒロインの心情がシンクロする場面はエヴァンゲリオン的な描写なのだが、これまたドラマティックなポイントにはなっていない。ここを効果的な描写にするためにもヒロインをもっと緻密に描く必要があった。そしてここをポイントにすれば、SF的にも評価できる映画になったのではないかと思う。

 メカゴジラが発射するミサイルの楕円を描く軌道の描写などVFXは満足できるレベルにある(特殊技術担当は「ガメラ3」や「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」にも参加した菊地雄一)。最近のゴジラ映画の中では屈指といっても良いVFXなのに、ドラマ部分の弱さで平凡な作品になってしまった。いろいろと制約の多いことは分かるが、手塚昌明にはもう一度、自分の作りたいゴジラに挑戦してほしいと思う。

2002/12/11(水)「マイノリティ・リポート」

 別にののしるほどの悪い出来ではないのだが、ディックの原作を単なるミステリにしてしまったスピルバーグというのはいったい何を考えているのか、という感じである。ミステリとして新機軸はないうえに、舞台が未来でなくても成立する話である。未来を描くなら、少しぐらいSFマインドが欲しいところだった。

 かつてのスピルバーグなら、映像的にハタと膝を打つうまいシーンが一つぐらいあったものなのだが、この映画には感心した映像は皆無。年を取れば、人間、凡庸になる。それを地でいくようなスピルバーグなのである。

 2054年のワシントンD.C.が舞台。この時代、犯罪予防局が設置され、殺人は予知することで防げるようになっている。主任刑事のジョン・アンダートン(トム・クルーズ)は3人の予知能力者(プレコグ)の見た映像を分析して未来殺人の容疑者を逮捕している。ある日、プレコグがジョンの殺人場面を予知する。見も知らない男を殺している映像を見たジョンは犯罪予防局から逃げ、事件の真相を探り始める。裏には誰かの陰謀があるようだ。

 ミステリでサスペンスだから当然のように、ヒッチコックの引用も目立つ(「海外特派員」とか)。しかし、犯人が分かった後の描写は極めて手際が悪い。ヒッチコックならば、映画の中盤で犯人を割ってしまい(謎解きなんぞに興味はないから)、そこからサスペンスをたっぷり見せてくれたが、この映画の場合、犯人が分かった後の描写というのは話に落とし前を付けるためだけのものである。カーティス・ハンソンの某作品と同じような構成であるにもかかわらず(犯人が分かるところなどほとんど同じである)、演出的には随分劣っている。元々の脚本がたとえ、こうであったにしても絶好調のころのスピルバーグならもう少し何とかしただろう。いや、映画を撮る前に脚本を手直ししたはずだ。

 スピルバーグは「ブレードランナー」あたりも意識したようで、未来社会は色彩が少ない暗い映像で綴られる。描写はどこかクラシックな雰囲気がある。ということはつまり、目新しい描写、イメージがないのだ。SFX自体は良くできていて、スパイダーと呼ばれる小型の探査ロボットなど面白い小道具だと思うけれど、ただそれだけのことである。なのに2時間25分。うーん、1時間50分程度の映画にしてもっとスピード感を付けるべきだったのではないか。巻き込まれ型のプロットというのは観客に考える暇を与えてはいけない。

 トム・クルーズは昨年の「バニラスカイ」と同じく、顔が醜くなる場面がある。上司役で名優マックス・フォン・シドウ。犯罪予防局の調査に来る司法省の役人に「ジャスティス」のコリン・ファレル。ファレルはブラッド・ピットを思わせる風貌で、「ジャスティス」よりは良かった。