2016/05/17(火)「64 ロクヨン 前編」

「64 ロクヨン 前編」パンフレット

 単行本で647ページの原作を前・後編として映画化するのは、最近の流行に乗っただけのようでどうかと思ったが、忠実に映画化しようとすれば、これぐらいの長さが必要ではある。前編は原作の3分の2あたりまでを映画化してある。ここまでに描かれるのは刑事部から警務部広報官に異動した主人公・三上義信(佐藤浩市)の記者クラブや上層部との確執と、ロクヨンに関わった人間たちの現在の姿だ。

 原作が大きく動くのはこの後なので、1本の映画としてまとめるのは難しいところだが、交通重体事故の匿名発表をめぐる記者クラブとの対立をメインに持って来て、三上の独断でその解決を図る場面が前編のクライマックスとなっている。脚本にして9ページ、約9分間のこのシーンを支えるのは佐藤浩市の入魂の演技だ。原作以上に迫力と情感にあふれ、クライマックスとして有効に機能している。瀬々敬久監督の演出はこの場面に限らず、情感を込めたもので、他の出演者たちの好演も相まって感動的な映画に仕上がった。

 原作はD県警シリーズだが、映画でこの名前はあり得ないから群馬県警になっている。ロクヨンとは昭和64年1月5日に発生した少女誘拐殺人事件。7歳の少女が誘拐され、身代金2000万円を奪われ、少女の死体が車のトランクから見つかった。事件の経過を冒頭で見せた後、映画は14年後に飛び、三上が雪の中、妻の美那子(夏川結衣)と死体の確認に行く場面となる。三上の一人娘あゆみ(芳根京子)は父親にそっくりな自分の容姿を嫌い、家出して行方が分からなくなっているのだ。

 三上は家庭でも職場でも難題を抱えている。匿名発表をめぐって記者クラブは強く反発し、県警本部長あてに抗議文を出そうとする。ロクヨンの情報提供を呼びかけるという名目で警察庁長官の事件現場視察と、被害者の父親・雨宮(永瀬正敏)との面会の計画が持ち上がり、三上は雨宮と交渉するが断られてしまう。三上の同期で警務部調査官の二渡(仲村トオル)はロクヨンをめぐって不審な動きをしている。二渡の狙いは幸田メモと呼ばれるロクヨン捜査の重大な失敗を記したメモにあるらしい。さらに長官視察の本当の理由も明らかになってくる。記者たちは長官取材のボイコットを通告する。

 瀬々監督はキネマ旬報のインタビューで「広報官の三上がいろんな敵と闘う『真吾十番勝負』みたいな話ですから、これは」と話しているが、まさにその通りの展開だ。ほとんど出ずっぱりの佐藤浩市は部分的にやや過剰な演技も目に付くが、映画を支える熱演を見せる。クライマックス、三上は独断で事故の第1当事者(加害者)の実名を発表した後、部下が調べた被害者・銘川老人の境遇について読み上げる。孤独な老人の境遇だけで胸を詰まらせるものがある。原作ではこう書かれている。

 「これまでで一番の幸運は女房と出逢ったことだと言っていた。ずっと安月給で、二度も大病を患い、苦労を掛けっぱなしだったが文句一つ言わずに尽くしてくれた。温泉巡りはしたが、とうとう海外旅行には連れて行ってやれなかった。墓は立派なものを建てた。人生で家の次に大きな買物だったと言っていた。女房が死んでからはテレビばかり観ている。たいていはバラエティーをかけている。別に面白いわけではないが、賑やかなのがいいんだと言っていた」

 不覚にも声が裏返った。

 匿名発表と被害者の境遇にあまり関係はないと思えるが、三上は「生涯でたった一度、新聞に名前が載る機会を、それを目にした誰かが彼の死を悼む機会を、匿名問題の争いが奪った」と考える。

 雨宮の自宅を二度目に訪れる場面もいい。三上は仏壇の遺影を見て、なぜか涙を流してしまう。涙の理由は原作にも明確には書かれていない。難しい場面だが、佐藤浩市は難なく乗り切っていて不自然さはなかった。

 広報室勤務の綾野剛、榮倉奈々、金井勇太のほか、県警本部長の椎名桔平、警務部長の滝藤賢一、刑事部長の奥田瑛二など必死だったり、憎々しかったりする役柄をそれぞれが好演している。数多くの登場人物が織りなす人間ドラマとして見応えがあった。後編は一転してサスペンス調になり、原作とは変えた部分もあるという。公開を楽しみに待ちたい。

2016/05/10(火)「モンスターズ 地球外生命体」

 「GODZILLA ゴジラ」のギャレス・エドワーズ監督が注目された低予算のSF。2010年公開。KINENOTEには「1万5千ドルの低予算ながら、カンヌ国際映画祭で上映され絶賛されたパニック映画」と書いてあるが、怪獣もちゃんと出てくるし、この内容を1万5000ドルで作るのは無理だ。絶賛というのもオーバーな表現ではないか。Wikipediaを見ると、「設備機材費は1万5千ドルで、製作費は50万ドル」とあった。

 太陽系に地球外生命体の存在を確認したNASAが探査機でサンプルを採取するが、大気圏突入時にメキシコ上空で大破。地球外生命体が増殖し、メキシコの半分は危険地帯として隔離される。6年後、モンスターの写真を撮りにメキシコを訪れたカメラマンのコールダー(スクート・マクネイリー)は手にけがをした社長令嬢のサマンサ(ホイットニー・エイブル)をアメリカまで送り届けるよう上司から命令される。フェリーで帰ろうとしたが、パスポートとチケットを盗まれたために2人はフェリーに乗れず、危険地帯を通る陸路を進むことになる。

 モンスターはタコみたいな造型。低予算のため、街の破壊シーンなどはない。クライマックスの描き方は「GODZILLA ゴジラ」のムートーを思わせた。ムートーはこれを発展させたものなのだろう。映画の作りは正統的でそこが評価された要因か。

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2016/05/09(月)「スポットライト 世紀のスクープ」

「スポットライト 世紀のスクープ」パンフレット

 カトリック教会の神父による児童への性的虐待と教会の組織的な隠蔽を調査報道したボストン・グローブ紙の実話。記者たちが一大スキャンダルを調査するという点で「大統領の陰謀」(1976年)を思い浮かべたが、監督のトム・マッカーシーも映画化の際に「大統領の陰謀」を参考にしたそうだ。そして「大統領の陰謀」と同じく、この作品もアカデミー作品賞を受賞した。

 しかし、この映画は「大統領の陰謀」以上に胸を打つ。それは題材がワシントンポスト紙のボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインが追及したウォーターゲート事件よりも身近であり、被害者が圧倒的に多いからだ。記者たちは被害者に会い、子ども時代に受けた傷が未だに影響していることを知る。中には自殺した被害者もいた。記者たちが突き動かされたのは単純な正義感ではない。権力をかさに貧困家庭の少年少女に標的を絞った汚いやり口への嫌悪感、信者の信頼を裏切る事件を隠蔽してきた教会への怒り、過去に事件を大きく取り上げてこなかった自分たちへの後悔などがないまぜになったものだ。

 「スポットライト」とは同紙の特集記事で、4人の記者が担当している。2001年、ニューヨーク・タイムズのマイアミから編集局長としてマーティ・バロン(リーヴ・シュレイバー)が赴任してくる。バロンから指示された4人は神父の性的虐待事件を調べ始める。その神父、ゲーガンは30年間に80人の児童に性的虐待をした疑惑が持たれていた。事件を調べるうちに、虐待をした神父はゲーガン以外にもおり、それが想像以上に多いことが分かってくる。教会は事件を起こした神父を異動させ、被害者の家族と裁判所を通さない示談を行い、事件の表面化を防いできた。教会の組織的な隠蔽を暴き、事件の再発防止を図るため、チームは資料を調べ、地道な取材を積み重ねていく。

 4人の記者はチームのリーダー、ウォルター”ロビー”ロビンソン(マイケル・キートン)、熱血漢で粘り強いマイク・レゼンデンス(マーク・ラファロ)、被害者に寄り添うサーシャ・ファイファー(レイチェル・マクアダムス)、データ分析担当のマット・キャロル(ブライアン・ダーシー・ジェームズ)。作品賞を取りながら、だれも主演賞にノミネートされなかった(ラファロとマクアダムスが助演賞ノミネート)のは、この調査報道が1人の功績ではなく、チームの共同作業およびそれをバックアップしたボストン・グローブ全体の成果として描いているからだろう。

 4人はそれぞれに好演しているが、毅然とした編集局長を演じるリーヴ・シュレイバーが一番の儲け役かもしれない。事件への過去の対応を悔やむロビーに対して、バロンは言う。「我々は暗闇の中を手探りしながら歩いている。光が差して初めて間違っていたことに気づく」。ジャーナリズム云々の前にこれは組織を描いた映画として見ることができる。

 欧米で教会の権力は大きく、その信者も多い。さまざまな圧力と妨害を受けながら、記者たちが真実にたどり着くまでをトム・マッカーシー監督は緊密なタッチでまとめた。ハワード・ショアの音楽も相変わらず一級品だ。

 新聞をまねた体裁のパンフレットに「『スポットライト』の後、何が起こったのか」という文章を町山智浩さんが書いている。それによると、「2002年から全世界で報告された神父によるレイプは4000件におよび、800人が神父の資格を剥奪され、2600人が職務永久停止処分を受けた。カトリック教会が支払った賠償の額は2012年には26億ドルを超えた。多くの教区が破産した」。報道の影響はウォーターゲート事件以上なのではないか。

2016/05/06(金)「キャロル」

「キャロル」パンフレット

 パトリシア・ハイスミスの原作を読んでから見たので、ダイジェスト感がそれなりにあったが、脚本が物語のセリフの多くを作り直していることに感心した。原作のプロットを追いながら、セリフの9割ぐらいはオリジナルではないか。主人公テレーズ(ルーニー・マーラ)が目指している仕事も違い、原作では舞台美術家だが、映画では写真家だ。このほか、原作にはないエピソードや描写を織り交ぜていながら、映画は原作通りという印象を与える。フィリス・ナジーの脚本は本筋を誤っていない。

 結論から言うと、同じトッド・ヘインズ監督で同じく50年代を描き、同性愛がモチーフの一つにあった「エデンより彼方に」(2002年、ジュリアン・ムーアがアカデミー主演女優賞を受賞した)ほどの充実度はない。しかし50年代を再現した美術とファッション(衣装デザインは「エデン…」と同じサンディ・パウエル)、主演2人の的確な演技によって見応えのある映画になっている。

 原作はハイスミスがデビュー作「見知らぬ乗客」の次、1952年に出版した第2作。同性愛を扱ったためにクレア・モーデン名義で出版されたが、1年後に出たペーパーバック版は100万部のベストセラーとなったそうだ。デビュー2作目とは思えないほどうまい小説で、描写の隅々や登場人物の造型、ハイスミスらしいサスペンスでぐいぐい読ませる。何より女性同士の恋愛を普通のラブストーリーとして描いたのが当時としては画期的だったのだろう。ハイスミスの名前で出版するにはそれから40年ほどかかった。

 映画は原作よりもLGBTへの偏見の問題を前面に出している。テレーズはマンハッタンの高級百貨店フランケンバーグのおもちゃ売り場でアルバイトをしている。クリスマス間近のある日、毛皮のコートを優雅にまとった美しい女性(ケイト・ブランシェット)がやってくる。その女性、キャロル・エアードは4歳の娘リンディへのプレゼントを買いに来た。この出会いの場面はハイスミスが原作を書くきっかけになった実体験に基づいており、テレーズがキャロルの美しさに目を留め、そして視線が合う描写が印象的だ。この描写はラストシーンにつながっている。テレーズはキャロルが売り場に忘れた手袋をクリスマスカードとともに郵送する。数日後、キャロルが電話をかけてきて、テレーズを昼食に誘う。そこから2人の交流が始まる。キャロルは郊外の屋敷に住んでいるが、夫のハージ(カイル・チャンドラー)とはリンディの親権を巡って離婚協議を進めていた。

 離婚理由の一つはキャロルの同性愛にあり、キャロルは幼なじみのアビー(サラ・ポールソン)と過去にそういう関係にあったことが示唆される。社会全体が同性愛を異常なものとしてとらえていた保守的な時代、離婚調停でも道徳的規範が持ち出され、親権の行方はキャロルに不利な状況にある。キャロルはテレーズを誘って、西部への旅行に出かける。

 キャロルとハージの言い争いや離婚協議での口論は原作にはない。いや、同じ場面はあるが、映画の方がどちらの場面も激しく、LGBTの問題を浮き彫りにしている。それが60年以上前の原作を映画化する意味でもあるのだろう。1950年代より随分ましとはいえ、偏見はなくなっていないのだ。ゲイを公言しているヘインズと恐らく同性愛者のフィリス・ナジーはここに自身の主張を込めたのだろう。

 ルーニー・マーラは相変わらず良い。マーラから美貌のひとかけらか、ふたかけらを取りのぞき、憂いの表情を葬り去ると、オードリー・ヘップバーンになる感じだ。「なんてきれいなの」とキャロルが感嘆するシーンがあるけれども、その通りだった。

 旅行の途中、ウォータールーを訪れたキャロルが「ひどい名前ね」と言う場面がある。原作によると、ウォータールーには「挫折、失敗の意味がある」のだそうだ。

2016/04/27(水)「レヴェナント 蘇えりし者」

「レヴェナント」パンフレット

 19世紀のアメリカ西部を舞台にした復讐劇。と言うよりは熊に襲われて瀕死の重傷を負い、厳寒の荒野に置き去りにされた主人公の過酷な自然の中でのサバイバル劇がメインになる。リチャード・ハリス主演、リチャード・C・サラフィアン監督の「荒野に生きる」(1971年)を彷彿させる内容だと思ったら、同じ実話を基にしていた。つまりリメイクだが、元の映画がそれほど知られていないためか、リメイクをアピールしてはいない。原案としてクレジットされているのは2002年に出版されたマイケル・パンクの小説(レヴェナント 蘇えりし者 =ハヤカワ文庫NV)なので製作者にリメイクの意識もなかったのだろう。同じ話とはいっても冒頭の先住民襲撃の場面から映像の迫力がただ事ではなく、「荒野に生きる」をはるかに凌駕した出来栄えである。

 1823年、毛皮ハンターの一団のガイド役として主人公のヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)は息子のホーク(フォレスト・グッドラック)とともにミズーリ川沿いの荒野にいた。そこにさらわれた娘を捜す先住民のアリカラ族が襲撃してくる。飛び交う矢と銃撃で多くの男たちが倒れるが、グラスたち10人ほどが船で辛くも川に逃れる。このまま川を下るのは危険と判断したグラスの提案で一団は山沿いの道を選択。しかし、見張りに出たグラスは巨大な熊に襲われる。喉を食い破られ、体中に深い傷を負ったグラスの命が長くないとして隊長のヘンリー(ドーナル・グリーソン)はグラスの死を見届け、埋葬するよう命じた。ホークと友人のブリジャー(ウィル・ポールター)、金目当てのジョン・フィッツジェラルド(トム・ハーディ)がそれに応じ、荒野に残った。グラスの生命力は予想以上で、業を煮やしたフィッツジェラルドはグラスを殺そうとする。それを止めたホークをフィッツジェラルドはグラスの目の前で刺し殺し、グラスを穴の中に埋めてブリジャーとともに逃げ出す。

 グラスは穴から這い出し、フィッツジェラルドへの復讐を誓う。生きるためにヘラジカの骨をすすり、草の根をかじり、生魚にかぶりつく。傷を消毒するために銃の火薬で喉を焼く。強い復讐心が生きる原動力になったのは想像に難くない。

 残虐なシーンは多いが、映画は格調高い。それを支えるのがエマニュエル・ルベツキの撮影で、雄大な自然と人間の格闘をリアルなタッチで切り取っている。3年連続のアカデミー撮影賞受賞も当然と思える素晴らしさだ。坂本龍一もシーンに的確で印象的なスコアを提供し、格調を高めている。坂本龍一にはもっと映画音楽を担当してほしい。

 巨大な熊の凶暴さはそこら辺のホラーを蹴散らす怖さ。CGであるにしても、この迫力は大したものだ。監督のアレハンドロ・G・イニャリトゥはほとんど息抜きのない緊張感あふれる映画に仕上げている。「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」に続く2年連続のアカデミー監督賞も納得できる。

 死地から帰還した男の復讐と言えば、冒険小説では定番の設定で、そういう話が好きな人には必見の映画と言える。