2008/02/17(日)「アメリカン・ギャングスター」

「アメリカン・ギャングスター」パンフレット

 「知らないのか。ニュージャージーの警官は狂ってる。悪党を逮捕するんだ」

 あるいは、

 「それなら列に並べ。俺を殺したいと思っているやつは大勢いる」

 というセリフにうれしくなってしまう。ニュージャージーの刑事リッチー・ロバーツ(ラッセル・クロウ)はこうしたワイズ・クラックを吐きながら、ニューヨークのハーレムを牛耳る麻薬組織のボス、フランク・ルーカス(デンゼル・ワシントン)を追い詰めていく。前者はニューヨークの悪徳警官に対して、後者はルーカスに対して吐くセリフ。こういう気の利いたセリフがハリウッド映画には必要なのである。

 リドリー・スコットの映画としてはもう「ブレードランナー」に肩を並べる大傑作。と、ルーカス逮捕の場面までは思ったが、その後の展開が個人的には少し邪魔に感じた。実話を基にした映画なので仕方がないのだが、軟弱な私生活の底に強い正義感を持つ刑事がああいうことになってしまってはちょっと幻滅なのである。まあ、2時間37分の映画なので、終盤の10分ぐらいには目をつぶってもかまわない。それであっても傑作であることに変わりはない。これは70年代の刑事アクション、特に「フレンチ・コネクション」をイヤでも思い出させる映画であり、そういうジャンルの好きな映画ファンにはたまらない作品である。

 例えば、飛行機を徹底的に捜索する場面は「フレンチ・コネクション」でジーン・ハックマンとロイ・シャイダーが押収した自動車を徹底的に分解するシーンと呼応するし、麻薬王の不敵な在り方などもまたシャルニエ(フェルナンド・レイ)を思い起こさせる。クロウが教会から出てくるワシントンを待つ場面も「フレンチ・コネクション」にそっくりの場面があった。ついでに言えば、100万ドルを拾っても署に届けてしまうクロウの正義感は「セルピコ」を思い出さずにはいられない。映画の時代背景が1960年代末から70年代中盤なのもよく、ベトナム戦争の激化と終結がドラマの中で重要な役割を果たしている。

 刑事とギャングの歩みを交互に描き、マジソン・スクウェア・ガーデンでのモハメド・アリの試合で交錯させ、後半の追い詰める展開に至る。スティーブン・ザイリアンの脚本は多数の登場人物に明確なキャラクターを与えた見事な出来である。それをスコットが的確な演出でくっきりと描き分け、緊密な映画に仕上がっている。いつものスコット映画ならば、ストーリーよりも映像の方が印象に残るのだけれど、これは物語の面白さで見せきられた感じ。悪を追い詰める刑事のドラマティックな高揚感が特に後半にはあふれている。まるで「ゴッドファーザー」のように家庭的なギャングのワシントンよりも、腐敗しきった警察の中で信念を貫くクロウのキャラクターに僕はしびれた。クロウにとっては出世作となった「L.A.コンフィデンシャル」以来の好演だと思う。

 「アメリカン・ギャングスター」というタイトルではあっても、刑事ドラマと見ても一向に構わないし、マーティン・スコセッシが描くギャング映画とは本質的に異なる映画なのである。リドリー・スコットは70歳だが、まだまだ製作意欲は旺盛なようで、次の作品も楽しみに待ちたい。

2008/02/11(月)「チーム・バチスタの栄光」

 海堂尊の原作を「アヒルと鴨のコインロッカー」の中村義洋監督が映画化。といっても僕は「アヒル…」を見ていない。話はきちんとまとまっているが、それだけに終わっていて、何とも映画らしいところがない映画である。撮影なり、編集なり、キャラクターの描き込みに映画ならではの部分が欲しくなる。下手すると、テレビの2時間ドラマでもいいような感じの作品にしかなっていないのだ。中村義洋監督はもう少し描写に心を砕いた方がいい。

 拡張心筋症の難しい手術(バチスタ手術)に何例も成功している大学病院の医療チームが3回続けて失敗し、患者を死なせてしまう。院長から調査を命じられた心療内科医師の田口公子(竹内結子)が聞き取り調査を始めるが、そこへ厚生労働省のキャリア白鳥圭輔(阿部寛)が乗り込んできて破天荒な捜査を始める。

 長男と家内は原作を読んでおり、「原作の方が面白かったね」という感想。そうだろうなあ。だいたい、映画ではなぜ竹内結子が調査を命じられるのかに(銀婚式記念で海外旅行に行く教授の替わりというのは)説得力を欠いている。竹内結子と阿部寛はともに頑張っていて、悪くはなかった。原作とはイメージが違うようだが、阿部寛はぴったりの役柄のように思える。

 バチスタ手術は弱った心臓の一部を切り取って縫い合わせることで心臓が縮みやすくなり、症状が改善するという仕組み。心臓移植の代替という位置づけらしい。いったん動きを止めた心臓がなぜ再び動き始めるのか映画だけでは良く分からなかった。

 映画の帰りにフォルクスワーゲン宮崎に寄って契約。ETC(ノンストップ自動料金収受システム)も付けてくれるそうだ。これは自分で付けようかと考えていたのでラッキー。損保ジャパンの任意保険も取り扱っていて、切り替えをやってくれるというので頼む。後は納車がいつになるか。注文してみないと分からないそうで、早くなる可能性もあるとのこと。

(mixi)

2008/01/26(土)「魍魎の匣」

 京極夏彦の原作は10年以上前に読んだ。「このミス」1996年版の4位に入っている。初めて読んだ京極堂シリーズで、これはSFだと思った。これが面白かったのでシリーズにはまり、その後の作品をすべて読むことになったのだった。実相寺昭雄の「姑獲鳥の夏」にはいろいろと不満もあったが、そのキャストの関口役だけを永瀬正敏から椎名桔平に変えてのシリーズ第2作である。

 原作の解体の仕方は面白いと思う。パンフレットの監督インタビューを少し読んだら、原田真人監督は「パルプ・フィクション」のように人物ごとにエピソードを組み立て直したかったのだそうだ。だから太平洋戦争時の榎木津と久保のエピソードを描く冒頭(これは原作にはない)から始まって、時間軸を10時間前とか3時間前とか7日後とかに行きつ戻りつしながら話が語られていく。同時に細かいカットの積み重ねで非常に映像に躍動感がある。「ボーン・アルティメイタム」の時にも思ったのだけれど、こういう細かいカット割りは映画に必要なものだと思う。

 1秒に満たないカットをポンポンポンとつなげていくのは心地よく、その技術には非常に感心した。もうつまらない映像をだらしなく流し続けるよくある映画に比べれば、随分ましである。ただし、こうしたカット割りと時間軸の動かし方の工夫が映画全体のストーリーテリングのうまさにつながっているかと言えば、そうはなっていないのが惜しいところだ。端的に言えば、失敗作に近い印象。これ、原作を読んでいない人にはストーリーが理解しにくいのではないか。

 椎名桔平の関口はかっこよすぎる。原作ではもっと凡人でぼーっとした印象。だから榎木津から「おお、猿がいた」などと言われるのだ。京極堂は逆にコミカルな面がありすぎ。堤真一は「三丁目の夕日」を引きずっている。コミカルさがあると、どうもクライマックスの憑物落としの場面がしまらなくなる。まあ、それ以上に黒木瞳がダメダメで、もっと清楚な美人女優はいないのかね。

 中国ロケの部分はとても昭和27年の東京には見えず、中国にしか見えないが、こうした無国籍なタッチは悪くない。悪くはないが、同時に時代色も希薄になってしまったのは残念。原田真人はどこまでも映画ファンの部分を引きずったところがあるように思える。個々の技術は良いのに、その組み立て方は凡庸で、これが足し算の効果は出ても、決してかけ算にはならない映画が出来上がる要因なのではないか。

2008/01/20(日)「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」

 スウィーニー・トッドってどこかで聞いたような名前だよなと思いつつ調べもせずに見に行った。予告編では妻子を奪われ、冤罪を着せられた男の復讐の話としか思えなかったが、これは殺人鬼を主人公にしたダークミュージカルだった。だからこの殺人鬼の部分が出てくる後半に驚いた。殺人鬼プラス人肉食の話で、トニー賞8部門受賞のミュージカルを基にしている。血と惨劇に悲劇を絡めてあり、こういう映画を作品賞に選ぶゴールデングローブはえらいと思う。

 復讐の話としか思っていなかった前半は、はっきり言って退屈だったが、後半の展開に感心。首筋をカミソリで切るシーンのオンパレードでR15指定も納得できる。ティム・バートンは19世紀のロンドンの街並みをいつものようにダークさを漂わせて構成しており、そこがただのスプラッター映画とは違うところ。芸術性があるのだ。ミュージカルの部分にはあまり感心するところはなかったけれど、安っぽくない作りがいい。

 主人公のジョニー・デップは言うに及ばず、ヘレナ・ボナム=カーターも好演(怪演?)。バートンは「猿の惑星」とか撮っていたころはもう終わりかなと思えたが、カーターとの出会いで完全復活した感じがする(近々ようやく結婚するそうだ)。よほど相性がいいのだろう。

 スウィーニー・トッドは殺人博物館によれば、元々は小説だが、都市伝説として実際にあった話のように伝えられてきたとのこと(http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/murder/text2/todd.html)。これまでに何度も映画化・テレビドラマ化されている。1998年にはジョン・シュレシンジャー監督、ベン・キングスレー主演でテレビ「スウィーニー・トッド」(The Tale of Sweeney Todd)になっている。この2人のコンビなら見てみたい気がするが、IMDBでの評価は6.2と低い。

2008/01/10(木)「幸せのちから」

 ホームレスになりながらも努力して億万長者になったクリス・ガードナーの半生を描く。主演のウィル・スミスはアカデミー主演男優賞にノミネートされた。IMDBの評価は7.7と高いが、日本では主人公のキャラクターについて行けないという意見もあり、賛否半ばと言ったところか。僕はそれなりに面白く見た。

 クリスは骨密度測定器のセールスマン。この機械を大量に買い込み、売らないと食べていけないのだが、高価な機械のためなかなか売れない。妻は工場で働いて家計を支えているが、家賃は何カ月も滞納している。クリスはある日、証券会社の養成コースの受講を決意。しかし、展望のない生活に嫌気が差して妻は家を出て行く。養成コースは6カ月間の見習い期間中は無給。20人の受講者のうち採用されるのは1人だけだった。クリスは息子のクリストファーとともに奮闘するが、アパートを追い出されてしまう。

 主人公がどうのこうのというよりも、アメリカの社会システムのひどさにうんざりする。6カ月間無給の制度や政府が勝手に口座から税金の滞納分を引き落とすなどというのは搾取の構造が出来上がっているとしか思えない。教会に一夜の宿を求めてホームレスたちの長い列ができる場面はそんなアメリカの社会保障の不完全さを象徴している。「シッコ」でマイケル・ムーアも描いていたけれど、ひどい社会だと思う。アメリカンドリームというのはそんなひどい社会を覆い隠すためのまやかしみたいなものだろう。実際にアメリカンドリームを実現できるのはほんの一握りなのだ。

 この映画を見たアメリカ人は「自分も頑張れば、成功できるかも」と夢を描くのかもしれない。現実には働いても働いても豊かにはならないのだろう。この映画でもクリス以外の19人は6カ月間ただ働きさせられただけということになる。

 見ていて身につまされるのは前半の落ちぶれていくクリスの在り方が他人事じゃないからだ。日本でもワーキングプアが問題になっているけれど、人間、いつホームレスになるか分かったものじゃない。さらに少子高齢化が進行していけば、年金制度をはじめ日本の社会保障制度もまた将来的に破綻するのは目に見えている。

 クリス・ガードナーは本当の父親を28歳になるまで知らず、子供のころは暴力的な継父に虐待を受けていたという。その体験が子供と(本当の)父親は離れて暮らしてはいけないという信念になった。子供がいたからこそ頑張れたのだろう。監督はイタリア人のガブリエレ・ムッチーノ。イタリア人ということで、ふと「自転車泥棒」の親子の姿を連想してしまった。ムッチーノは今年公開予定の映画「Seven Pounds」でもウィル・スミスと組むようだ。