2005/08/16(火)「妖怪大戦争」

 「妖怪大戦争」パンフレットかつて大映の夏興行の定番だった妖怪ものを、大映を買収した角川映画が製作。一見して類似性を感じたのは原口智生の快作「さくや妖怪伝」(2000年)で、同じ妖怪ものだし、剣を持った少年(少女)が悪に立ち向かうという基本プロットも同じである。ただ、「さくや」が1時間半足らずだったのに対して、この映画2時間3分もある。原作・脚本が荒俣宏なので話はしっかり作ってあるにしても、どうしても中だるみを感じてしまう。子ども向けの映画であると割り切り、導入部分をてきぱきとまとめて1時間半程度にした方が良かっただろう。全体として悪くない出来だけにそれだけが惜しい。

 映画はプロデュースチーム「怪」の雑談が発端にあったそうだ。水木しげる、荒俣宏、京極夏彦、宮部みゆきというメンバーで、それぞれゲスト出演もしている。加藤保憲を敵役にしようと発案したのは京極夏彦だそうで、映画は加藤が出ることによって「帝都物語」番外編みたいな雰囲気もある。残念なことに加藤を演じるのは嶋田久作ではなく、豊川悦司。豊川版加藤も悪くはないが、どうせなら嶋田久作に出て欲しかったところだ。監督の三池崇史は「ゼブラーマン」で意外にスーパーヒーローものに理解があることを示したが、今回も的を外していない。導入部分では妖怪の怖さを見せ、中盤からユーモアを散りばめている。おまけに出てくる女妖怪がどれもこれも色っぽい。鳥刺し妖女アギ役の栗山千明、川姫役の高橋真唯の2人が印象的で、個人的にはワルを演じる栗山千明がはまり役だと思った。ろくろ首役の三輪明日美もいい。

 主人公のタダシ(神木隆之介)は両親の離婚で鳥取の祖父(菅原文太)の家に母親(南果歩)と住む。東京から来たために学校ではいじめられている。タダシは神社の祭りで麒麟送子(きりんそうし)に選ばれる。麒麟送子は悪と戦う定めで、選ばれた者は大天狗の聖剣を取りに行かなくてはならないとの伝説があった。大天狗の山に向かったタダシは妖怪の姿を見て逃げ出すが、途中、けがをした不思議な生き物と出会う。その生き物はスネコスリで、やはり妖怪の一種。再び大天狗の山に引き寄せられたタダシは猩猩(しょうじょう=近藤正臣)、川姫(高橋真唯)、川太郎(阿部サダヲ)と出会い、ついに大天狗のもとへたどり着く。聖剣を取ろうとしたところへ、鳥刺し妖女アギ(栗山千明)が機怪(人間に捨てられた機械と妖怪が合体した怪物)とともに現れる。アギは人間に復讐を誓う魔人・加藤保憲(豊川悦司)に賛同し、妖怪たちを狩り集めていた。タダシは聖剣で立ち向かうが、アギに剣を折られてしまう。スネコスリを連れ去られたタダシは妖怪たちの協力を得て、加藤に立ち向かう。

 これで妖怪大戦争というわけだが、おかしいのは集まった妖怪たちが、加藤が敵と知って、「それでは…解散」と帰ってしまうこと。このあたりから映画はユーモアの度が強まってくる。妖怪のキャストが多彩でおかしい。油すまし=竹中直人、小豆洗い=岡村隆史、ぬらりひょん=忌野清志郎、大首=石橋蓮司、一本だたら=田口浩正、雪女=吉井怜、神ン野悪五郎=京極夏彦、魍魎=塩田時敏、山ン本五郎左衛門=荒俣宏、妖怪大翁=水木しげる、といった面々である。人間側も多彩で佐野史郎、津田寛治、大沢在昌、徳井優、永澤俊矢、田中要次、宮迫博之、柄本明といった顔ぶれ。宮部みゆきは学校の先生役で登場する。三池崇史の人徳なのか、ちょい役も含めてこんなにキャストがそろった映画も珍しいだろう。

 加藤の復讐は物を使い捨てにする人間たちへの憎しみから来ている。そういう理由にはあまり必要性を感じないのだが、子供たちに見せるにはそうした部分があった方が良いのかもしれない。ただし、これを見た子供たち、特に男の子は高橋真唯の太ももや栗山千明の衣装にしびれるのではないか。そうした部分を入れているところに三池崇史らしさを感じた。「ゼブラーマン」のゼブラナース(鈴木京香)の衣装を彷彿させるのである。逆に女の子がしびれるのは神木隆之介のけなげな姿なのだろう。

 パンフレットに収録された「怪」の4人による座談会(2002年12月収録)では3部作の構想が紹介されている。3年前の話だからどうなることかは分からないが、続編を作るなら、キュッと引き締まったコンパクトな映画を期待したい。

2005/08/05(金)「亡国のイージス」

 「亡国のイージス」パンフレット映画の登場人物たちがこだわる亡国に関する部分がよく伝わってこない。今の日本の現状にどう不満があるのかの説明が不足しており、分かったような分からないような気分になるのだ。残るのは「ダイ・ハード」的シチュエーションのアクションということになるが、これは阪本順治にとって得意な分野ではない。例えば、中盤のイージス艦から発射されたミサイルで護衛艦が沈むシーンなどもう少し緊迫感が欲しいと思えてきてしまう。中井貴一の「よく見ろ、日本人。これが戦争だ」というセリフほどアクションが戦争には見えないのである。「ダイ・ハード」的シチュエーションにしては、アクションに入るまでの前ふりが長すぎると思う。

 加えて、登場人物の背景を思い切り簡略化した結果、ヨンファ(中井貴一)と工作員の女ジョンヒ(チェ・ミンソ)の関係(原作では兄妹)がよく分からなくなっている。殺人マシーンであるジョンヒは原作では強烈な印象を放つが、チェ・ミンソはそれほど強そうにも見えない。一番弱いと思うのはテロリストたちの正体で、原作では北朝鮮とはっきり書いてあるのに映画ではこれがあいまい。具体的に国名を出せないさまざまな事情は分かるけれど、それなら架空の国にでもしてしまえば良かった。ヨンファの国がどういう状態か、どういう扱いを受けたかが示されないので、テロリストたちの真の目的もあいまいになり、ヨンファに同調するイージス艦副長の宮津(寺尾聰)にも説得力がなくなっている。ヨンファが自分の国をどうしようとしているのかをもっと描くべきで、それとヨンファの過去を組み合わせなければ、テロリストたちの動機が見えてくるはずはない。テロリストに対抗する仙石(真田広之)と如月行(勝地涼)にしてもキャラクターの描き込みが足りず、この映画、キャラクターの掘り下げ方が足りなかったのが一番の敗因なのではないかと思う。長い原作のまとめ方としては「ローレライ」の方がうまかった。

 ヨンファとジョンヒの兄妹は収容所に勤務する両親を暴動で殺され、軍の高官に引き取られた。工作員として育てられたが、過酷な任務でジョンヒは声を失う。敵国の捕虜になり、拷問によって廃人になる寸前のところをヨンファに救出される。やがてヨンファは育ての親の高官を殺し、政府の打倒と国の立て直しを意図するのだ。凄腕の特殊工作員であることと、父親殺しという点で如月行とヨンファには共通点があり、だからこの兄妹は如月を仲間に引き入れようともする。映画ではこうした部分が一切なく、水中の戦いで如月とジョンヒが唐突にキスをする意味がまったく分からない。宮津は国家に息子を殺される。国家への復讐という点でヨンファと共通点があるのである。そうした暗い情念を持った登場人物たちが映画ではまったく薄っぺらになっている。もちろん、原作をそのまま映画にできるわけはないから、省略や変更があるのは当然のこと。しかし、それにしても中途半端な描写が多すぎるように思う。阪本順治は本来なら、こうした人物を描き分けるのが得意のはずだが、脚本にする段階で失敗しているのではどうしようもない。

 原作を読んだ時に気になったのは福井晴敏の国防に対するスタンス。敵と対峙しても先に発砲することを許されない自衛隊の在り方への批判と受け取られかねない部分があるのだ。原作は冒険小説的側面を強調しているので、後半、この部分は薄くなるけれど、こういう考えは改憲派に利用されるなと感じた。映画に自衛隊が全面協力したのも原作にこういう部分があったからだと思う。協力をもらったからといって、自衛隊PR映画にする必要はさらさらなく、巧妙に反自衛隊映画にすることもできるのだが、阪本順治にはそういう意図はなかったようだ。この種の映画には政治意識が必要で、硬派の話が書ける人でないと、脚本化は難しい。そういう人材、今の日本映画にはあまり見あたらないのが悲しいところだ。

 言わずもがなのことを書いておけば、原作の主人公ははっきりと如月行である。如月行を演じられる俳優もまた見あたらないので主人公を仙石にしたのは仕方がない。原作の仙石は真田広之ほど格好良くはなく、普通のおっさんの感じだが、真田広之はそうした部分も少し取り入れつつ、アクション映画の主演をこなしていて悪くないと思う。

2005/07/20(水)「姑獲鳥の夏」

 「姑獲鳥の夏」パンフレットやはり榎木津には関口を猿と呼んで欲しいところだ。いや、シリーズ第1作のこの原作を読んだのはもう10年ほど前だから、この中で猿と呼んでいたかどうかはもはや覚えていないのだが、榎木津が関口をいたぶるシーンは入れて欲しかった。映画の榎木津礼二郎はおとなしすぎる(品も良すぎる)。原作ではもっと躁状態の印象が強いのだ。原作のある映画には付きもののこうした不満があることは十分に予想できたから、映画は別物と思って見たが、それでも映画として良い出来とは言えないと思う。劇場用映画は8年ぶりの実相寺昭雄監督は構図を斜めにしたシーンを多用して、不安感を煽る演出を見せているけれども、肝心の憑物落としの場面が長く感じる。憑物落としはいわゆる探偵が真相を話す場面にあたるのだが、この映画、伏線の張り方が不十分なので事件にかかわる重要な人物が唐突に出てくる印象となる。時代設定は昭和27年なのにその風俗があまり描かれないのも残念。木場刑事役の宮迫博之を除けば、キャスティング的には悪くないのだから、ぜひシリーズ第2作「魍魎の匣」(シリーズ唯一のSF)で捲土重来を果たしてほしいと思う。

 昭和27年、夏、東京。雑司ヶ谷の産婦人科医院・久遠寺医院の娘・梗子(原田知世)の不思議な噂が広まる。梗子は身ごもって20カ月になるのに一向に出産の気配がないというのだ。しかも梗子の夫は1年半前から行方不明になっている。雑誌記者の中禅寺敦子(田中麗奈)は作家の関口巽(永瀬正敏)に取材協力を頼む。古本屋の京極堂を営む敦子の兄秋彦(堤真一)は関口の親友で、事件を探偵・榎木津礼二郎(阿部寛)に相談するよう勧める。梗子の姉涼子(原田知世二役)が榎木津の事務所を訪れた時、ちょうど居合わせた関口は涼子の美しさに心を奪われ、助けたいと願う。その頃、榎木津の幼なじみの刑事・木場修太郎(宮迫博之)も事件に関わっていた。久遠寺医院の元看護婦が不審な死に方をしていたのだ。そして病院には赤ん坊をさらうという噂も広まっていた。

 原作の京極堂シリーズの語り手は関口だが、映画では一歩引いた形になっており、語り方は三人称単数である。関口の過去とも関わりのあるこの事件はシリーズの別の話でも言及されているほどだが、映像化されると、因縁話の側面が強調された感じを受ける。原作にある衒学的な部分を取り払うと、こういう感じになってしまうのだろう。単にストーリーを追うだけでなく、ここは衒学的な魅力の一端でも映像化の工夫が欲しいところ。冒頭にある京極堂の長々としたセリフだけでは物足りないし、映像的にも面白くない。

 堤真一の京極堂は口跡が良くて、悪くない。ただし、クライマックスには黒装束を決めてほしかった。映画で着る衣装は紫色がかっていて、憑物落としの場面にふさわしくない。関口巽役の永瀬正敏は気弱そうな部分のみ共通点がある。一番違和感があったのは木場刑事役の宮迫博之で、原作のイメージではもっと中年のいかつい感じのタイプだと思う。この映画にも出ていた寺島進なら良かったか。宮迫博之はイメージに合うとか合わないとかいう以前に演技に問題がある。京極堂シリーズは巻を重ねるごとにキャラクター小説の様相も帯びてきたから、こうしたキャスティングは大事だと思う。

2005/07/17(日)「逆境ナイン」

 「逆境ナイン」公式戦で勝ったことがない弱小野球部が廃部を免れるために甲子園出場を目指す熱血コメディ。島本和彦原作のコミックを「海猿」の羽住英一郎が監督した。落ちこぼれ集団が奮起するという「少林サッカー」パターンの映画で、逆境に次ぐ逆境をはねのけていく主人公・不屈闘志の姿がおかしい。惜しいのは「少林サッカー」ほど笑いが弾けていかないこと。笑いのパターンがやや画一化していて、一発ギャグみたいな笑いが多いのだ。「自業自得」や「それはそれ これはこれ」などの巨大石板(モノリス)が登場する不条理なシーンのおかしさは最初はいいのだが、こうしたギャグのパターンはだんだん新鮮さがなくなる。VFXの方も今ひとつな出来である。ただ、主演の玉山鉄二(「天国の本屋 恋火」」)の熱血・勘違いキャラクターには大いに好感度があり、映画を憎めないものにしている。クライマックス、9回裏112対0からの逆転劇などにもう少しアイデアを詰め込み、ドラマティックな展開を入れ、主人公以外のキャラクターも描き込んでくれれば、もっと面白くなったと思う。

 全力学園の野球部キャプテン不屈闘志(玉山鉄二)は校長(藤岡弘、)から突然、廃部を言い渡される。全国レベルの力を持つサッカー部と違って野球部は連戦連敗。「全力でないものは死すべし!」という考えの校長はグラウンドをサッカー部に明け渡すよう命じる。不屈は春のセンバツ優勝校日の出商業に練習試合で勝つことを条件に廃部を免れるが、ナインには次々に逆境が訪れる。赤点を取って試合当日に追試があったり、チワワに噛まれて出場不能になったり、試合の日にバイトが入ったり。不屈自身も利き腕の右腕を骨折してしまう。幸いなことに試合当日が雨だったため、日の出商業は試合を中止して、全力学園の不戦勝となるが、校長はこれを認めない。不屈は甲子園出場を校長に約束。監督にセパタクロー以外知らない榊原剛(田中直樹)が就任し、甲子園への県予選を戦うことになる。

 こういう話は大好きなのだが、羽住英一郎、まだまだ甘いなと思う。こういうリアリティゼロの話にどう説得力を持たせるかが問題なのである。決勝戦にコールドゲームはないので112対0というシチュエーションも可能性ゼロではないが、そこからの逆転劇の在り方はありえない。この映画での人を食った展開には唖然とするが、ありえないシチュエーションなので主人公の頑張りが感動に高まっていかないのがもどかしい。原作がこの通りであるかどうかはそれはそれとして、映画ならではの逆転劇を考えても良かったのではないか。

 対戦校の名前が中々学園とか手抜学園とか聞くだけでおかしくなるけれど、その他の展開も含めてバカバカしさだけで1時間55分持たせるのはつらいものがある。バカバカしいギャグを入れつつ物語の骨格を一応まともなものにしていくと、こういう映画は最強になると思う。バカバカしさを愛してはいても、それだけでは映画としては物足りないものなのである。藤岡弘、の素のキャラクターのままの校長先生は悪くないが、この校長にももっとドラマの見せ所が欲しいところ。田中直樹の使い方とか、ナインの一員を演じる坂本真の使い方にしても「フライ,ダディ,フライ」と比べてみれば、おかしさがもっと弾けていいのではないかと思える。演出の善し悪しというのはそういう部分に出てくるものなのだろう。マネジャー役の堀北真希はかわいかった。

2005/07/13(水)「フライ,ダディ,フライ」

 「フライ,ダディ,フライ」パンフレットさえない男がある事件をきっかけに闘争本能に火を付けるというのは冒険小説(ロバート・B・パーカー「銃撃の森」など)でたびたび描かれてきた設定である。この映画もそれを踏襲しているけれど、うまいのはあくまでも日常の範囲内で描いていることだ。普通のサラリーマンが家族を痛めつけた相手に血で血を洗うような復讐をする話にはせず、相手とは大勢が見守る中での対決になる。そして相手を倒すことよりもそれに至る訓練の場面がメインになっているところがいい。満員電車に揺られてマンネリ気味の会社勤めをしている男が、けんかの強い高校生の指導を受けて体を鍛えるうちに変わっていく。この変化を再生というのは大げさだが、出世を棒に振って長い休みを取り、ひたすら訓練に打ち込んだことが男のその後の人生に影響を及ぼさないわけはない。そして変化は周囲にも及ぶ。壊れかけた娘との関係を取り戻し、同じバスで帰るさえない中年男たちも主人公の懸命な姿を見て応援していく。もちろん、観客も主人公に共感を持つことになる。原作・脚本の金城一紀はよくある設定を借りて、独自のアイデアを盛り込み、細部のリアリティとキャラクターを大事にした話を作った。アップを多用した成島出監督の映画的な演出と堤真一、岡田准一の好演が加わって、映画はきっちりとまとまった情感豊かな佳作になった。大きな話にしなかったことが成功につながったのだと思う。見終わった後、思い切り体を動かしたい気分にさせる映画である。

 主人公の鈴木一(堤真一)はひとり娘の遙(星井七瀬)が病院に運ばれたと聞いて病院に駆けつける。遙はカラオケボックスでインターハイのボクシングチャンピオン石原(須藤元気)にボコボコに殴られたのだ。石原の父親は将来の総理になると見られている衆院議員。石原の通う高校の教頭(塩見三省)はことを穏便に済ませようと、金を渡す。少しも反省していない石原の態度に怒った鈴木は石原に詰め寄るが、そばにいた教師に倒される。娘を傷つけられた上に自尊心まで傷つけられた鈴木は翌日、包丁を持って石原の通う高校へ乗り込む。ところが、そこは石原の高校から200メートル離れた別の高校で、落ちこぼれ集団のゾンビーズの一員、朴舜臣(パク・シュンシン=岡田准一)から簡単に伸されてしまう。石原を倒し、娘の信頼を取り戻すために鈴木はけんかの強い舜臣の指導を受けて体を鍛えることになる。

 映画はモノクロームの画面で鈴木のさえない日常と事件を描いた後、校舎の屋上で両手を広げて舞う舜臣の登場シーンからカラーに変わる。手法として珍しくはないが、映画の内容にはぴったり合っている。クライマックスの対決シーンは強い風が吹いて砂ぼこりが舞う西部劇のような演出。タンブルウィードまで転がってくるのがおかしいが、これはそばにいた生徒が転がしている場面が映される。成島出の演出はオーソドックスな手法から、それを逆手に取ったシーンまでさまざまに変化を付けている。一直線と変化球が微妙に混ざったうまい演出だと思う。しかし何よりもキャラクターが素晴らしい。在日朝鮮人で母子家庭の舜臣は訓練をしていくうちに鈴木と心を通わせるようになる。木の上で自分の過去を話し、ふと弱さを漏らすシーンなどにキャラクターの奥行きを感じさせる。高校生が中年男を指導するというシチュエーションは他の脚本家でも思いつくアイデアだろうが、金城一紀の脚本はこうしたキャラクター作りがとてもうまい。設定だけでなく、細部にも独自のアイデアがあるのである。細部をないがしろにしていないからこそ、話に説得力が生まれるのだろう。

 岡田准一は1年かけて体を作ったそうで、その成果は両手の力だけでロープをささっと登るシーンなどに現れている。堤真一にはややオーバーアクトな部分があるが、それもユーモアに結びついているところなので気にならない。このほか、ゾンビーズの面々やさえない中年男たちの演技にユーモアとリアリティが同居しており、満足感の高い映画だと思う。