2006/02/10(金)「博士の愛した数式」

 「博士の愛した数式」パンフレット吉岡秀隆がなぜ自分がルートと呼ばれているかを教室で生徒に説明する。それがこの物語の語り方。原作でルートは確かにラストで数学の教師になるが、黒板で数式の説明するようなシーンは映画としては、うまくはないなと思う。原作の地の文にある数学の説明をするには黒板は確かに便利だが、日本のSF映画でよくあった白衣の科学者が物事を説明するシーンになんだか似ているのだ。しかし、これは小さな傷で、全体としては心優しい気分になれる佳作だと思う。博士(寺尾聰)と義姉(浅丘ルリ子)の関係を原作より明確に描いたことは生々しくなってあまり好みではないのだけれど、ゆったりとした静かな物語のアクセントになっている。「義弟には10年前の私の姿がそのまま見えているのです」という義姉の言葉にはドキリとさせられた。博士の記憶が80分しかもたないことによって、この2人は他人には入り込めない濃密な関係にある。同時に80分しか記憶を持てないがゆえに博士は苦しみも悩みも記憶せずに純粋でいられる。小泉堯史の脚本・演出は博士の枯れた静謐な生活の裏にどろどろしたものがあることをそっと浮かび上がらせている。博士の純粋さに惹かれていく深津絵里の真っ直ぐな生き方が心地よい。

 家政婦として働きながら10歳の子供を育てる主人公が元大学教授の博士の家で働き始める。博士は10年前に交通事故に遭って職と記憶の能力を失い、その後は義姉の世話になって離れに住み、細々と暮らしている。数学雑誌の懸賞に応募して賞金を得るのが唯一の収入である。原作で素晴らしいのは博士の人柄を示すこんなシーンである。

 「プレゼントを贈るのは苦手でも、もらうことについて博士は素晴らしい才能の持ち主だった。ルートが江夏カードを渡した時の博士の表情を、きっと私たちは生涯忘れないだろう。(中略)彼の心の根底にはいつも、自分はこんな小さな存在でしかないのに……という思いが流れていた。数字の前でひざまずくのと変わりなく、私とルートの前でも足を折り、頭を垂れ、目をつぶって両手を合わせた。私たち二人は、差し出した以上のものを受け取っていると、感じることができた」

 家政婦が何人も辞めた変わり者でありながら、数学を愛し、謙虚な姿勢を貫き、子供を庇護する。タイガースファンであるという共通点を持っていた博士と家政婦親子の3人は一緒に過ごすことで幸福な時間を得る。原作はそうした幸福な描写と数学の魅力がうまく調和して、とてもとても心地よい話になっている。ただし、原作を読んで少し不満に思ったのは終盤にもっと大きな秘密が明らかになるのではないかというこちらの想像がまったく裏切られたことだった。これはミステリ慣れしている自分が悪いのだけれど、映画はそういう不満をラスト近くの義姉の言葉によっていくらか緩和してくれた。両親も捨て、親戚も捨て、世捨て人のように暮らしている2人の関係がより現実的に浮かび上がってくるのである。

 映画が幸福な描写だけに終始していたら、小泉堯史らしい映画ということで終わっていただろう。この脚本、決して絶妙にうまいわけではないが、少なくとも映画としてのバランスは取れている。寺尾聰と深津絵里が良く、特に深津絵里は映画では初めての適役といっていいぐらいの演技だと思う。