2007/01/31(水) 「ヨンクの話2007」

 「NAVI」3月号表紙自動車雑誌「NAVI」3月号の特集。これは読み応えがあった。清水和夫が内外の10台の車の走行性能を雪道でテストしたレポートで、ダイナミック・セーフティ・テスト(DST)の雪上版。心が動きつつある日産スカイラインはさんざんな評価で、購入意欲が萎えてくる。一般道と高速走行は問題ないが、雪道では他の車に比べてほとんど話にならないぐらいのレベルだ。

 「スカイラインは“4WDはとりあえず4WDにしておけば雪道で困らないでしょう”みたいな感じ。ドライバーズカーとしてみたら、あのチューニングは鍛え直した方がいい」というのが結論。具体的にはトラクションコントロールが過激なくせに、解除のタイミングが遅いとか、VDC(横滑り防止装置)をオフにすると、「4WDとは思えないほどのオーバーステアに悩まされれる」とのこと。テスト車は2500CCなので4WAS(4輪操舵)は装着されていないが、この世界初の装置自体、あまり評判はよろしくないようだ。

 僕が雪道を走ることなど、まずないのだが、車の限界性能は高いに越したことはない。こういうテスト結果だと不安になる。普通のFRのDSTもやってほしいものだ。

 日本車で評価が最も高いのはレガシーB4。これはもう少しデザインが良ければ、購入意欲が湧いてくるんだがなあ。

 ところで、清水和夫がブログ「雪道で四駆がFFに負けた日」に書いている「1.3リッターのFF」については記事の中には出てこない。何の車種か知りたいものだ。

 このDSTの模様はスノーDST in 裏磐梯に動画がある。

2007/01/28(日)「それでもボクはやってない」

 「それでもボクはやってない」素直に罪を認めれば、罰金刑で済み、午後までには釈放。否認すると、勾留が数カ月に及ぶこともある。痴漢のような軽犯罪であっても扱いは重罪犯と何ら変わらない。そういう現状を改めて詳細に描くとともに、映画は裁判自体の理不尽さを徹底して描く。日本の裁判に無罪の推定なんてない。警察からいったん犯人扱いされたら終わり。無実を証明するには被告人と弁護士、支援者に大変な労力が要求される。それでも無罪判決を勝ち取ることはまれだ。日本の裁判は有罪率99.9%なのだという。映画には推定無罪を信念とする裁判官も登場するが、弁護士によってそうした裁判官が少数派であることが説明される。なぜか。国家を敵に回す裁判官は昇進しないからだ。もう絶望的な気分になる状況を周防正行は怒りをこめて描き出す。満員電車の中で痴漢に間違われることなんていつ何時、自分に降りかかる災難か分かったものではない。だからこそ、この映画は怖い。周防正行は脚本を書くのに3年かけたという。チャラチャラしたお手軽な作品が多い最近の日本映画において、この映画が持つ重みは取材の充実が裏打ちしているのだと思う。11年ぶりの監督作に過去の作品とはまるで異なる社会派の題材を選んだ周防正行はそれを見事に成功させた。

 痴漢に間違われた青年(加瀬亮)が無実を主張し、裁判を闘うことになる。というプロットは簡単だ。監督の狙いは裁判そのものを描くことにあったのだから、余計な夾雑物は一切廃している。キネマ旬報2月上旬号によると、周防監督は中年のサラリーマンと若者を主人公にした脚本をそれぞれ5稿まで書いたそうだ。若者が主人公になったのは、中年が主人公になると家族の話まで広げざるを得なくなるからであり、それでは裁判自体を描くというテーマに沿うことができなくなるからだ。それでも脚本を見せた人からは「映画と講演つきで公民館などを回るしかないんじゃないか」と言われたという。一歩間違えれば、そうした文化・啓発映画にしかなりそうにない題材だが、主義主張だけでなく、映画をコントロールし、面白い映画に仕上げる技術が周防正行には備わっていた。

 過去のエンタテインメント作品で培った技術はここにも生かされている。それを端的に感じるのはおなじみの竹中直人であったり、主人公が留置場で知り合う本田博太郎のおかしなキャラクターであったりするのだが、弁護士役の役所広司、瀬戸朝香(「Death Note」に続いて好演)をはじめ、母親役のもたいまさこ、裁判官役の小日向文世、刑事の大森南朋らのキャラクターの作り方にも功を奏している。加えて、主人公に最初に接した当番弁護士が人権派の浜田(田中哲司)であるにもかかわらず、浜田は裁判制度にあきらめを感じつつあったために主人公に示談を勧めるという描写や、推定無罪を信条とする裁判官(正名僕蔵)が途中で交代させられる点、同じく痴漢冤罪事件で控訴審を闘う佐田(光石研)が主人公の支援に回るエピソードなどが積み重ねられ、映画を重層的なものにしている。

 正義の実現に努力する弁護士たちの姿にはよくある裁判劇のように胸を熱くするものがあるのだけれど、周防正行は決してそれを中心にせず、裁判制度の問題点のみに焦点を絞っていく。2時間23分は少し長いと思ったが、冗長な部分はなく、息抜きの場面を入れながら、テーマを掘り下げて描いた構成と演出力は大したものだと思う。2年後には裁判員制度が始まるが、一般から選ばれた裁判員がかかわる刑事裁判は重大事件に限られるので、こうした痴漢冤罪事件の構造は今後も変わらないだろう。映画の中で「痴漢冤罪事件には日本の刑事裁判の問題点がはっきりと表れている」と役所広司が言うが、その現状を変えたい、変えなくてはいけないという主張が明確に伝わる映画である。

2007/01/27(土) RSSのエラー

 アップルの予告編サイトにあるRSSのXMLファイルにエラーがあるようでRSSリーダーでの読み込みに失敗する。ブラウザでの表示はOKだが、SleipnirもFirefoxもRSSリーダーを使用すると、ダメ。昨日の更新分の中にエラーの文字があるようだ。ソースを見てみると、確かに45行目と51行目に制御文字らしきものがある。

 読み込めないのはいいのだが、困るのは昨日、XOOPSのXHLDを使って、RSSを表示するように設定したばかりなこと。これ、手間がかからないので、楽なのだが、正常に表示できたのは数時間だった。「キンキー・ブーツ」の文章(description)の中のエラー、アップルの人、修正してくださいませ。

2007/01/20(土)「独白するユニバーサル横メルカトル」

 「独白するユニバーサル横メルカトル」平山夢明の悪夢と狂気の異様な短編集。8編が収録されている。「このミステリーがすごい」で1位となり、収録してある同名の短編は日本推理作家協会賞を受賞している。最初の「C10H14N2(ニコチン)と少年 乞食と老婆」で軽いジャブ。続く「Ω(オメガ)の聖餐」でノックアウトされた。その後は普通のミステリっぽいSF、あるいはSFっぽいミステリが続くが、最後の「怪物のような顔の女と溶けた時計のような頭の男」で再びノックアウトされる。平山夢明はもの凄い話を書く作家だなと思う。

 即物的で凄惨な描写がそれだけに終わっていないのは狂人の論理が伴っているからで、そこが(未見だが)「ホステル」のような残酷描写だけの映画とは異なる点なのだろう。全盛期のクライブ・バーカーに似た感触もあるが、描写中心だったバーカーよりは作りがしっかりしていると感じるのはそういう部分があるからだ。こういう話を書く作家は日本にはあまりいない。そこを評価すべきか。だいたい、残酷描写をセーブしてしまうものなのだ。

 「無垢の祈り」「オペラントの肖像」「卵男」は読んでいて「おお、SFだ」と思った。表題作はサイコな殺人鬼をメルカトル図法の地図の独白で描く。これもSF的な手法と言える。SF方面での平山夢明の評価はどうなのだろう? 「このミス」1位では一般的なSFファンは手に取らないのかもしれないな。

 「すまじき熱帯」は「地獄の黙示録」(あるいはウィリアム・コンラッド「闇の奥」)のようなシチュエーションであり、「怪物のような…」の目をえぐり取られた助手の描写などは「フランケンシュタイン」のイゴールを思わせる。平山夢明はたぶん映画ファンではないか。と思ったら、ホラー映画の監督もしているようだ。

 表題作について推理作家協会賞の選考委員の選評で法月綸太郎は「地図の一人称という奇手を用いながら、執事風の語り口が絶妙の効果を上げている。トリッキーな仕掛けはないけれど、ディテールがいちいち気が利いているので、風変わりなクライム・ストーリーとして愛すべき作品だと思う」と書いている。

アレクサンダー・ウィット

 WOWOWで録画した「バイオ・ハザードII アポカリプス」を再見していたら、監督がアレクサンダー・ウィットだった。「007 カジノ・ロワイヤル」から第2班の監督がこれまでのヴィク・アームストロングからウィットに替わったのだが、この名前、どこかで聞いたことがあるなあと思っていたのだった。劇場公開時に「バイオ・ハザードII」を見た時、僕は「監督デビューのアレクサンダー・ウィットはスピーディーな演出で物語を語っていく。その反動か、喜怒哀楽の感情描写はどこかに置き忘れたようだが、アクション中心なのだから、それほどの不満は感じない。ビジュアルな題材をビジュアルに撮ることに徹して、ウィットは十分な演出を見せている」と書いたのだけれど、監督名はすっかり忘れていた。

 「カジノ・ロワイヤル」はこれまでのシリーズとアクションの質が異なるが、これはウィットが参加したためもあるだろう。といっても第2班の監督がどういう部分を演出するのか、実はよく知らない。主にアクションシーンじゃないかなと思っているのだが、違うだろうか。ウィットの監督作品は今のところ、「バイオ・ハザードII」のみで、第2班の監督や撮影監督を務めた作品が多い。そのほとんどはアクション映画だ。

2007/01/13(土)「モンスター・ハウス」

 「モンスター・ハウス」パンフレット昨年夏にアメリカで公開され、大ヒットした3DCGアニメ。大ヒットの理由は公開劇場の数が多かったためもあるだろうが、映画自体も良くできていて最近のCGアニメの中では最も面白かった。製作はロバート・ゼメキスとスティーブン・スピルバーグで、ゼメキスの「ポーラー・エクスプレス」(2004年)同様にモーション・キャプチャーを使用しているため、キャラクターの動きがとても滑らかだ。

 アメリカのアニメの常でキャラクターはかわいくはないのだが、実写をコンピュータでトレースするモーション・キャプチャーはそれなりの効果を上げている。この手法、ラルフ・バクシの「指輪物語」(1978年)でメジャーになったロトスコープという技術に端を発するもので、ここまでリアルならば、実写で撮っても良いのではないかという疑念が見ているうちにわき起こってくる。この映画自体、当初は実写の計画もあったそうだ。ただ、クライマックスのモンスター・ハウスの動きなどはどうせCGを使わなければ、表現できないだろうから、フルCGでの映画化も理解できないわけではない。

 物語はハロウィンの前日から始まる。そろそろ声変わりを迎えつつある12才の少年DJは向かいの家に住む不気味で頑固な老人ネバークラッカーを日頃から望遠鏡で観察している。両親が休暇で出かけ、1人家に残ったDJのところへベビーシッターのジーがやってくるが、ジーは自分の家のように振る舞い、恋人のミュージシャン、ボーンズを引き入れる始末。その日、DJの親友のチャウダーが買ったばかりのバスケットボールをネバークラッカーの家の敷地に転がしてしまう。ネバークラッカーは他人が芝生に入ると猛烈に怒り出す。チャウダーの代わりにボールを取りに行ったDJはネバークラッカーに見つかってしまうが、突然、ネバークラッカーは苦しみだし、救急車で運ばれてしまう。ここから不思議な出来事が起こる。チャウダーが誰もいないはずの家の呼び鈴を押すと、突然、玄関が口のような形になり、絨毯が襲いかかってきた。この家はモンスター・ハウスだった。翌朝、ハロウィンのお菓子を売りに来たジェニーとともにDJとチャウダーは家の秘密を調べ始める。

 上映時間は90分で子供向けにはぴったり。映画も過不足なく描写を重ね、これが監督第1作のギル・ケナンは無難に仕事をこなしたと言うべきだろう。ダン・ハーモン、ロブ・シュラブ、パメラ・ペトラーの脚本も悪くない出来だ。難点はネバークラッカーの家がモンスター化した理由で、これはもう少しスーパーナチュラルな要素が欲しかったところだ。ネバークラッカーの役割は予想がつくのだけれど、定跡を踏んでいるオーソドックスな映画化と理解しておくべきか。クライマックスにはビジュアルなシーンが用意されていて、スピルバーグ&ゼメキス製作らしい映画だなと思う。子供を連れて行った大人も退屈しない仕上がりで、他の子供向け映画もこれぐらいのレベルを維持してほしいものだ。

 僕が見たのは日本語吹き替え版。DJ役は「名探偵コナン」の高山みなみが声を担当している。他のキャストも含めて違和感はなかったが、久しぶりのキャスリーン・ターナーが登場する原版も見てみたいところだ。