2014/10/27(月)「キャリー」(2013年)
教室の中でキャリーとトミーの両方にピントを合わせたパンフォーカスやクライマックスのスプリット・スクリーンなどギミックに満ちたデ・パルマ版に比べると、映像が普通すぎる。ジュリアン・ムーアとクロエ・グレース・モレッツの親子は旧作のパイパー・ローリー&シシー・スペイセクに比べてネームバリューで負けているわけではない(むしろはるかに勝っている)が、適役とは言えないだろう。
その周囲の俳優たちもどうにも物足りない。なんせ、旧作はジョン・トラボルタ、ナンシー・アレン、ウィリアム・カット、エイミー・アーヴィングという直後からスターになっていった俳優たちが共演していたのだから比較にならないのだ。なにより見劣りするのは音楽でピノ・ドナジオの音楽がいかに素晴らしかったかを痛感させられる。
キンバリー・ピアース監督なら女性の視点で物語を語り直せるかと少しだけ期待していたが、そんな部分もなく旧作をなぞるだけに終わったのは大いに残念。リメイクの意味がさっぱり見えてこない出来だった。
2014/10/26(日)「蜩ノ記」
葉室麟の原作で最も心を動かされたのは不当に10年後の切腹を命じられた戸田秋谷ではない。飲んだくれで怠け者の父親に代わって、母親と幼い妹・お春の暮らしを支えるために懸命に働く源吉の姿だ。源吉は、秋谷の息子で10歳の息子郁太郎と同じ年頃の農家の少年。不作で年貢が重いとこぼす大人たちをよそに、屈託なくこう言う。
「おれは早くおとなになって、一所懸命働いて、田圃増やしてえ、と思うちょる。そしたら、藺草も作れるようになる。安く買われるって言うけんど、藺草は銭になる。そうすりゃ、おかあに楽をさせてやれるし、お春にいい着物も買うてやれる。おれはそげんしてえから、不作だの年貢が重いだの言ってる暇はねえんだ」
友人である郁太郎を大事にし、ダメな父親であっても他人が悪口を言うことを許さず、貧しい生活の中でも源吉はまっすぐに生きている。
映画はこの源吉のエピソードが少ないのが大きな不満だ。もちろん、2時間余りの上映時間で原作のすべてを入れ込むのは無理だが、秋谷の理想的な武士の生き方と農民である源吉の生き方を対比するのは原作のポイントでもあるのだ。それを考慮していないのは脚本の計算ミスだろう。源吉の境遇と郁太郎との友情を十分に描かないと、クライマックスが盛り上がらない。
小泉堯史監督は春夏秋冬の美しい風景を撮り、ドラマを組み立てているが、それだけで終わった観がある。可もなく不可もなしのレベル。どんなに丁寧に撮っても、映画が傑作になるとは限らないのだ。
2014/10/19(日)「ジャージー・ボーイズ」
彩度を落とした銀残しのような画質は時代を表現しているのだろうとか、登場人物が観客に向かってストーリーの説明をするのは50年代のコメディ映画にあるよなとか、前半は冷静にそんなことを考えながら見ていたのだが、クライマックスの「君の瞳に恋してる」でやられた、まいった。
フォー・シーズンズの結成から「シェリー」などのヒット曲を連続させるという上昇基調のドラマが一転してメンバー脱退など不幸なエピソードの連続に変わり、気分が落ちてきたところで一転してフランキー・ヴァリ(ジョン・ロイド・ヤング)がこの名曲を歌い上げるのだ。サビが流れてきただけで鳥肌が立った。この映画の画面転換の呼吸は、もう絶妙のうまさである。しかもこの後、最高に幸福感あふれるエンディングの歌が待っているのだ。元がブロードウェイの舞台なのでこのエンディングはカーテンコールに当たるが、僕は原田知世「時をかける少女」のエンド・クレジットの楽しさを思い出した。
クリント・イーストウッドは自分で作曲もする人だから、音楽映画を撮っても不思議ではないし、過去にも「バード」があるのだけれど、こんなにうまく撮るとは思わなかった。イーストウッド監督作品でも上位に入る出来だと思う。
不思議なのはこの映画、本国アメリカでは低い評価の方が多いこと。ロッテン・トマトでは53%のレビュワーが腐ったトマトを投げつけ、平均得点は5.9。これについてキネ旬10月上旬号の対談で小林信彦と芝山幹郎は以下のように語っている。
芝山「でも今回、この映画がアメリカの評論家にあまり受けなかったというのはねえ……。やっぱり目先で観ているのでしょうか」
小林「向こう(アメリカ)の評論を読んで感じるけど、この映画の本質はよほど勘の鋭い奴じゃない限り分からないですよ」
芝山「今の若い評論家はディテールの読み間違いが多いし、温故知新の気持ちがちょっと足りない。それと、末梢神経の刺激をせっかちに求めすぎる。ロジャー・イーバートが生きていたら、絶対に奥まで読み取るタイプですよ」
日本ではフォー・シーズンズ世代の高齢者はもちろん、若い世代にも号泣したなんて人がいるぐらい高い評価を集めている。マフィアとのつながりがきれい事で終わってるとか、事実と異なるフィクションも含まれているとは思うのだが、アメリカでの評価はどう考えても低すぎると思う。
2014/10/13(月)「猿の惑星:新世紀(ライジング)」
前作「創世記(ジェネシス)」の10年後を描く新シリーズ第2弾。本格的なSF映画であり、マット・リーヴスの演出も手堅い。猿のリーダーであるシーザー役のアンディ・サーキスをはじめ猿のメイクアップと動き(パフォーマンス・キャプチャー)はとてもリアルだ。物語に緊迫感はあっても驚くような展開はないし、ウィルス進化論を核に据えた前作ほどではないにしても、水準以上の仕上がりであることは間違いない。
それにもかかわらず、あまり気分がすぐれないのは猿にとっては夜明け(原題はDawn of The Planet of The Apes)でも、人間にとっては夕暮れだからだ。黄昏れていく人間たちの姿は哀れさを感じさせる。ウィルスのパンデミックによって生き残ったのは免疫を持つわずかな人間だけ。しかも電力が底をつきそうになっており、文明の灯は今にも消えそうになっている。ウィルスによって進化した猿たちとは対照的な姿なのである。オリジナルの第1作につながる前日談であることを考えると、この先に待っているのは猿に支配された人間たちの絶望的な世界であり、希望が見えずに気分がハッピーになるわけがない。
前作よりも猿たちの描写は怖くなっている。動作も声も大きくて爆発的な凶暴さを漂わせる。これは人間との戦いを避けるシーザーも例外ではない。群れを統率するためには誰よりも強いことを示す必要があるのだ。
描かれるのは戦いと融和のせめぎ合いだ。シーザーが戦いを避けるのは戦いによって仲間に犠牲が出ることを恐れるからだ。かつて飼われていたウィル(ジェームズ・フランコ)との良い思い出は持っているにしても、他の人間と仲良くしたいと思っているわけではなく(自分はできても他の猿には無理だと現実的に考えているのかもしれない)、人間と猿が別々の場所に住んでお互いに干渉しないことを望んでいる。これに対してシーザーの片腕コバ(トビー・ケベル)は人間に虐待された過去の恨みから、人間たちの銃を奪い、仲間を率いて戦いを挑む。
この構図は人間たちにも当てはまる。リーダーのマルコム(ジェイソン・クラーク)は戦いを望まないが、ドレイファス(ゲイリー・オールドマン)は武力で対抗しようとする。「共存か 決戦か」というこの映画のコピーは映画の内容を端的に表している。
旧シリーズの原作者ピエール・ブールは第二次大戦中に日本軍の捕虜になった経験があり、原作における猿は日本人の比喩だと言われた(ブールは「戦場にかける橋」の原作者でもある)。今回はそんなに単純ではない。異なるコミュニティー間のコミュニケーションの難しさ、それぞれのコミュニティー内の意見の対立を描き、不幸な戦争への道を進む状況を描いている。
話に決着が付いたわけではないので第3作は間違いなく作られるだろう。しかし、旧シリーズ第1作にそのままつなぐ展開にはならない気がする。公開当時、あってもなくても良い作品と思えた旧シリーズ第5作「最後の猿の惑星」のように人間と猿が融和を目指す物語に落ち着くのではないか。これこれこうやって猿に支配された世界ができました、という(人間にとっては)ペシミスティックな結末をハリウッドは避けるのではないかと思う。
2014/10/12(日)「その女アレックス」
30歳の美しい女性アレックスが正体不明の男から拉致され、身動きできない檻の中に閉じ込められるというのが発端。この監禁描写はリアルで緊迫感にあふれるが、物語はここから想像もつかないところに着地していく。
一種の叙述トリック。どこから語るか、どう語るかで物語の様相は大きく変わる。それを計算し尽くした構成が秀逸だ。トリックだけで成立したミステリーは読み終わっても驚きしか残らないが、この作品には重い読後感がある。
訳者あとがきにミステリマガジン2013年12月号のオットー・ペンズラーのコラムが引用されている。引用されていない部分を引用しておく。
警官たちは有能かつ勤勉で、事件は解決したかと思われるが、何もかもが予想通りには進まない。もし、最初の百ページですべてわかったという読者がいたとしても、私は信じない。
酷すぎるほどの暴力描写があり、フランス語から英語への翻訳も完璧ではないが、Alexは英国推理作家協会賞のCWAインターナショナル・ダガー賞を受賞するにふさわしい作品だ。
事件を捜査する主人公カミーユ・ヴェルーヴェンをはじめパリ警視庁犯罪捜査部の面々が魅力的だ。このシリーズ、もっと翻訳してほしい。