2013/02/18(月)「ゼロ・ダーク・サーティ」

 ビンラディンを極悪人として描けなかった、そもそも何も描けなかったことが一般的な娯楽映画の気分からほど遠い要因なのだと思う。普通のアクション映画の悪役は当然倒されるべき存在として描かれる。敵を倒す主人公の行為の正当化にはこれが不可欠だ。もちろん、脚本のマーク・ボールも監督のキャスリン・ビグローもビンラディンを単純な娯楽映画の悪人として描くほど愚かではないから、そんなことはしなかった。映画の冒頭に貿易センタービルで亡くなった人たちの最後の痛切な会話を流すことで、ビンラディン=倒すべき悪、と規定している。何の罪もない3000人近い人の命を奪う作戦を指揮したのだから、これは当然と言えるかもしれない。

 しかし、と思う。ビンラディンはどういう人間なのか、アメリカを憎むアルカイダの論理はどんなものなのかを少しでも描いていれば、この映画はもっと充実していたに違いないと思う。この映画に登場するアルカイダは正体不明と言ってよいぐらい何も描かれない。別にアルカイダの肩を持てと言っているわけではない。アメリカ映画なのだからアメリカ側の視点で作られるのは当然だが、この映画の視点は狭すぎると思うのだ。イラク戦争の爆弾処理班の兵士だけを描いたビグローの前作「ハート・ロッカー」と同様、全体を見渡す視点に欠けている。例えば、デヴィッド・O・ラッセルは湾岸戦争を舞台にした映画「スリー・キングス」でアメリカ兵を拷問するイラク兵に、空爆によって家族を失ったというセリフを言わせていた。視点を多角化するそういう部分が重要なのである。

 主人公のCIA分析官マヤ(ジェシカ・チャステイン)はビンラディンを執拗に追う。途中から同僚をテロで殺されたという私怨が含まれてくるにせよ、10年間追い続ける理由としては説得力が足りないように思う。ここで思い出すのは「オデッサ・ファイル」(1974年、フレデリック・フォーサイス原作、ロナルド・ニーム監督)だ。この映画、主人公が逃亡したナチスの高官を追う本当の理由が最後に明らかになって膝を打ったものだ。そうか、それならそこまで執念深く追いかけるのも仕方がないよな……。敵を追い詰める主人公の行動原理にはそうした強く差し迫った動機が必要だろう。

 アメリカ政府が公式には否定している拷問のシーンがあるからこれは社会派の映画だろうか。違う。主人公が作戦を完遂しても空しい気持ちになるから、これは社会派の映画だろうか。それも違う。社会派の映画には批判の矛先が必要だ。この映画はそれがあいまいなのである。同時テロからビンラディン暗殺まで10年間のアメリカ側の捜査(拷問、拷問、拷問)を描いただけであり、拷問批判が狙いなら、クライマックスの襲撃場面にあんなに力を入れる必要はない。実際、ビグローの演出はこのクライマックスで本領を発揮する。基本的にビグローはサスペンスとアクションの人だ。社会派的な題材を取り上げるのであれば、得意のアクションの組み立てと同じぐらい緻密に構成を考える必要があった。

 ちなみにこのクライマックス、屋敷が高い塀に囲まれていることもあって、赤穂浪士の討ち入りを思わせた。赤穂浪士にとって吉良上野介は主君を死なせた憎むべき敵だが、吉良上野介にとってみれば、赤穂浪士は屋敷に押し入ったテロリスト集団だろう。

 見終わって、なんだか宙ぶらりんにされたような釈然としない気持ちが残る。部分を描いて全体を映し出す手法は確かにあるが、この映画では成功していない。

2013/02/11(月)「希望の国」

 このサイテーの映画がキネ旬ベストテン9位に入ったということに驚くほかない。

 底の浅い脚本、問題を深化していかない脚本、取材不足が露呈する脚本(あるいは取材が消化できていない脚本)に大きな欠陥がある。原発近くに住む両親は自殺し、原発から遠く避難した息子夫婦は元気を取り戻す。この単純な展開に唖然とする。放射能に汚染された地域はさっさと捨てましょうね、他の地域にはまだ希望がありますよというメッセージにしか見えないのだ。

 このストーリーのどこに希望があるのか。「一歩、一歩、一歩、一歩」と言いながら雪の中を歩く男女にかぶさって「希望の国」というタイトルが出るのを見て、小学生でも考えつきそうなアイデアをよく恥ずかしげもなく描けるなと思った。

 昨年放映されたNHKの番組で福島の人たちを対象にしたこの映画の試写の様子が紹介されていた。見た人から「なぜあんなラストにしたんですか?」と質問が出たが、映画を見てその質問の理由が分かった。答えも分かった。監督がバカだからです。

 何より腹立たしいのは映画が長島県という架空の県を舞台にしていることだ。長崎と広島を合わせた名前というのもふざけているが、なぜ福島県にできないのだろう。これでは現実と向き合う姿勢を放棄したとしか思えない。

2013/02/10(日)「つばさ」

 第1回アカデミー作品賞を受賞したサイレント映画「つばさ」(1927年)がWOWOWで放映された。僕は名前だけ知っていて初めて見た。第一次大戦を舞台にした戦争映画で、当時としてはかなりの超大作。複葉機と戦車、白兵戦が入り乱れるクライマックスには相当の予算がかかっている。古い映画とバカにできない迫力だ。Wikipediaには「空中戦映画の先駆的な超大作として映画史上に名高い作品」とある。

 終盤の展開には少し疑問があって、現代の映画だったら、ここから深刻なドラマが始まるところだろう。この映画はさらりと反戦に絡めて(すべて戦争のせいにして)終わっている。

2013/02/10(日)「イノさんのトランク」

まいった。泣けて泣けてしょうがなかった。録画しておいた「イノさんのトランク 黒澤明と本多猪四郎 知られざる絆」をようやく見た。昨年12月20日にNHK-BSプレミアムで放送されたドキュメンタリー。黒澤明と本多猪四郎の友情を本多の妻きみの視点から描き、深い感動を残す傑作だった。

戦前の助監督時代に意気投合した2人はその後、死ぬまで友情をはぐくむことになる。本多は戦争に行ったが、黒澤は行かなかった。復員後、30代半ばだった本多には仕事がなく、東宝からは監督になることは諦めるように言われる。そんな時、黒澤は本多に「野良犬」の助監督を依頼する。これが本多の監督への道を開くことにつながった。晩年も会えば、2人は映画の話ばかりしていたという。温厚な本多に対して、黒澤は現場で怒ることが多かった。正反対の性格であり、お互いに尊敬しあっていたから、友情は長く続いたのだろう。

本多が死んだ時のことについて黒澤、本多の映画に多数出演した土屋嘉男はこう話す。「さぞがっくりしているだろうと思って自宅に行ったら、黒澤さん、言いました。『さあ、めそめそなんかしていられるか! 元気出してこれから頑張るぞ』。あれはね、すごい哀しみだったんですよ」

僕は「ゴジラ」シリーズから本格的に映画を見始めたので、本多猪四郎は最初に名前を覚えた監督だ。同時に小学生の時にテレビで見た「マタンゴ」によって深いトラウマを刻みつけてくれた恨み多い監督でもある。しかし、監督自身のことは何も知らなかった。亡くなっても、「いい人だった」と言われる人は幸せだなと思う。

2013/02/02(土)「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」

 映画を見る前にヤン・マーテルの原作「パイの物語」を読んだ。乗っていた船が沈没して主人公パイが救命ボートでトラと漂流する部分(第2部)が大半を占め、ここが一番面白いのだが、この小説はその後にこれまでに語った物語をひっくり返すような第3部があり、ここが文学的な価値を高めている。物語とは何なのか、なんてことを考えさせられるのだ。ブッカー賞受賞が納得できる傑作だが、映画にするのは相当に難しいと思えた。文学的なテーマと凄惨な描写があるからだ。果たしてアン・リー監督はどうやって映画化したのか、俄然興味がわいた。

 映画を見て驚いた。アン・リーは原作にかなり忠実に映画化している。凄惨な描写はマイルドな表現に変えてあるし、一部省略したエピソードもあるが、原作にここまで忠実で成功した映画は珍しい。何が良いと言って、ビジュアルな部分が素晴らしいのである。原作を読みながら、こちらが頭でイメージした映像を上回る映像を見せてくれる。激しい嵐、逆巻く波、大きなうねり、ジャンプするクジラ、鏡のように凪いだ海、青白く発光するクラゲ、空飛ぶ大量のトビウオ、島を埋め尽くしたミーアキャットの大群などなど、どれもが美しくリアルで目を奪われる。スタッフは見事な仕事をしており、文学の映画化としてこれはお手本みたいな作品になっている。絵で語ることに成功しているのだ。

 こうした素晴らしいイメージを描出することができたのはVFX技術の進歩があるからだ。リチャード・パーカーこと凶暴なベンガルトラやハイエナ、シマウマ、オランウータン、ミーアキャットなど出てくる動物はほとんどCGだろう。動物たちが原作にある描写とそっくり同じ動きをするので逆にCGであることがはっきり分かる。動物にあんな風に細かく演技指導することはどんなに優秀な調教師でも不可能だ。しかし、この映画のCGはどれもリアルで実写から浮いていない。そこが素晴らしい。CGを担当したのは「ナルニア国物語」のリズム&ヒューズ・スタジオ。ナルニアのライオンもリアルだったが、この映画はそれを上回っている。

 原作の文学的なテーマは後退しているが、それは小説と映画の表現の違いだから仕方がない。欲を言えば、主人公の漂流に至るまでの序盤が長いので、ここをコンパクトにまとめると良かったと思う。これは原作もそうで、いきなり船の沈没の場面から始まってもあまり支障はないように思えた。序盤だけは原作に忠実にしなくても良かっただろう。

 さて、アン・リーが映画化に際して省略した部分とは何か。それはリチャード・パーカーという名前に関係してくる。この名前ついては映画のパンフレットに書かれているが、エドガー・アラン・ポーの小説「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」の登場人物の一人。これは海を漂流中に食料が尽きた4人の男が“いけにえ”となる一人を選ぶという物語だそうで、食べられる羽目になるのがリチャード・パーカー。そしてなんと小説の発表から47年後の1884年、漂流中の4人のうちの一人が食べられるという実際の事件が起きた(ミニョネット号事件)。ここで犠牲になったのもリチャード・パーカーだったそうだ。

 この名前をトラに付けたことでも分かるように、原作にはカニバリズムの描写が出てくる。映画ではちょっとしか出てこないフランス人コック役を名優ジェラール・ドパルデューが演じているが、原作ではこのコック、終盤にもう一度出てくる。詳細は省くが、カニバリズムの主役であり、犠牲者ともなる人物だ。ドパルデューをキャスティングした段階ではカニバリズムの部分は脚本に残っていたのかもしれない。原作にはウミガメを解体して食べるシーンもあるが、これも見て楽しい場面ではないのでカットしたのだろう。エンタテインメントを作る上でこうしたダークな部分を削ったのは賢明な判断だったと思う。