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2007年05月27日の記事

2007/05/27(日)「パッチギ! LOVE & PEACE」

 「パッチギ! LOVE & PEACE」パンレット大感動して帰ってきて、ネットの他の感想を見ると、毀誉褒貶が明確に分かれている。「反日映画」と決めつけた偏狭かつ、もの知らず的な見方の幼稚な感想は論外としても、ヒステリックな非難の要因は主義主張のはっきりした映画を見た経験が少ないためとしか思えない。映画は「パッチギ!」(2005年)の続編だが、キャストも違うし、前作とのつながりはほとんどなく、独立した作品である。

 描かれるのは東京に出てきたアンソン一家の出来事を中心にした在日への差別と権力への異議申し立て。アンソンは筋ジストロフィーであることが分かった子供の治療費を捻出するために奔走し、妹のキョンジャはスカウトされて芸能界に入る。在日への差別が厳しいのはこのキョンジャのパートで、キョンジャはタレントとして売り出すために在日であることを隠して活動せざるを得ない。差別を根本的に描くには、朝鮮人が日本に連れてこられた過去、つまり戦争中の描写に踏み込まざるを得ず、キョンジャが出演した特攻隊映画「太平洋のサムライ」と徴兵から逃げたキョンジャの父親の戦争中の描写が対照的に描かれていくことになる。嘘っぱちの「君のために死ぬ」などという「太平洋のサムライ」のセリフが白々しく感じられるの言うまでもない。この映画が優れているのはこうしたテーマに真摯に向き合っていると同時にエンタテインメントにくるんで仕上げていることで、最初と最後にある乱闘シーンは実に気持ちよく、陰湿な差別意識を吹き飛ばす爽快感にあふれている。加えて、このシーン、前作同様に殴り合わなければ本当の理解は進まないという端的な主張を表してもいるのだ。

 僕は前作よりも面白かった。というよりも井筒和幸のベストではないかと思う。こうした普通の主義主張を言うのに今の日本は困難な時代になっている。でなければ、ヒステリックな非難など出てくるはずがない。反権力・反権威に貫かれた映画なので、権力に追従することに気持ちよさを覚える人、権威にただひれ伏す人には不快なのだろう。当然のことながら、差別主義者と権威主義者がイコールなのはよく知られた事実なのである。

 1974年から1975年にかけての東京・枝川が舞台。叔父の経営するサンダル屋で働いているアンソン(井坂俊哉)は妻を白血病で亡くし、息子のチャンス(今井悠貴)は筋ジストロフィーであることが分かる。妹のキョンジャ(中村ゆり)は焼き肉屋で働いていたが、あるプロダクションの男にスカウトされ、芸能界に入ることになる。オモニ(キムラ緑子)や叔父さん(風間杜夫)、その妻(手塚理美)、地区の長老(米倉斉加年)、朝鮮将棋のおじさん(村田雄浩)らのキャストの充実ぶりが大したもので、これは下町の人情劇としても機能しているのが素晴らしい。監督の言う「あの時代をこうやって懸命に生きてきた家族がいたんだよということを描こうと」したという言葉が本音であるかどうかはともかく、描写の具体性は人情劇としても十分通用するのである。この地区に転がり込んできた国鉄職員の佐藤(藤井隆)もまた、小さいころに母親に捨てられた過去を持ち、人情劇の側面を補強している。同時に映画にはそうした人々が不当な差別にさらされた怒りと鬱屈を描いていもいる。クライマックス、キョンジャが映画館の観客の前で自分の出自を明らかにするシーンはそうした不当な差別への異議申し立てを表していると同時に間違った社会への抗議にほかならない。

 井筒和幸は映画の端々に小さな批判と怒りを込めている。筋ジストロフィーをドラマの設定に描くことには難病ものと似たり寄ったりではないかという疑問も感じるのだけれど、瑕疵だろう。思えば、キョンジャが「必ず生きて帰ってきてください」という映画のセリフの変更に反発するシーンは黒木和雄「紙屋悦子の青春」にそのまま通じるシーンなのである。チャラチャラした作品の多い日本映画の中で、芯の揺るがない作品に出会うこと自体が珍しく、それだけでも貴重な作品と思える。在日うんぬんの前に権力への盲目的な追従を批判した映画であり、右傾化した現在の日本への警鐘鳴らす作品でもある。井筒和幸の主張は極めて真っ当なもので、この痛快で正直な作品がヒットしない現状には疑問を感じざるを得ない。反発精神、反骨精神にあふれた映画である。

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