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1年間殺しを禁じられた凄腕の殺し屋ファブルの活躍を描く2年ぶりの続編。アクションもドラマも前作を大きく上回る傑作に仕上がった。クライマックス、団地の足場を崩しながらのアクションは世界レベルに届くスケールだし、冒頭の猛スピードで暴走する車の上でのアクションも迫力とオリジナリティーに富んでいる。特徴的なのはアクション場面のスピード感で、主演の岡田准一だけでなく、木村文乃も動きが速い速い。笑いの場面も含めて映画の完成度は高く、ここ数年の邦画アクションでは間違いなくダントツの面白さだ。
4年前、6人の殺しを命じられたファブル(岡田准一)はワゴン車に乗った5人目を簡単に始末するが、男が倒れ伏して車は立体駐車場内を暴走。後部座席には涙ぐむ少女が乗っていた。ファブルは少女を助けようとするが、車は屋上から転落、間一髪、ファブルは少女を抱えて車から飛び降りる。2人は車の屋根に落ち、少女は気を失う。そして今、ボス(佐藤浩市)から殺しを禁じられたファブルは佐藤アキラと名乗り、相棒ヨウコ(木村文乃)と兄妹を装って普通の生活をしている。ある日、公園で車椅子の少女ヒナコ(平手友梨奈)と出会う。ヒナコは鉄棒を使い、立ち上がろうとして倒れる。それを見ていたファブルは少女に「歩けるようになる」と話す。ヒナコは4年前に駐車場でファブルが救おうとした少女であり、あの時の事故で歩けなくなったらしい。今は子どもを守るNPO団体の代表・宇津帆(堤真一)と暮らしているが、宇津帆は影で殺人も厭わない危ないビジネスを行っていた。
「1作目を超えなければ2作目を作る意味がない」というのは「ルパン三世 カリオストロの城」(1979年)公開時のコピーだが、今回、「ザ・ファブル 殺さない殺し屋」のスタッフも「前作を超える」を合言葉にしたそうだ。アクション場面が凄いのは今回から加わったアクション監督横山誠の功績かと思ったら、キネマ旬報2021年2月上旬号(1858号)の特集を読むと、岡田准一のアクションにかける熱意によるところが大きいようだ。横山誠のインタビュー記事には「本作を圧倒的に特別なものにしたのは、やはりファブルを演じた岡田の素材だった」とある。
「ロケの許可が下りて仕込みが終わった後、まず僕らアクション部でリハーサルをするんですが、岡田さん、すでにその場にいましたからね。ジャージー姿で(笑)。ふつう役者さんは本番の日に初めて現場に来るものですけど、岡田さんがリハに来てくれたのは1回や2回じゃないし、必ずそこでプラスアルファのアイデアをどんどん出してくれる。武術に関しては僕らなんかより詳しいうえに、誰よりもうまいですしね」
岡田准一がアクションの人と認識されたのは「SP 野望篇」(2010年)「SP 革命篇」(2011年)の2部作からだろうが、それ以前の「フライ、ダディ、フライ」(2005年)でも体の動きは人並み外れていたなと今にして思う。デビューしてから25年、岡田准一は孤独に黙々とアクションに関する勉強や準備をしてきたのだという。「主演をメインとした人物の動きや技で見せていってそこに美を求めるのが東洋のアクションの構成です。対して、ストーリーに沿った登場人物の心情を、その人物に与える負荷や場の動き、転がし方などを画(え)で見せつつ表現していくのが西洋のアクション」という指摘ができるほど、アクションに精通しているのだ。
立体的に構成された団地のアクションを見て、僕は「プロジェクトA2 史上最大の標的」(1987年)を思い浮かべた。当時のジャッキー・チェンはハロルド・ロイドやバスター・キートンなどサイレント映画のアクションに強い影響を受けていた。岡田准一がジャッキー・チェンをどう評価しているかは知らないが、この映画でやったことはジャッキーのアクションをより洗練された形で見せていることにほかならない。
ドラマパートに関しては元アイドルの域を超えた平手友梨奈の好演が目立ち、佐藤二朗のおかしさを含めてエンタテインメントとしてよくまとまっている。こういう破綻のないアクション映画が見たかったのだ。江口カン監督、横山誠アクション監督、岡田准一主演でぜひぜひ続きを見せてほしいと思う。
オットー・プレミンジャー「バニーレークは行方不明」(1966年)やロマン・ポランスキー「ローズマリーの赤ちゃん」(1968年)、クリント・イーストウッド「チェンジリング」(2008年)など主人公が確かに体験したこと、認識したことが周囲の誰からも信用されない、理解されないというシチュエーションのミステリーやサスペンス映画がある。「ファーザー」の主人公アンソニー(アンソニー・ホプキンス)にとって、自分の身に起きていることはこれに近い感覚なのではないか。
アンソニーには不思議なことが次々に起きる。娘のアン(オリヴィア・コールマン)が見知らぬ女(オリヴィア・ウィリアムズ)に変わる。知らない男(マーク・ゲイティス)が部屋にいて、娘の夫と名乗る。愛する男と出会った娘がパリに行くと言ったかと思えば、結婚して10年になると言う。腕時計がなくなり、娘の夫と名乗る別の男(ルーファス・シーウェル)の腕にそっくりの時計がある。部屋の絵がなくなる。自分の家なのに、娘夫婦の家だと言われる。家に帰ったかと思ったら、病院に来ている。新しい介護人のローラ(イモージェン・プーツ)はアンの妹ルーシーにそっくりだと言えば、アンが悲しい顔をする。極めて唐突に理不尽に顔をたたかれたり、暴言を吐かれたりする。
こうした描写の数々がもう通俗的・エンタメ的に面白い。どれが真実だか、何を信用していいのか観客にも分からなくなってくるのだ。もちろん、ミステリーやサスペンス映画ではこうした事象の背後には悪意のある人物がいるわけだが、この映画においては主人公の認知症がすべての原因になっている。アンソニーは過去と現在の区別がつかなくなり、一瞬、自分が誰だか分からなくなり、娘の顔も忘れてしまう。見ている方もじわりと悲痛な感情が立ち上がってくることになる。
2012年にフランスで初上演した舞台劇を監督のフロリアン・ゼレール自身が英国を舞台にして映画化した。ゼレールにとっては初の長編劇映画だそうだが、並外れてうまくいったのは映画用に書き換えた脚本(ゼレールとクリストファー・ハンプトンの共同)が優れていたからだろう。ゼレールは「迷路のような作品なので、観客は自分自身で出口を探さなければならなくなるはず」と言い、ハンプトンは「私たちはとにかく、ある種の感覚を再現しようとしました。舞台の観客に呼び起こしたような、崩壊と戸惑いの感覚です」と語っている。その狙いは十分すぎるほど精緻に実現できている。通俗的にめっぽう面白く、しかも考えさせる。認知症テーマの映画と聞いて持ってしまう重苦しい先入観を粉々に打ち砕く傑作だ。
類い希な演技力を見せて注目を集めたサスペンス映画「マジック」(1979年、リチャード・アッテンボロー監督)以来、アンソニー・ホプキンスは常に演技派の名に恥じない演技を見せてきた(「マジック」公開まで、アンソニーと言えば、パーキンスだった)。「ファーザー」での演技がホプキンスにとって特に優れているとは思わないが、認知症の主人公を表現するのに過不足のない演技であり、アカデミー主演男優賞に値することは間違いないだろう。ホプキンス自身は受賞できるとは思っていず、新型コロナへの不安もあって授賞式には出席しなかった。前評判の高かったチャドウィック・ボーズマン(「マ・レイニーのブラックボトム」でノミネート)を上回る票を集めたのは映画の出来も大いに関係しているだろう。
主人公の緋村剣心(佐藤健)が「不殺(ころさず)の誓い」をして逆刃刀(さかばとう)を持つ契機となった出来事を描く「追憶編」の映画化で、シリーズ第5作。“人斬り抜刀斎”と呼ばれた幕末の剣心を描く「始まりの物語」なので、「最終章」はおかしいのだが、このスタッフ・キャストでの映画版はこれが最後という意味だろう。映画本編のタイトル(最後に出る)に「最終章」の文字はない(「The Final」の時にもなかった)。
毎回、「アクションは良い、ドラマが弱い」と言われてきたシリーズだが、今回はドラマがメインになる。それではドラマは良くなったのかというと、やっぱり弱い。心の動きを表現する細やかな描写とエピソードが必要な内容なのに、それがないのだ。例えば、山田洋次「たそがれ清兵衛」のような在り方が望ましいが、大友啓史監督、そういう部分は得意ではないのだろう。
京都所司代・見廻組の清里明良(窪田正孝)を斬った際に左頬に切り傷を負った剣心はある夜、酒場で一人の女を酔っ払いから助ける。店の外の暗がりで襲ってきた何者かを剣心は斬り捨てるが、礼を言おうと追ってきた女がそれ見ていた。「あなたは本当に血の雨を降らすのですね」。斬られた男の血を浴びた女はそう言い、気を失う。剣心は長州藩士たちが泊まる宿に女を連れ帰る。女の名前は雪代巴(有村架純)。「帰りを待つ家族はいない」と言う巴は翌日から、その宿で働く。京都では新選組が長州藩の謀反の動きを知り、藩士が集まった池田屋を襲撃する。続く「禁門の変」でも敗北した長州藩の桂小五郎(高橋一生)や高杉晋作(安藤政信)らはしばらく身を隠し、反撃の時を待つことを決めた。剣心は巴と一緒に農村に行き、畑を耕して暮らすことになる。穏やかな暮らしの中、2人の間には徐々に愛が芽生え始める。
この農村での描写が映画のキモになるはずが、そうなっていない。巴は剣心に殺された清里明良のいいなづけで、復讐のため剣心の弱みを握るために幕府直属の暗殺集団「闇乃武」に命じられて剣心に接近した。その巴が復讐心を捨て、剣心に惹かれるようになった直接的なきっかけを描かないと、説得力に欠けるのだ。剣心は終盤まで巴の正体を知らなかったという設定だが、これも最初から知っていた設定にした方がドラマに深みが出たのではないかと思う。剣心の十字傷の理由もその方がしっくり来る。
ただし、巴を演じる有村架純は抜群の良さだ。薄幸で不運な巴の悲しさを漂わせ、この映画を強く批判する人でも有村架純のたたずまいの素晴らしさには矛を収めるだろう。「花束みたいな恋をした」でも感じたが、有村架純、絶好調と言うほかない。
映画はラスト、シリーズ第1作(2012年)の「鳥羽・伏見の戦い」の場面につながっていく(この映画より後の時代の話なのに、斎藤一を演じる江口洋介が今より若いのは仕方がない)。シリーズは9年かけて円環を閉じた。アクション映画好きとしてはこのシリーズ、少しぐらいドラマが弱くても、時代劇アクションに新たな地平を切り開いた功績を積極的に評価したい。かつての日本映画なら「新」とか「続」とか付けてシリーズを続けただろうが、もうそんな時代ではない。大友啓史、佐藤健には別のアクション映画での復活を期待したいところだ。