2000/05/24(水)「アンドリューNDR114」
パンフレットを読んだら、アイザック・アシモフの原作はアメリカ建国200年に合わせて書かれたのだという。うーん、そんなに前ですか。僕が読んだのが20年ほど前だから、ま、計算は合う。ロバート・シルバーバーグがアシモフの中編を長編化しており、クレジットにはシルバーバーグの名前も出た。
映画はアンドリューとポーシャの関係(いわば200年にわたる愛)に重点を置いたのが良い。アンドリューがなぜ、人間を目指すのかこれで分かり易くなった。人は(ロボットだが)愛のためならなんでもするのである。たとえそれが不死を捨てることであっても。全体的にクリス・コロンバスらしい映画になっており、原作を引きずったマニアックな部分もあるが、アンドリューとポーシャの関係で一気に大衆性を備えましたね。
ポーシャ(リトル・ミス)を演じるのはエンベス・デイビッツ。「シンドラーのリスト」で残忍なナチスの大尉のメイドを演じた女優で、清潔な感じが大変いい。
アシモフのロボット工学3原則が映画で描かれたのも初めてではないかと思う。ただしアンドリューは最初の方でそれを破ってしまう。子どもから命令されるまま窓から飛び降り、自分を傷つけてしまうのだ。これはちょっと気になる。アンドリューは特殊なロボットだったという設定だけれど、もともと回路に少し異常があったから飛び降りたのか、飛び降りて壊れたため特殊になったのか、判然としない。意外にこういう部分は重要なのである。おそらく、脚本のニコラス・カザン(「運命の逆転」ほか)、SFを理解していないのだろう。
2000/05/18(木)「どら平太」
悪役の設定が弱いと思う。すごい悪役が登場しない。いや、ホントはいるのだが、極悪非道の悪役には見えない。ワルぶりが描かれず、ホントに困っている人が描かれないからだ。娯楽痛快時代劇と言って良い映画で、確かに主人公(役所広司)は豪快である。でも主人公が強すぎて、すべては予定調和の世界に見えてしまう。
驚いたことに死人は1人だけ。しかも切腹だ。主人公は凄腕の剣の持ち主だが、すべて峰打ちで1人も斬らない。3人の親分たちもユーモラス(菅原文太も含めて)。この親分たちの行為を黙認し、裏でつるんでいる家老たちもユーモラス。主人公もユーモラス。脚本のテンポもゆったりしている。例えば、黒沢明「用心棒」と比べれば、この映画の弱さははっきりするだろう。あの中で桑畑三十郎(三船敏郎)は瀕死の重傷を負わされた。町人たちも2人の親分に苦しんでいる。そうした怒りがクライマックスに爆発し、圧倒的なアクション(チャンバラ)につながった。エモーショナルな高まりがこの映画には不足している。いわゆるロウ・ポイント(主人公が苦況に陥る場面)がないので、悪を倒してもカタルシスが少ないのである。
だがしかし、僕はこの映画好きである。冒頭の“銀残し”から始まって、市川崑おなじみの明朝体のタイトル。そして主人公とその友人が語り合う場面で一瞬挿入されるコマ落とし。細かいカット割り。市川崑の技術は少しも衰えてはいない。それがうれしい。四騎の会で残っているのはもはや市川崑だけ。この映画にかける意気込みには相当なものがあったはずである。それが画面の端々に感じられる。
昨年秋のあのしょうもない「梟の城」から始まった時代劇復活は少なくとも大島渚「御法度」とこの「どら平太」という見どころのある作品を残した。それだけでも価値があったと思う。
2000/05/10(水)「イグジステンズ(eXistenZ)」
デビッド・クローネンバーグの新作。前作「クラッシュ」を見ていないし、その前の「Mバタフライ」もビデオに録画したまま見ていないので、個人的には実に「裸のランチ」(91年)以来のクローネンバーグ映画となる。近年は文学的な題材を選んでいたクローネンバーグが原点回帰したと言われる作品で、その通り「ラビッド」や「ブルード 怒りのメタファー」などを思わせるB級SFチックな出来である。
ゲームの世界と現実との区別がつかなくなるという結末からすれば、まあ小粒な映画といっていいだろう。しかし、そのゲーム機が有機体(突然変異生物)でできているというのがクローネンバーグらしいところ。人は背中にあけたバイオポートにプラグを差し込んでゲームをプレイするのだ。予告編でさえ、気持ち悪い部分があったので心配したが、映画は全体としてみれば、傑作ではないにしても面白い仕上がりと思う。主演の2人、ジュード・ロウとジェニファー・ジェイソン・リーがなかなか良く、楽しめた。