2007/06/09(土)「スキャナー・ダークリー」

 @宮崎映画祭。フィリップ・K・ディックの原作「暗闇のスキャナー」を「恋人たちの距離」「スクール・オブ・ロック」のリチャード・リンクレイターが映画化。原作はディックのドラッグ体験を元にしたSFで、僕が学生時代に今はなきサンリオSF文庫から出ていた。その後、創元SF文庫に移り、現在はハヤカワ文庫に入っている。きらめくような傑作が多いディックの小説の中ではそれほどの傑作ではないと思うが、デヴィッド・クローネンバーグはこれに触発されて「スキャナーズ」を撮ったらしい。そのクローネンバーグの「裸のランチ」のような描写がこの映画にもある。

 映画は俳優の動きをトレースしたアニメである。こうした手法はラルフ・バクシの「指輪物語」が代表的な作品で、当時はロトスコープと言われたが、今では人の手ではなく、コンピュータでトレースするらしい。

 リンクレイターがこの手法を取ったのは現実と非現実の揺らぎを表現したかったからなのかもしれない。そうした揺らぎが映画ではうまく表現できていないのが残念な点で、前半は退屈というほかない。後半、ストーリーの形が見えてきて、映画は面白くなるけれども、ディックが描きたかったのはストーリーよりもドラッグ体験に裏打ちされた悪夢のような描写の方にあるだろう。アニメとしては技術的にも大したことはない作品で、このテーマなら人間とアンドロイドの関係を思索的に描いた押井守「イノセンス」の方が数段上と思う。

 ディックがよくテーマにしたのは本物と偽物(シミュレイクラ)という概念。「ブレードランナー」の原作の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」や「高い城の男」「ユービック」「流れよわが涙、と警官は言った」などなどこれをテーマにした作品が多い。これに現実の揺らぎという部分を含めると、「火星のタイムスリップ」や「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」なども広義のこのテーマに属する。

 この映画に欠けているのはそうした思索的な部分だろう。ディックの小説はしばしば現実が崩壊していくような感覚を味わわせてくれたが、映画はそこの表現が決定的に足りないのだ。ストーリーを語るよりも描写で観客を納得させることは難しい。人の容貌を判別できないように刻々と変わるスーツはいかにもディックらしいガジェットだけれども、映画は端的にアニメの技術が不足していると思う。あの下手なアニメも現実の崩壊感覚を表したつもりなのかもしれないが、表現としては褒められたものではない。

2007/06/06(水)「ファイヤーウォール」

 面白いんだけど、パソコンの画面に流れる口座番号をFAXのスキャナ部品で読み取って、iPodに保存するというのは無理。複写部分と記録装置の間に解析装置が必要だろう。よく考えてある脚本なのにそこだけが気になった。普通にコンパクトなスキャナを使えばよかったのではないか。

 前半、追い詰められた主人公が後半、反撃に転じる。暴力とは無縁の主人公が3人も殺すというのを見ていて、なんとなくサム・ペキンパー「わらの犬」を思い出したが、年取ったとはいえ、ハリソン・フォードでは強くなってもあまり意外性がない。前半に暴力に弱いところを見せておいた方が良かっただろう。

 フォードは今年65歳だから、老けて見えるのは当たり前。過激なアクションを見ていると、年寄りのなんとか、と感じてしまう。個人的には「ワーキングガール」(1988年)の時に老けたと感じたが、あの時は46歳だったのだ。

 インディ・ジョーンズのパート4は大丈夫だろうかと心配になる。

2007/05/27(日)「パッチギ! LOVE & PEACE」

 「パッチギ! LOVE & PEACE」パンレット大感動して帰ってきて、ネットの他の感想を見ると、毀誉褒貶が明確に分かれている。「反日映画」と決めつけた偏狭かつ、もの知らず的な見方の幼稚な感想は論外としても、ヒステリックな非難の要因は主義主張のはっきりした映画を見た経験が少ないためとしか思えない。映画は「パッチギ!」(2005年)の続編だが、キャストも違うし、前作とのつながりはほとんどなく、独立した作品である。

 描かれるのは東京に出てきたアンソン一家の出来事を中心にした在日への差別と権力への異議申し立て。アンソンは筋ジストロフィーであることが分かった子供の治療費を捻出するために奔走し、妹のキョンジャはスカウトされて芸能界に入る。在日への差別が厳しいのはこのキョンジャのパートで、キョンジャはタレントとして売り出すために在日であることを隠して活動せざるを得ない。差別を根本的に描くには、朝鮮人が日本に連れてこられた過去、つまり戦争中の描写に踏み込まざるを得ず、キョンジャが出演した特攻隊映画「太平洋のサムライ」と徴兵から逃げたキョンジャの父親の戦争中の描写が対照的に描かれていくことになる。嘘っぱちの「君のために死ぬ」などという「太平洋のサムライ」のセリフが白々しく感じられるの言うまでもない。この映画が優れているのはこうしたテーマに真摯に向き合っていると同時にエンタテインメントにくるんで仕上げていることで、最初と最後にある乱闘シーンは実に気持ちよく、陰湿な差別意識を吹き飛ばす爽快感にあふれている。加えて、このシーン、前作同様に殴り合わなければ本当の理解は進まないという端的な主張を表してもいるのだ。

 僕は前作よりも面白かった。というよりも井筒和幸のベストではないかと思う。こうした普通の主義主張を言うのに今の日本は困難な時代になっている。でなければ、ヒステリックな非難など出てくるはずがない。反権力・反権威に貫かれた映画なので、権力に追従することに気持ちよさを覚える人、権威にただひれ伏す人には不快なのだろう。当然のことながら、差別主義者と権威主義者がイコールなのはよく知られた事実なのである。

 1974年から1975年にかけての東京・枝川が舞台。叔父の経営するサンダル屋で働いているアンソン(井坂俊哉)は妻を白血病で亡くし、息子のチャンス(今井悠貴)は筋ジストロフィーであることが分かる。妹のキョンジャ(中村ゆり)は焼き肉屋で働いていたが、あるプロダクションの男にスカウトされ、芸能界に入ることになる。オモニ(キムラ緑子)や叔父さん(風間杜夫)、その妻(手塚理美)、地区の長老(米倉斉加年)、朝鮮将棋のおじさん(村田雄浩)らのキャストの充実ぶりが大したもので、これは下町の人情劇としても機能しているのが素晴らしい。監督の言う「あの時代をこうやって懸命に生きてきた家族がいたんだよということを描こうと」したという言葉が本音であるかどうかはともかく、描写の具体性は人情劇としても十分通用するのである。この地区に転がり込んできた国鉄職員の佐藤(藤井隆)もまた、小さいころに母親に捨てられた過去を持ち、人情劇の側面を補強している。同時に映画にはそうした人々が不当な差別にさらされた怒りと鬱屈を描いていもいる。クライマックス、キョンジャが映画館の観客の前で自分の出自を明らかにするシーンはそうした不当な差別への異議申し立てを表していると同時に間違った社会への抗議にほかならない。

 井筒和幸は映画の端々に小さな批判と怒りを込めている。筋ジストロフィーをドラマの設定に描くことには難病ものと似たり寄ったりではないかという疑問も感じるのだけれど、瑕疵だろう。思えば、キョンジャが「必ず生きて帰ってきてください」という映画のセリフの変更に反発するシーンは黒木和雄「紙屋悦子の青春」にそのまま通じるシーンなのである。チャラチャラした作品の多い日本映画の中で、芯の揺るがない作品に出会うこと自体が珍しく、それだけでも貴重な作品と思える。在日うんぬんの前に権力への盲目的な追従を批判した映画であり、右傾化した現在の日本への警鐘鳴らす作品でもある。井筒和幸の主張は極めて真っ当なもので、この痛快で正直な作品がヒットしない現状には疑問を感じざるを得ない。反発精神、反骨精神にあふれた映画である。

2007/05/22(火)「時をかける少女」

 見終わってすぐに最初から見たくなる。優れた時間テーマSFの常でちゃんと最初の方に伏線が張ってあり、美術館に間宮千昭がいる描写が2度も出てきた。この脚本には感心した。SFの部分もいいが、青春映画としてきっちり作ってあるところにとても好感が持てる。いやあ、素晴らしい。

 リメイクではなく、原作の20年後を舞台にした続編。前作の主人公・芳山和子は今回の主人公・紺野真琴の叔母役で出てくる(といっても映画の中では名前を名乗るシーンはなかったと思う。エンドクレジットには出てきた)。原作者の筒井康隆も正統な続編と認めているという。毎日映画コンクールアニメーション映画賞をはじめ内外で多くの受賞をしていることを見ても分かるように、それほど出来がいいのだ。

 高校3年生の紺野真琴はクラスメートの間宮千昭、津田功介と野球を通じて仲の良い男女を超えた関係を築いている。ある日、真琴は理科の実験室で気を失い、自分がタイムリープ(時間跳躍)の能力を身につけたことを知る。千昭から告白されそうになった真琴は過去に戻って告白させないようにする。聖なるトライアングルを壊したくないのだ。真琴は失敗しても何度も過去に戻ってやり直せる能力に最初は有頂天になるが、やがてやり直すことで別の人間が自分の代わりになっていることを知る。

 中盤にあるのは人生の岐路をやり直すことの意味。自分は不幸を免れるが、その代わりとなる人間がいることに真琴は悩む。何度も何度もやり直すシーンはケン・グリムウッドの「リプレイ」を思い出すのだが、この映画は終盤に前作のような切ない展開を迎え、成長した真琴の姿を映して終わる。

 「今の関係がずっと続けばいいのに」と考えている真琴は「ずっと今が続けばいいのにね」という「ロボコン」の長澤まさみと同じく青春の中にいる。主人公の明るくアクティブなキャラクターとその必死さが映画に輝きを与えている。

 キャラクターデザインは「エヴァンゲリオン」の貞本義行。監督の細田守は評価の高かった(僕はそれほどとは思わなかった)「劇場版デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム」や「ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島」(これは未見)を監督しているが、これほどの作品を作るとは思わなかった。

2007/04/25(水)「奇談」

 諸星大二郎「生命の木」の映画化で2005年の作品。妖怪ハンター稗田礼二郎の映画としては「妖怪ハンター ヒルコ」(1991年、塚本晋也監督)に続いて2作目か。

 この映画の中にも「ヒルコの里の稗田先生ですか」というセリフが出てくる。「ヒルコ」では稗田を沢田研二が演じたが、今回は阿部寛。イメージ的には悪くない。一番興味があったクライマックスの生命の木の描写の仕方もまあまあか。「ぱらいそ」「いんへるの」といった言葉が出てくるのがいかにもな感じである。ただ、全体的に作りが安く感じる。さーっと流して表面的なものに終わっている。諸星大二郎の世界だったら、もっと濃密に映画化した方がいいと思う。監督は小松隆志、プロデューサーは一瀬隆重(「呪怨」「リング」)。

 映画の冒頭に隠れ切支丹が弾圧から逃れて独自の宗教に発展していったという説明が入る。これ、諸星大二郎の別の作品でもあったと記憶している。