2004/09/10(金)「ヴァン・ヘルシング」

 「ヴァン・ヘルシング」パンフレット「ハムナプトラ」シリーズのスティーブン・ソマーズ監督がドラキュラの好敵手ヴァン・ヘルシングを主人公にしたホラーアクション。本来のヴァン・ヘルシングは教授のはずだが、この映画ではヴァチカンの指令でモンスター退治に動く007のような存在。ちゃんと秘密兵器も持っている。ジキルとハイドやフランケンシュタインのモンスター、狼男も登場するが、メインの敵はやはりドラキュラ。これまでのドラキュラ映画を多少スケールアップし、「エイリアン」風の描写を取り入れただけで、目新しさには欠け、これ以外に話の作り方はなかったのかと思えてくる。同じく多数のモンスターを登場させた昨年の「リーグ・オブ・レジェンド 時空を超えた戦い」同様、出来の方は芳しくない。

 主人公ヘルシングを演じるのはヒュー・ジャックマン。これに協力するのが、「アンダーワールド」で狼男と戦う女吸血鬼の戦士をカッコよく演じたケイト・ベッキンセールである。ベッキンセール、同じようなタイプの映画に出ることに抵抗はなかったのだろうか。

 映画はフランケンシュタイン博士がモンスターの創造に成功するモノクロ場面から始まる。「It's Alive!」と叫ぶフランケンシュタイン博士がいかにもな感じである。研究に資金協力しているのがドラキュラ(リチャード・ロクスバーグ)で、その研究を盗み、モンスターを連れ去ろうとするが、モンスターは逃げ出し、村人に追われて風車小屋の中で火に包まれる。1年後、舞台はパリ。ヴァン・ヘルシングが凶暴なハイドを苦労の末倒す。ヘルシングはヴァチカンの命令で邪悪な存在を倒しているのだが、モンスターが死ぬ時は人間の姿になるため、世間からは人殺しと思われているという設定。ダークなヒーローなのである。ヴァチカンに戻ったヘルシングに新たな指令が下る。トランシルバニアでドラキュラと長年対決してきたヴァレリアス一族のヴェルカン(ウィル・ケンプ)とアナ(ベッキンセール)に協力して、ドラキュラを倒す任務だった。そのころ、ヴェルカンは狼男と戦い、崖の下に落ちてしまう。船と馬を乗り継いで、トランシルバニアにやってきたヘルシングと助手の修道僧カール(デヴィッド・ウェンハム)は、いきなりドラキュラの花嫁の女吸血鬼たちに襲われる。女吸血鬼はアナを狙っていた。ヘルシングとアナは協力し、ドラキュラ打倒を目指すことになるが、ヴェルカンが狼男になっていたことが分かる。

 話のポイントはドラキュラがなぜフランケンシュタインの研究を必要にしていたのか、というところにある。これはまずまずのアイデアだが、ここでVFXが炸裂すべきところなのに、冒頭から連続してVFXを見せられると、クライマックスあたりで、飽きてくるのである。その意味でメリハリがないというか、演出が一本調子なところがある。ドラマティックな盛り上がりがなく、ヘルシングのキャラクター描写も通り一遍という感じである。ラストの処理も何か勘違いしているとしか思えない。VFXは充実しているのに、なぜこの程度の出来に終わるのか。ソマーズの捲土重来を期待したいところだ。

2004/09/03(金)「LOVERS」

 「LOVERS」パンフレット「石井のおとうさんありがとう」とか「忍者ハットリくん The Movie」など、どこか壊れた映画を見た後ではチャン・イーモウ演出は一級品に見える。映画はこう撮るんだよ、という見本みたいに美しい場面が多い。当たり前のことだが、映画はショットの積み重ねなのであって、この映画のようにワンショット、ワンショットを計算し尽くして撮るのが本来的な在り方なのだろう。最近、それをないがしろにした映画が多すぎるのだ。

 序盤にあるチャン・ツィイーの華麗な舞踊から始まって、竹林や平原で繰り広げられるアクション場面がどれもこれも素晴らしい。この美しく極めて映画的な映像で描かれる話が結局、三角関係に収斂していくことには不満もあるのだが、「十面埋伏」(四方八方に伏兵がいるという意味)というアクション映画的な原題を海外用として「LOVERS」というタイトルにしたのだから、これは恋人たちの話であっても別にかまわないわけである。たっぷり見せてくれるチャン・ツィイーの美しさと金城武のいい男ぶりに比べて、「3年間思い続けてきたのに」と恩着せがましく言うアンディ・ラウがしつこい中年おやじみたいにしか見えないのはかわいそうなのだけれど、キャラクターの心情を繊細に微妙な部分まで演出したチャン・イーモウには拍手を送りたい。身振りや言葉とは裏腹な真意をすくい取って見せる演出はそうあるものではない。その点で話が上滑りした「HERO」より僕には面白かった。

 反政府組織が乱立した中国、唐の時代。その中で最大勢力の飛刀門の重要人物が遊郭の牡丹坊に潜入しているとの情報を朝廷の捕吏・金(ジン=金城武)と劉(リウ=アンディ・ラウ)がつかむ。飛刀門を殲滅するため、金は牡丹坊で客になりすます。潜入しているのは盲目の踊り子・小妹(シャオメイ=チャン・ツィイー)らしい。激しい戦いの果てに劉は小妹の捕獲に成功するが、小妹は口を割らない。劉は金に命じて小妹を牢から連れ出し、逃亡させる。信用させて飛刀門の本拠地を突き止める計画だった。北へ逃げる金と小妹に朝廷の追っ手が波状攻撃を掛けてくる。その戦いの中で金と小妹の間には愛が芽生え始める。多数の追っ手の攻撃で、竹林の中で絶体絶命の危機に陥った2人を飛刀門の首領が救出。連れてこられた本拠地で金は意外な事実を知らされる。

 キネマ旬報9月上旬号の「刻み込まれたのはアニタ・ムイの不在」という記事によれば、当初、飛刀門の首領にはアニタ・ムイがキャスティングされていた。しかし、病状の悪化から1場面も出演することなく、アニタ・ムイは亡くなった。チャン・イーモウは代役を立てず、脚本を書き換えることで、映画を完成させたという(最後に「アニタ・ムイに捧げる」という献辞が出る)。だから映画の結末は本来の物語とは違うものになっている。確かにアニタ・ムイを登場させれば、クライマックス以降はもっとスペクタクルなものになっていたはずだ。朝廷と飛刀門との戦いも詳しく描かれたはずである。アクション映画としてはだから残念な結果なのだが、物語はスケールダウンしたものの、破綻はしていない。三者三様に本心を隠して進行する物語の中で、金と小妹に本当の愛が芽生えたことが悲劇を生むことになる。任務と愛情の間で心が揺れ動く金と小妹の描写がいい。大変深みのある描写であり、演技であると思う。この一直線の魅力を見せる2人に対抗するには、劉のキャラクターにもうひとひねりあった方が良かっただろう。

 ワイヤーアクションを使った竹林の中での戦いは全体の白眉。この映画、アクションの撮り方に関しては他の追随を許さない完成度があると思う。一部吹き替えはあるが、踊れてアクションもできるチャン・ツィイーの魅力も十分に伝えている。飛刀門はその名の通り、短刀を投げて相手を倒す技術に長けている。CGも使って表現されるこの短刀の描写が面白い。金城武の矢の放ち方は「ロード・オブ・ザ・リング」のレゴラスに負けないくらいスマートで、アクションも申し分なかった。

2004/08/31(火)「NIN×NIN 忍者ハットリくん The Movie」

 「NIN×NIN 忍者ハットリくん The Movie」パンフレットハッピーコーラという清涼飲料水のCMや看板や空き缶が至る所に出てくる。タイアップだとしたらあまりにどぎついと思ったが、そんなコーラはないようだ(同名のお菓子はある)。このCMに何の意味があるのか、2度登場するテレビの無表情な女性アナウンサーと同様に分からない。パンフレットを読むと、鈴木雅之監督は「特に意味やオチはないんですが、全体的にちょっと変な感じにしたかったんです。リアルな現代とは違うハットリくん的な世界観を作りたかった」と言っている。忍者という異形の存在を現代に出すことで、リアリティが失われることを危惧したのかどうかは知らないが、元がコメディなのだから、そういう変な世界にシフトさせるよりは現代そのものに忍者を登場させても別に構わなかった。凝るべきところはそんな部分ではないのだ。同じことは最初に登場する手裏剣のまるで円盤のような見せ方にも言える。あんな風に手裏剣をアップで見せることに何の意味があるのか。意味などないのだろう。鈴木監督の演出はそういうビジュアルに中途半端に凝っている。なのに肝心のドラマがありきたりである。

 伊賀忍者最後の服部一族のカンゾウ(香取慎吾)が父親のジンゾウ(伊東四朗)から江戸に修行に行くよう命じられる。最初に会った人が主人で、主人以外に姿を見られてはいけないという条件付き。カンゾウが主人にしたのは小学生のケンイチ(知念侑季)。2人は変な友情を感じながら、ケンイチの両親(浅野和之、戸田恵子)に知られないようにケンイチの部屋で共同生活をすることになる。ケンイチは学校ではいじめられっ子。そのケンイチのクラスに新しい担任のサトー(ガレッジセールのゴリ)が赴任する。サトー先生は超人的な能力を持っていたが、その正体はカンゾウの宿命のライバル、甲賀忍者のケムマキだった。そのころ東京ではおかしな事件が起こっていた。毒物で意識不明の重体とされる事件で、被害者には一見、因果関係はなかった。共通するのは現場に残された棒手裏剣と被害者の腕にある刺青。やがて被害者は甲賀忍者であることが分かる。

 原作が月刊「少年」で連載開始されたのが40年前。実写のテレビドラマ(全26話)が放映されたのが38年前だ。僕はこのテレビ版をリアルタイムで見ているが、コメディリリーフの花岡実太(ハナオカジッタ)先生(谷村昌彦)に強い印象がある。今回の映画には登場しないのが残念。鈴木監督もリアルタイムで見ている世代だが、テレビ版と同じ作りにするつもりはなかったのだろう。伊東四朗の起用は「ニン」と言えば、伊東四朗だからだそうで、それならばもっと登場場面を増やしても良かったのではないかと思う。全体的にギャグが幼稚である。子ども向けだからということではなく、ギャグのレベルが低い。

 多用されるCGはまずまずのレベルだし、主演の香取慎吾も悪くないけれど、どうもテレビの2時間ドラマで十分な作品を見せられた感じ。フジテレビ製作の映画で、そこそこヒットはするだろうが、刹那的な商売してるなという印象がつきまとう。

2004/08/26(木)「石井のおとうさんありがとう」

 「石井のおとうさんありがとう」パンフレット明治時代に3000人の孤児を救った高鍋町出身の石井十次の生涯を描いた山田火砂子監督作品。身も蓋もない言い方をすれば、極めて凡庸な作品である。題材自体はいいのに、料理の仕方が決定的に凡庸すぎる。石井十次の生涯をなぞっただけで、ドラマティックなポイントがない。だから主演の松平健をはじめ出演者にも演技のしどころがない。おまけに自主上映の形での公開が中心のためか、16ミリフィルム。画質の悪さ、画面の狭さが加わって、これならテレビの方がましか、と思えてくる。脚本も担当した山田監督は「私は一人でも多くの方にこの事実を知って頂きたいと思います」とパンフレットに書いている。あまり知られていない事実(というわけでもないのだが)を知らしめることが映画製作の目的にあったとしても、生涯を単になぞっただけの映画にしていいわけがない。出演者には恵まれているのに、これでは惜しい。

 映画は日系ブラジル人の西山洋子(今城静香)が病床の祖父から1枚の写真を手渡される場面で始まる。「石井のおとうさんにありがとうと言ってくれ」。祖父からそう言われた洋子は“石井のおとうさん”について知るために宮崎県木城町にある石井記念友愛社に行き、園長の児島草次郎(大和田伸也)から石井十次がどんな人物だったかを聞く。医学生の石井十次(松平健)は明治20年、岡山県大宮村の診療所で代診中に、食べるものにも困っていた浮浪者の女から男の子を預かる。この話が広まり、十次のもとにはたくさんの孤児が集まるようになる。熱心なキリスト教信者であった十次は妻の品子(永作博美)とともに孤児の世話にあたっているうちに、医師になることをやめ、孤児院を開くことを決意。濃尾大地震や東北の大飢饉などで十次が預かる孤児は急速に増えていく。そんな十次の姿勢に芸者の小梅(竹下景子)や資産家の大原孫三郎(辰巳琢郎)は物心両面にわたる援助を積極的に行っていく。

 十次が設立した岡山孤児院には最も多い時で1200人もの孤児がいたという。孤児たちが集合した記念写真がパンフレットにも収められているが、この数は相当なものである。石井十次が成し遂げたことに対しては敬服するしかない。それはいいのだが、パンフレットの扉には「一度は放蕩に身を持ち崩しつつも、改心して立ち直り…」とある。この部分を映画はまったく省略している。10年ほど前に放映された日本テレビ「知ってるつもり?!」では性病にかかったことが十次のターニングポイントの一つだったと紹介していた。これを見た時は、それはあんまりだろうと思ったが、一人の人間を描くからにはそういう部分も必要なのである。映画はきれい事で終わった観がある。

 だから十次の人間性も分かったようで分からない部分が残る。もっともっと対象に詰め寄り、深い部分をえぐっていく視点がなければ、深みのある映画にはなりようがない。

2004/08/12(木)「リディック」

 「リディック」パンフレットヴィン・ディーゼルの出世作となった傑作「ピッチブラック」の続編。というか、間にアニメ版の「リディック アニメーテッド」というのがあるそうだ。「ピッチブラック」はあの怪物が群れをなして襲ってくる場面などをテレビで断片的にしか見ていないが、前作を見ていなくても話は通じる。宇宙の征服を企む凶暴なネクロモンガーの大軍隊にリディックが単身挑む話。小品だった前作よりセットやVFXはスケールアップして見応えがあるが、話としては今ひとつ大作の感じがない。本筋の真ん中にある昔の仲間を助けに刑務所惑星に行くくだりが長すぎるのだ。

 このクリマトリアという惑星、昼間は700度、夜はマイナス300度というとんでもなく過酷な環境で、大地をメラメラと燃やしながら、日が昇っていくシーンなどはなかなか面白い(しかし、人間が燃え上がってしまう描写は700度じゃなくて数万度はありそう)。本来ならば、ここを細かく描いた方が「ピッチブラック」の続編としては正しかったような気がする。スケール感を出すために前後に宇宙征服の設定を付け加えたのではないか、と思えてきてしまうのだ。大作には大作の話の語り方というのがある。「リディック」は話の作り方、語り方に失敗しているのである。デヴィッド・トゥーヒー監督、大作には向いていないのではないか。

 「ピッチブラック」のエピソードから5年後の設定。5つの惑星から指名手配されているリディックは宇宙の片隅にある氷の惑星でひっそりと暮らしていたが、自分に賞金をかけた者がいることを知る。襲ってきた賞金稼ぎの船を奪い、旧知のイマム(キース・デヴィッド)が住むヘリオン第1惑星に向かう。そこでエーテル状の生命体エレメンタル族のエアリオン(ジュディ・デンチ)からネクロモンガーのボス、ロード・マーシャル(コルム・フィオーレ)を倒すのはフューリア族で、リディックはその生き残りではないかと指摘される。そこへネクロモンガーの軍隊が襲ってくる。危うく難を逃れたリディックは賞金稼ぎにわざと捕まり、刑務所惑星クリマトリアに連行される。そこには5年前、行動を共にしたキーラ(アレクサ・タヴァロス)がいるからだった。リディックはキーラと再会するが、ネクロモンガーの船がリディックの跡を付けてきていた。

 アクションを織り込んで展開する作りもヴィン・ディーゼル自体も悪くないのだが、宇宙征服を企む一団との戦いにしては話が簡単すぎる。ロード・マーシャルは生死を超越した存在で超人的な能力を持つ(加速装置みたいな能力もあり、動きが面白い)。リディックはマーシャルを倒す男と宿命づけられているという設定なのだが、観客にそれを都合がいい設定と思わせないためには刑務所惑星の描写を最小限にして、本筋の話に力を入れた方が良かったと思う。

 原題はThe Cronicles of Riddick。年代記というほど長いスパンの話では全然ないが、これから年代記的に映画を作っていくつもりなのだろうか。それなら、次作ではもっとまとまった話のかける脚本家を雇った方がいいだろう。