2005/05/31(火) 震度4

 グラグラ揺れた。職場はビルの6階なので、体感では震度5ぐらいに感じた。最初は震度2ぐらいかと思ったのだが、そのうち大きな横揺れが数秒続いて、本棚が大きく揺れ、引き出しが飛び出した。でも、大きな被害はなかったようだ。うちのビルが揺れすぎるのか。

 帰宅してみたけど、本棚の本も落ちていなかった。意外だなあ。

KDDIが“今さら”ブログに取り組む理由

 つまりパケット代金を稼ぐためというわけか。携帯からいつでもどこでも更新できるのは便利だが、やはりあの小さな画面では文章の見通しが悪いので長文を書くのには向かないと思う。携帯で相当書いたぞと思ってもアップしてみると、ほんのちょっぴりだったりするのだ。上の地震に関する文章は携帯から更新したのだが、最初は70文字程度しかなかった。

 昨日書いた「ミリオンダラー・ベイビー」の感想など携帯で書こうと思っても僕には書けない。モブログというのは短い文章にならざるを得ない部分があると思う。それでは内容も薄くなってしまうだろう。

 ブログと言えば、gooブログアドバンスは容量が1テラバイトある。この売り方、非常に腹が立つ。画像を300MBに制限しておきながら、1テラバイトだと。テキストだけでそんなに使うわけない。僕の日記は5年間で画像を含めても30MBもいってないのだ。この分だと、1GBに達するには単純計算であと30年ほどかかる。1テラバイトはその1024倍、つまり3万720年後だ。画像が300MBまでなのを考慮すると、さらにかかる。gooは「孫の代までつきあえる大容量」と言っているが、「使えるものなら使ってみろ」となめられているようで、ほとんど冗談、言いたい放題レベルの売り方だな。本気で1テラバイト使わせるなら、画像の制限などしないだろう。

 と、怒りつつも、あす申し込んでみようかと思っている。使いたいのはgooメールアドバンスの方で、評判の悪さが本当かどうかを確かめてみよう。どうせ携帯メールの転送先にしかしないので、転送したメール消失とかの不具合がなければ、かまわないんですけどね。

2005/05/30(月)「ミリオンダラー・ベイビー」

 「ミリオンダラー・ベイビー」パンフレットアカデミー主要4部門受賞。それが当然の傑作だと思う。F・X・トゥールの短編をテレビの脚本が多いポール・ハギスが脚本化し、クリント・イーストウッドが監督した。予告編はボクシング映画にしか見えなかったが、イーストウッドは、この優れた脚本がボクシング映画ではなかったから監督を引き受けたのだという。原作を読んでいたので終盤の展開に驚きはしなかったけれど、逆に原作の終盤をそのまま映画にするのは(興行的側面を考えると)難しいと考えていた。だから、この映画がうまく成功していることに感心せざるを得なかった。それは主要登場人物の背景をしっかりと描き込んだからにほかならない。キャラクターの詳細な描写が圧倒的な大衆性につながっている。イーストウッドがプロだと思うのは大衆の視点で映画を作り、自己満足のためだけの映画を作る考えなど微塵もないことだ。主演のヒラリー・スワンク、イーストウッド、モーガン・フリーマンの深みのある演技が加わって、この厳しい映画を見事なものにしている。

 主人公のマギー(ヒラリー・スワンク)は家族のためにウェートレスとして働き、貧しさからはい上がるためにボクシングを始める。31歳。老トレーナーのフランキー(クリント・イーストウッド)はTough ain't Enough(タフなだけでは十分じゃない)と言って依頼を断るが、マギーは秘かにジムのスクラップ(モーガン・フリーマン)の指導を受ける、マギーの熱心な練習を見たフランキーもトレーニングを指導するようになる。試合に出たマギーは圧倒的な強さを見せて連戦連勝。やがてタイトル戦に挑戦する。

 これがそのままうまくいけば、よくあるアメリカン・ドリームを描いた映画になるが、終盤の展開でこの物語はアメリカン・ドリームとは違う人と人との深い絆を描くことこそが狙いだったことが分かる。

 マギーが食堂で客が食べ残した肉を持ち帰るシーンや切りつめて貯めた小銭でスピードバッグを買うシーン、ジムで毎晩遅くまで残って練習するシーンなどで映画は貧しいマギーの切実さと一途さを描き出し、観客のハートをしっかりと掴んでしまう。家族との関係は原作以上に悲痛である。マギーがファイトマネーで母親のために家を買うエピソードは原作にもあるが、映画はマギーをまったく理解しない母親を原作以上に詳しく描く。出した手紙がそのまま返ってきても娘への手紙を書き続けるフランキーとマギーはだから父娘のような関係になる。親に理解されない子供と子供に理解されない親が疑似家族的な絆を深めていく描写に無理がない。

 映画は原作の行間を補完するように描写を積み重ねているが、逆に原作にあって映画にないのはマギーが父親の思い出を語るシーン。マギーの父親は長距離トラックの運転手で、家族のために懸命に働き、自分のためには仕事着と噛み煙草にしか金を使わなかった。12歳の時に父親は癌で死に、マギーの中でも何かが死ぬ。そしてマギーは16歳から働き始めるのだ。このエピソードはあった方が父親を亡くしたマギーがフランキーとの絆を深めていく過程に説得力を持たせただろうが、その代わりに映画は原作には登場しないモーガン・フリーマンを登場させることで、フランキーの過去と人間性を浮き彫りにしている。取捨選択に間違いはないと思う。

 2002年に72歳で亡くなった原作者のトゥールは「自分は、すべての女性との関係に失敗し、父親としても失敗し、闘牛士としてもマトダールにはなれなかったし、確かに物は書きはしたが、小説家とは言いがたい」と言ったそうだ。小説にある敗者に向ける視線の厳しさと切実さは映画にそのまま受け継がれている。「ミリオンダラー・ベイビー」とは1試合で100万ドル稼ぐ女性ボクサーという意味だが、同時にマギーやフランキーのような存在こそが100万ドルの価値を持つ人間であると言っているように思える。

2005/05/27(金)Google デスクトップ検索正式版

 ようやく出たので、会社のパソコンにインストール。鶴亀メールが対応したので、メール検索が便利になった。自宅のパソコンにはインデックスファイルの保存場所をCドライブから変えられるようになったら、インストールしよう。

2005/05/26(木)ALL-TIME 100 Movies

 雑誌TIMEが選んだオールタイムの映画100本。選出したのは映画評論家のリチャード・シッケルとリチャード・コーリス。100本選んだだけで順位はない。

 日本映画では「生きる」「東京物語」「雨月物語」「用心棒」の4本が入っている。黒沢明では「七人の侍」がないのが意外。ちなみに、こういうリストには必ず入る「風と共に去りぬ」「第三の男」もない。そのあたりは好みの問題なのだろう。「フランケンシュタインの花嫁」が入っているのがなかなかと思う。「フランケンシュタイン」よりこの続編の方が絶対面白いですからね。選出した2人、こういう映画が好きなようでデヴィッド・クローネンバーグ「ザ・フライ」やドン・シーゲル「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」もリストにある。

 チャップリンの映画では「街の灯」。先日、子供に見せたら、ボクシングのシーンのみ面白がっていた。ラストの良さは分からなかった様子。

2005/05/23(月)「ザ・インタープリター」

 「ザ・インタープリター」パンフレット国連の通訳が要人の暗殺計画を聞いたことから命を狙われるサスペンス。同名の原作があるが、設定だけを借りてまったく違う話にしてあるそうだ。オリジナルな話としては良くできているけれど、映画としては人間関係が入り乱れて分かりにくくなったきらいがある。シドニー・ポラック監督は場面場面を的確に演出していながら、人間関係の整理がうまく表現できていないのだ。にもかかわらず映画が魅力的なのは、ひとえにニコール・キッドマンとショーン・ペンのお陰である。脚本でもこの2人のキャラクターは心に傷を持った設定にしてあって奥行きが深いが、2人の演技はそれに輪をかけてキャラクターをくっきりと浮かび上がらせている。さすがに2人ともアカデミー主演賞を取った俳優だけのことはある。血肉の通ったキャラクターであり、多少の語り口のまずさを超えさせる力がある。特にキッドマン。知的で美しく毅然としていながら、弱さも見せる女を演じて文句の付けようがない。ハリウッドを代表する女優だなと改めて思った。

 ショッキングな場面で映画は幕を開ける。アフリカのマトボ共和国にあるサッカー場に来た2人の男が少年3人にいきなり射殺される。同行していたカメラマンは車に残っていて難を逃れた。場面変わってニューヨークの国連本部。同時通訳のシルヴィア・ブルーム(ニコール・キッドマン)は忘れ物を取りに通訳ブースに戻り、暗がりの中で男たちの会話を偶然耳にする。そこで照明がついてシルヴィアは顔を見られる。男たちは「先生は生きてここを出られない」と話していた。先生とはマトボ共和国のズワーニ大統領のことで、シルヴィアは翌日、国連本部に報告する。マトボ共和国でズワーニ大統領は住民を虐殺しており、その弁明のために近く国連で演説することになっていた。シルヴィアはその日から周囲に不審な動きがあることを察知する。ズワーニはかつて民衆の指導者だったが、大統領になってから独裁政治を行うようになった。それに反対する勢力が2つあった。ゾーラとクマン・クマンの2人がそれぞれ率いる勢力。暗殺計画はこのどちらかが計画しているらしい。大統領暗殺計画を阻止するためシークレット・サービスのトビン・ケラー(ショーン・ペン)とウッズ(キャサリン・キーナー)が捜査に乗り出す。

 というのが大まかな設定である。単なる通訳と思われたシルヴィアは実はマトボ共和国の出身であり、両親と妹を政府軍が仕掛けた地雷によって亡くした過去を持つことが分かってくる。シルヴィアは一度は銃を取り、ゾーラの反政府勢力に入ったが、ある出来事をきっかけに祖国を離れた。国連の通訳になったのは銃よりも言葉による外交を信じたからだ。ケラーは交通事故で妻を亡くして仕事に復帰したばかり。向かいのビルからシルヴィアを監視しているうちに2人にほのかな心の交流が生まれるのはこうした映画の常套的な手法だろう。眠れないシルヴィアが携帯電話で向かいのビルにいるケラーと話すシーンなどはロマンティックだ。

 シドニー・ポラックはそうしたロマンティックなシーンには冴えを見せるが、過去の作品を見てもサスペンスはあまり得意ではないらしい。ロバート・レッドフォード主演の「コンドル」を見たときも話の本筋が分かりにくかった記憶がある。それにもかかわらずレッドフォードとフェイ・ダナウェイによって映画はある程度面白く見られた。それと同じことがこの映画にも当てはまっている。ストーリーテリングがうまい監督ではなく、俳優の演技を引き出すタイプなのだろう。