2005/12/13(火)「キング・コング」

 「キング・コング」パンフレット「失われた世界」+「美女と野獣」。1933年版の「キング・コング」(メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュードサック監督)はそのようにして作られている。1976年版がダメだったのは「失われた世界」の部分を描かなかったからだ。恐らく、お仕着せの企画を引き受けたジョン・ギラーミンはそのように映画化しても何ら支障はないと考えたに違いない。もちろん、今回のピーター・ジャクソンはオリジナルの世界を愛しているから(これを見て映画監督になろうと思ったほどだから)、スカル(髑髏)島の部分を怒濤の展開にしてある。首長竜の暴走、小型肉食恐竜の襲撃、3頭のティラノザウルスとコングの戦い、巨大昆虫の襲撃、巨大コウモリとコングの戦いと延々と続くスペクタクルな場面はいずれも圧倒的な迫力に満ちている。もうここだけで怪獣映画の最高峰と思える出来である。

 当然のことながら、技術的な部分ではオリジナルをすべて凌駕している。しかし、オリジナルの影響力を凌駕できたかというと、そうはなっていない。それはジャクソン自身が一番よく分かっているだろう。実際、最初にテレビで33年版を見たときに感じたのは、なぜこんな大昔の映画にこんなにたくさんの怪獣が出てくるんだという新鮮な驚きだった。ストップモーション・アニメーションのぎこちない動きであるにもかかわらず、髑髏島は怪獣映画のファンにとって実に魅力的な場所だった。あの時代にああいう映画を作ったことは永遠に評価されることだと思う。

 ジャクソン版の映画のエンド・クレジットの後にはオリジナルの製作スタッフへの献辞が出る。「あなたたちの映画は後に続く者に勇気を与えた」。その勇気をもらった一人がジャクソンなのであり、この映画はオリジナルへのリスペクトに満ちている。オリジナルな映画が一番強いと分かっていながら、ジャクソンには自分の手で愛する映画をリメイクしたいという抑えきれない衝動があったのだろう。ジャクソンは33年版を愛する他の多くの観客と同じ視線でこの映画を作っている。だからこの映画に僕は強く惹かれる。

 1930年代の不況のニューヨーク。フーバー・ヴィルの様子なども描写した後、映画はヴォードヴィルの舞台に立つ喜劇女優のアン・ダロウ(ナオミ・ワッツ)に焦点を当てる。アンが仕事をしていた劇場は給料を未払いのまま興行主が逃げてしまった。別の興行主を頼ったアンはストリップティーズの劇場を紹介される。一方、映画監督のカール・デナム(ジャック・ブラック)は逃げた主演女優の代わりを探していた(さまざまな女優候補の中にフェイ・レイがいる。「別の映画を撮影中だ」との答えにカールが「ああ、メリアン・C・クーパーの映画か」と言うのがおかしい)。劇場の前でアンを見かけたカールは跡を付け、アンが果物屋のリンゴを盗んで店の主人からとがめられたところを助ける(これはオリジナルにもある場面だ)。映画に出るよう誘われたアンは脚本家が尊敬するジャック・ドリスコル(エイドリアン・ブロディ)と知って承諾。ベンチャー号という小さな船で髑髏島へ向かうことになる。

 冒頭のニューヨークの場面はいいにしても、船の中の場面が少し長く感じる。ここはもう少し切りつめてもよかっただろう。髑髏島に着いてからは好調で、原住民の不気味なメイク、キング・コングの凶暴さもいい。アンがコングに殺されないのはオリジナルでは白い肌にブロンドの髪だったからだが、この映画ではアンのヴォードヴィルの才能が心を通わせる要因になっている。そして、役柄としては年を取りすぎていると思えたナオミ・ワッツの演技力がこの映画を情感豊かな説得力のあるものにしている。それはジャック・ブラックにも言えることで、才能があるんだか、詐欺師みたいなやつなのか判然としない監督役をブラックは実にうまく演じていると思う。

 ピーター・ジャクソンという人は決して天才肌の人ではないと思う。天才肌の監督だったら、この映画も2時間半程度にまとめただろう。ただし、こつこつと積み上げていく完璧主義者ではあり、どの画面もないがしろにはしていない。髑髏島でコングの住む場所から見る風景をアンが「ビューティフル」という場面はエンパイアステートビルの場面に呼応している。ニューヨークの路上をアンが静かにコングに歩み寄る場面の静けさも印象的だ。

 「指輪物語」「キング・コング」と自分の愛する世界を描き尽くしたジャクソンの次作はアリス・シーボルドの「ラブリー・ボーン」の映画化という。これまでとは全く異なるジャンルで、どういう映画になるのか楽しみだ。

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