2005/09/23(金)「チャーリーとチョコレート工場」

 「チャーリーとチョコレート工場」パンフレットロアルド・ダール原作の童話「チョコレート工場の秘密」をティム・バートン監督が映画化。前作の「ビッグ・フィッシュ」に続いて、家族愛を歌い上げるファンタジーである。3連休の初日のためか劇場は満員。200席ほどの映画館だが、左端の上から2番目と1番目の並びの席に家族5人で座る。上の方は冷房の利きが悪く、暑かった。睡眠不足のためもあって、途中でウトウト。映画がつまらなかったわけではないが、同じ家族愛ならば、「シンデレラマン」の後では少し分が悪いのは確かだ。いつものように快調なダニー・エルフマンの音楽とジョニー・デップの演技を楽しんだけれど、話自体にちょっと物足りない思いも残った。

 映画のタッチはバートンらしいブラックな趣味にあふれている。主人公のチャーリー・バケット(「ネバーランド」のフレディ・ハイモア)は斜めに傾いた家に両親とその両方の祖父母の計7人で住む。食事はいつもキャベツのスープ。4人の祖父母は1つのベッドに寝たきり。父親は歯磨きの工場でキャップを閉める仕事をしている。貧しい暮らしだが、チャーリーは家族が大好きだ。街にはウィリー・ウォンカ(ジョニー・デップ)というチョコレート作りの天才が建てた大きな工場がある。チャーリー自身がチョコを口にするのは年に1回、誕生日の時だけである。ウォンカのチョコレートは世界中に出荷され、人気を集めている。工場はスパイを防ぐため、15年前に従業員をやめさせたが、なぜか今も生産は続いており、工場の中がどうなっているのか、人々は興味津々。ある日、ウォンカが子ども5人を工場に招待すると発表する。その招待券はチョコに入った黄金のチケット。チャーリーが誕生日にもらったチョコには黄金のチケットはなかった。祖父のなけなしのへそくりで買ったチョコにもチケットはなかったが、チャーリーは道ばたで拾った10ドル札で買ったチョコでチケットを手に入れる。

 家族思いのチャーリーは、500ドルで買いたいという人がいるので家の暮らしのためにもチケットを売る、という(これは原作にはない)。それに対する祖父のセリフがいい。「お金は印刷されてたくさん出回っている。そのチケットは5枚しかない。それをお金に換えるほどお前はトンマか」。チョコレート工場に招待された5人の子どものうち、チャーリーを除く4人はいずれもいけ好かないガキ。高慢ちきな少女であったり、わがまま娘だったり、ガツガツしたデブの少年だったり、知能は高いが人をバカにしたような少年であったりする。その4人は予想通りの仕打ちを受けることになる。

 工場内部の描写がおかしくていい。チョコを作っている多数のウンパ・ルンパ族やリスたちの場面には大笑い。特にリス。リスたちはクルミの選別を手伝っており、中身のないクルミは捨てている。リスを捕まえようとした少女の頭をコンコンとたたいて、哀れ、少女は不良品と判断されてしまうのだ。こういうキャラクター、どこかで見たなあと思うのだが、なかなか思い出せないのがもどかしい。アメリカのアニメに時々出てくるようなギャグではある。

 ブラックな味わいはあっても、最終的には心温まる話に着地する。それがバートンらしくないというのはもう間違いで、バートンの興味はそういう部分に移ってきているのだろう。気になったのはチャーリーが拾ったお金でチケットを手に入れること。これは何か後を引くのではないかと思ったが、そういう部分はなかった。子どもは「『マダガスカル』の方が面白かった」との感想。そんなはずはないんだがなあ。字幕を読むのに精いっぱいだったのか。

2005/09/22(木)「シンデレラマン」

 「シンデレラマン」パンフレット同じくラッセル・クロウ主演の「ビューティフル・マインド」(2001年)を見た時に、ロン・ハワードはかつてのハリウッド映画の美点をとても大切にしていると感じたが、この映画でもその印象は変わらない。家族の生活のために再起するボクサーの姿を真摯に描き、伝統的なハリウッド映画のど真ん中に位置する作品だと思う。ミステリ的な仕掛けのあった「ビューティフル・マインド」よりも話がストレートなので、主人公への感情移入もしやすい。脚本と撮影と演出と俳優たちの演技のレベルが高く、どれにも文句を付けようがない。微妙にケチを付けるとすれば、作品が正直で優等生すぎるところだろうが、ハワードは元々そういう作品を目指しているのだから意味がないだろう。娯楽映画の王道と言える物語と手法で映画を作り、期待を裏切らない作品に仕上げたハワードの手腕には感心せざるを得ない。

 主人公は1930年代に奇跡のカムバックを果たした実在のボクサー、ジェームズ・J・ブラドック。映画は1928年、絶頂期のブラドックの裕福な生活を描いた後、シーンをそのままオーバーラップして1933年、薄汚いアパートで貧困にあえぐブラドック一家の姿を映し出す。右手の甲を骨折したブラドックは試合でも勝てないが、けがを癒やす暇もなく、金を稼ぐために戦い続けねばならない。昼間は日雇いの過酷な仕事をするが、大恐慌の時代、仕事にありつけないこともしばしばだ。しかも、不甲斐ない試合を見たプロモーターの怒りを買い、ブラドックはライセンスを剥奪されてしまう。アパートの電気は止められ、子どもは病気になる。ブラドックは緊急救済局で金をもらうが、それでも足りず、ボクシング委員会へ行って、援助を求めることになる。そんなブラドックに大きな試合のチャンスが訪れる。かつてのマネージャー、ジョー(ポール・ジアマッティ)が世界ランク2位の選手との試合の話を持ってきたのだ。報酬は250ドル。ブラドックはマジソン・スクエア・ガーデンに別れを告げるつもりで試合に臨む。

 記者に何のために戦うのかと聞かれてブラドックは「ミルク」と答える。大恐慌で財産をなくしたブラドックは妻のメイ(レニー・ゼルウィガー)と3人の子どものために、金を得るために戦う。何よりも主人公は全力で貧しさと闘っているのだ。前半の貧しさの描写は「たそがれ清兵衛」にはかなわないのだけれど、ミルクに水を入れて薄めたり、電気を止められて暖房のない部屋で子どもが病気になったり、肉屋のソーセージを盗んだ子どもに対して「絶対におまえをよそにはやらない」と約束するシーンなどにホロリとさせられてしまう。細部の描写が大変優れた映画で、それが全体のレベルを底上げしている。予告編を見れば、映画の大まかなストーリーは分かってしまうのだが、それでもなお、観客に感動を与える映画になっているのはそうした描写のうまさがあるからだろう。

 ハワードには大恐慌の時代を描く狙いもあったようで、セントラルパークにフーバー・ヴィルと呼ばれる村ができ、暴動が起きる場面なども描かれる(「イン・アメリカ 三つの小さな願いごと」でやはり貧しさと闘ったパディ・コンシダインが労働組合の結成を目指す労働者の役で登場する)。時代の描き方は同じく大恐慌を背景にした昨年の「シービスケット」よりもうまい。時代と物語が密接な関係にあるのである。

 ラッセル・クロウはボクサーらしい精悍な体を作って、理想的な父親役を好演している。ゼルウィガーも相変わらずいいが、もっと目を惹くのはポール・ジアマッティ。一見、裕福なマネージャーが実は、という場面などで奥行きの深いキャラクターを作っている。パンフレットによると、主要キャスト、スタッフの中でオスカーを手にしていないのはジアマッティだけだそうで、クロウはジアマッティの「オスカー受賞キャンペーンに集中したい」と語っている。助演男優賞へのノミネートは堅いのではないか。

2005/09/18(日)「サマータイムマシン・ブルース」

 「サマータイムマシン・ブルース」パンフレット「踊る大捜査線」の本広克行監督のタイムマシンを巡るスラップスティック。元は京都の劇団ヨーロッパ企画の舞台で、劇団の脚本家・上田誠が映画の脚本も手がけている。セリフが多いのはいかにも舞台劇らしい。内容はタイトル通りの時間テーマSFで、大学のSF研が壊れたエアコンのリモコンを元に戻そうと、昨日と今日を行ったり来たりする(タイムトラベル18回だそうだ)。それに25年後の未来から来た大学生が絡んでくる。時間テーマSFの常でタイムマシンが登場するまでがほとんど伏線になっている。話はよく考えてあるが、アイデアとしては初歩的。つじつま合わせに終わった観があり、センス・オブ・ワンダーは感じられない。その代わり、瑛太や上野樹里など大学生たちのドタバタぶりはおかしくて好感が持てる。もちろん、映画もそこを狙ったのだろう。ワンアイデアの小品として面白い。

 夏休みの暑い日、ある大学のSF研究会の部室が舞台。映画は最初の1日をスケッチする15分ほどが伏線のための描写である。部室の古いエアコンのリモコンがコーラをこぼしたために壊れてしまう。暑さにうだる部員たちの前に翌日、マッシュルームカットの男が現れる。男が去った後、部室の中に不思議な機械があるのが分かる。それはタイムマシンだった。部員たちはどの時代へ行こうかと盛り上がるが、マシンのダイヤルは最大99年前。あまり遠い過去に行くのも危険なので、部員たちはエアコンのリモコンを昨日から持ってこようと計画する。このあたり、微妙にリアリティがある。3人が過去へ行くが、その間に相対性理論を研究している大学助手が「過去を変えると、現在が消える」とパラドックスを説明する。慌てた部員たちは昨日へ行った部員の行動を止めようと、タイムマシンに乗り込む。そこから次から次へと騒動が巻き起こる。

 SF研なのにSFの意味も知らず、部員たちは野球に興じている。ただただ遊びが目的のクラブというのがいかにもありそうな設定。部員を演じるのは瑛太のほか与座嘉秋、小泉俊介、ムロツヨシにヨーロッパ企画の永野宗典、マッシュルームカットの男に同企画の本多力。部室の奥には部員が激減したカメラクラブの暗室があり、上野樹里と真木よう子がいる。上野樹里は「スウィングガールズ」と違って、素の溌剌とした部分はないが、好演している。

 本広克行はキネ旬の特集で「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」の要素を入れたと語っている。大学の校舎の雰囲気が友引高校に似ているほか、所々に顔を出す神様役・升毅は夢邪鬼に重ね合わせているとのこと。街の名画座に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のポスターがあるのは当然としても、恐怖映画のカルト「マタンゴ」のポスターがSF研の部室にあるのにはにんまり。本広克行も影響を受けているのだろう。この映画、映画と演劇をコラボレーションする「プレイ・バイ・ムービー」の第1弾。10本作る予定だそうで、なかなか楽しみな企画だと思う。

2005/09/17(土)「タッチ」

 「タッチ」パンフレットより夏の甲子園西東京予選決勝のラジオ中継を聞いていた浅倉南(長澤まさみ)は、上杉達也(斉藤祥太)が肩を痛めたのを知り、球場へ向かって必死に走り始める。そこへ絶妙のタイミングであのアニメ版「タッチ」の主題歌がかぶさってくる(歌うのは岩崎良美ではなくユンナ)。あだち充の原作もアニメも有名なので映画はそれに敬意を表したのか。映画は原作、アニメのイメージを大切にしつつ、見事に青春映画、野球映画として、長い原作を1時間56分にまとめ上げた。物語の骨格だけを取り出すのではなく、原作の重要なエピソードを盛り込んで、ダイジェストに感じさせないこの脚本(山室有紀子)は立派。監督の犬童一心は今回、長澤まさみ主演のアイドル映画に徹したという。そのためか、長澤まさみ、いつも以上に大変さわやかに美しく撮られている。それだけでなく、実際に双子で野球経験もあるという斉藤祥太・慶太の好演が相まって、きちんとしたテーマを持った物語として収斂していくのがいい。聖なる三角関係にある主演3人の繊細な心の動きを丹念に積み重ねた気持ちの良い映画だと思う。

 明星高校野球部のエースで成績優秀の弟和也に対して、兄の達也はいろんなことに手を出しても長続きしない。2人の幼なじみで隣に住む南は野球部のマネジャーをしているが、実は達也の方により好意を持っている。達也は野球の才能はあるのに、和也に遠慮して野球部には入らなかった。その2人の真意を和也も分かっているという設定がこの物語の基本。南を甲子園に連れて行った方が南を取るという約束を兄弟は交わしていたが、そこで和也が交通事故死してしまう。残された2人は和也の思いと和也への思いを背負うことになる。骨格を取り出せば、これは監督の言うように「重い話」である。原作はこの基本設定を根底に置きつつ、ユーモアを入れた展開だった。あだち充は男だからもちろん、達也の心情により詳しいのだが、心情を吐露するような野暮な場面はなく、描写で心情を語っていたと思う(軟弱な物語を僕は嫌いだが、「タッチ」に惹かれたのはこうした手法がハードボイルドに通じるものがあるからだ)。映画もそれを継承しており、少なくとも達也が自分の心情をぶちまけるようなシーンはない。原作を大事にしているというのはこういう部分にある。監督はアイドル映画と言いつつ、しっかり演出しているのである。だからこそ「タッチ」は記憶にとどめるべき映画になったと僕は思う。

 長澤まさみは「ロボコン」「世界の中心で、愛をさけぶ」と年に1本ずつ映画に主演しているが、今回がもっとも充実感があった。演技的にステップアップし、原作の南以上にキャラクターに陰影を持たせているのだ。達也と和也が高架下でキャッチボールしながら南への思いを話すシーンで、2人の会話に気づいた南が隠れて複雑な表情を見せるところとか、ただのきれいなだけの女優ではないことを証明している。ものすごい褒め言葉を書いておけば、米ピープル誌の「世界で最も美しい50人」に長澤まさみが選ばれないのは単にピープルの編集者が長澤まさみを知らないからにすぎないだろう。

 達也の友人原田役のRIKIYA、キャッチャーの孝太郎役の平塚真介、ライバル須見工の新田役福士誠治、脇を固める小日向文世、風吹ジュン、宅間伸、本田博太郎たちが総じて良い。特にRIKIYAは原作通りのイメージだと思う。

2005/09/10(土)「NANA」

 「NANA」パンフレット中島美嘉の歌のファンなので、どういう演技をするかに興味があった。予告編ではまさにぴったりという感じだったが、本編を見てもその通り。不幸な生い立ちながら歌手を目指して強く生きようとする大崎ナナの役柄に違和感がない。演技の訓練は受けていないだろうから、セリフ回しの硬さや演技に幅がない点が目に付くのだけれど、独特の雰囲気を持っていて面白いと思う。女優を目指すかどうかは知らないが、しっかりした監督の映画に出れば、将来性はありと見た。

 もう一人のナナ、小松奈々を演じる宮崎あおいはさすがにうまい。周囲を疲れさせるほど明るく脳天気な役柄をこれが本質かと思わせるほど自然に演じている。宮崎あおいのナレーションで映画は進むけれど、パンフレットの写真の大きさや物語の比重を見ると、主人公は中島美嘉の方と言っていいだろう。しかし、宮崎あおいは映画の支柱となっている観がある。中島美嘉や恋人役の平岡祐太の演技の硬さを補っているのである。監督の大谷健太郎はベテラン俳優をあまり使わず、若い俳優たちだけで固めてそれぞれの魅力を引き出している。物語自体に新しい部分はあまりないが、映画の感覚は若くて新しいと思う。よくまとまった佳作。

 矢沢あいの原作は読んだことがない。現在13巻まで出ていてまだ完結していないそうだ。だから映画の物語をどう終わらせるかは難しいのだが、脚本(浅野妙子、大谷健太郎)は2人のナナの恋の行方をメインに描いてうまい終わらせ方をしていると思う。映画はパンクバンドのボーカルである大崎ナナ(中島美嘉)とバンドのベースで恋人のレン(松田龍平)との思わせぶりな関係を描いた後、2年後に舞台を移す。ナナは北海道から東京へ向かう列車の中で、小松奈々(宮崎あおい)と隣り合わせの席になる。同じナナという名前であることもあって2人は意気投合。ナナは歌で自立するために、奈々は美大生の恋人・章司(平岡祐太)を追って東京へ行くところだった。東京に着いた2人は部屋探しをしている時に再会し、一緒の部屋にすむことになる。奈々は犬みたいに甘えん坊であるためナナからハチと名付けられる。ここから映画はナナのバンド仲間再結集と今は違う人気バンド・トラネスにいるレンとの関係、同じ美大生の幸子(サエコ)を好きになった章司とハチの危うい関係を描いていく。

 好対照の2人の女の子を描くのは誰もが指摘するように昨年の「下妻物語」を思わせるけれど、下妻が笑いのパワーで弾けていたのに対し、こちらはちょっと深刻な部分がある。その重さを吹き飛ばすようにナナは歌に没頭する。と言いたいところだが、「MY MEDICINE」で幕を開け、中盤とエンドクレジットに「GLAMOROUS SKY」が流れるだけで、中島美嘉が本領を発揮する歌の場面が少ないのがちょっと不満なところか。中島美嘉はロックもバラードも歌えるので、また映画に出るのなら、バラードも披露してほしい(3枚目のアルバム「MUSIC」に収録されている「Fed Up」のような曲を熱唱してほしいところ)。やりきれない、うんざりするような日常を歌で吹き飛ばすような映画が合っていると思う。

 松田龍平はちょっと演技が重すぎる感じがある。トラネスのボーカルReiraを演じる伊藤由奈の「ENDLESS STORY」は良かった。