2003/01/29(水)「黄泉がえり」

 「俊介、なんで葵を残して死んだんだよ。葵は俺じゃダメなんだよ」と言いながら、主人公の平太(草なぎ剛)は俊介の角膜を持って鹿児島から阿蘇へと急ぐ。俊介と平太と葵(竹内結子)は聖なる三角関係にある。いや、あった。葵にプロポーズすることを俊介が平太に相談したため、平太は自分の思いを隠し続けてきた。俊介は海で死んだが、葵は今も俊介を愛している、と自分で思っている。

 身近にいる男の良さが分からずに遠くへ行った男のことを思い続けるというのは山本周五郎の小説を持ち出すまでもなく、切ない設定だ。葵が平太の自分に対する気持ちと自分の本当の気持ちを気づく場面がなかなか感動的である。人が甦るには甦ってほしいと強く願う人が必要なのだった。

 同じことはいじめに遭って「死んでみせる」と言って自殺した山田克典(市原隼人)にも言える。山田は甦って自分のことを思ってくれていた森下直美(長澤まさみ)の存在を知る。直美こそが自分の甦りを強く願っていた人だった。

 ラーメン屋で働く中島英也(山本圭壱)は2年間、店主の玲子(石田ゆり子)のことを思っていた。そこへ死んだ亭主の周平(哀川翔)が甦ってくる。傷心の英也のところにも風邪をこじらせて14歳死んだ優一(東新良和)が甦ってくる。両親を亡くして兄弟2人で親戚をたらい回しにされ、あげくに孤児院に預けられたという英也の独白が泣かせる。

 という風に「黄泉がえり」は甦ってくる人々とそれを願う人々のエピソードで構成される。もちろん中心になるのは平太と葵の関係なのだが、塩田明彦監督はまず、こうしたさまざまなエピソードをいくつも積み重ねていく。黄泉がえりの理屈も一応、山中で見つかった巨大なクレーターとの関係で説明されるが、詳しくは描写されない。だからこれはSFではなくファンタジー。甦りを願う人と甦った人とを説得力を持って描いていくのはなかなか難しく、いくつかの傷はあるが、それでも邦画のファンタジーとしては成功の部類に入る出来だと思う。

 誰もが指摘するようにクライマックスのコンサートの場面は長すぎる。あれほど長くするのなら歌手のRUI(柴咲コウ)のエピソードをもっと増やす必要があっただろう。本筋から浮いてしまったのは残念だ。

2003/01/24(金)「AIKI」

 例えば、病院で同室の火野正平から「おまえよー、1年生きてみろよ。1年たってもまだ自殺したいなら、俺は止めないよ」と言われた主人公の加藤晴彦が1年たってもまだ飲んだくれていたり、合気柔術を習った後に、かつてボコボコにされた3人組のチンピラに再会した主人公が再びボコボコにされたり、バイアグラの2倍効くというバイバイアグラを飲んだのに肝心のところで役に立たなかったりという風に映画は少しずつ定石を外している。それにもかかわらず、交通事故で下半身マヒの身の上となった青年が合気柔術を通じて再起するという前向きな話の大筋だけはその軌道をまったく外してはいない。「どうせこうなるだろう」という観客の予想を裏切るのは、ありきたりの展開にしないための工夫であり、小さな場面での定石の外し方は実は観客への大きなサービスなのである。この脚本の作りには相当感心した。

 この青春映画として見事な脚本を火野正平や石橋凌や桑名正博やともさかりえや原千晶や、もちろん主演の加藤晴彦が生き生きと演じており、映画の充実度は極めて高い。前半で障害者のリアルな日常と落ち込んだ精神状態を描きつつ、ユーモアをたくさん挟んでエンタテインメントに仕立てた天願大介監督の手腕は大したもので、キネ旬ベストテン5位にも納得である。主人公がゆっくりと再起へ向かう姿がとてもいい。元気の出る映画であり、気分良く映画館を出られる映画である。

 天願大介は言うまでもなく今村昌平の息子だが、父親とはまったく違う作風。いやイマヘイの映画にもユーモアはあふれているのだが、あの粘っこい描写は見当たらず、さわやかな作風なのだ。どこかアメリカナイズされたところがあり、これが劇場映画2作目(1作目はドキュメンタリーだったから劇映画は初めて)とはとても思えない出来である。父親の作品4本で脚本を務めたことがかなり勉強になっているのではないか。

 それにしても、いかさまのサマ子を演じるともさかりえは良かった。初めて良さを引き出されたのではないかと思う。石橋凌の穏やかな合気柔術の先生役も実にぴったりな感じだった。「下半身マヒの世界へようこそ」と言う火野正平とテキヤを演じる桑名正博も絶妙のおかしさである。脚本が良くできていて、役者のアンサンブルが素晴らしければ、映画が面白くなるのは当然だ。

2003/01/22(水)「壬生義士伝」

 「たそがれ清兵衛」と同じ東北の下級武士が主人公で、清兵衛と同じく剣の達人。主人公が幕末の戦乱で死ぬところまで同じである。しかし、描かれること、描き方は大いに違う。主人公は貧困に苦しむ妻子を救うために脱藩し、新撰組に入るが、「義のために」負け戦に参加し、「義のために」死ぬのである。国家や組織のために自分を捨てて忠誠を誓うという考え方は気持ち悪くてしょうがないので、この映画にもまったく乗れなかった。

 映画の作りとしても、戦いで重傷を負った主人公のその後を延々と描き、その子どものことまで描く構成は何とかならなかったのか。主人公がかなわないと分かっていながら、朝廷の軍へ突撃する場面で終わっていれば、まだ映画の印象は良くなったのかもしれない。余計なことを描きすぎなのである。主人公の話に絞らなければ、長い原作を映画化するのは無理。ダイジェストにしかならない。

 「たそがれ清兵衛」が主人公の貧しさを前半で徹底的に描いたのとは対照的に、この映画での貧しさは記号のようなものである。だから話に説得力が足りないし、薄っぺらなのだ。だいたい、貧しさから抜け出すために人殺し集団の新撰組に入った主人公には共感を持ちようがない。自分の家族を救うためなら、こいつは平気で人を殺すのだ。キネマ旬報1月下旬号で佐藤忠男が指摘しているように、前半は家族のために動いていた主人公が後半、義のために動くのはテーマの突き詰め方が足りなかったためだろう。お涙頂戴のレベルを超えられなかったのはそのためだ。映画の作りが安いのである。

 監督は滝田洋二郎。ひいきの監督なのだが、今回は支持できない。主人公の吉村貫一郎を演じる中井貴一は好演しているものの、多少オーバーアクト気味なところが気になった。妻役の夏川結衣は鈴木京香に似ている。

2003/01/17(金)「アイリス」

 イギリスの作家ジョン・ベイリーが妻のアイリスについて書いた原作をリチャード・エア監督が映画化。現在の(というか年老いた)ベイリーを演じたジム・ブロードベントはアカデミー助演男優賞を受賞した。現在のアイリス役のジュディ・デンチは主演女優賞ノミネート、若い頃のアイリスを演じたケイト・ウィンスレットは助演女優賞にノミネートされた。

 アルツハイマーが進行するアイリスを絶妙に演じるデンチには感心したし、それを温かく見守るブロードベントもうまいのだが、それ以上にウィンスレットが良い。この女優、決してスタイルが良いわけではないが、豊満な感じが奔放なアイリス役にぴったりだ。ウィンスレットが出ていなかったら、映画は輝きを失っていただろう。デンチを見ているよりもウィンスレットを見ている方がもちろん楽しく、若い頃のパートをもっと多くしてほしかったと思う。

 リチャード・エアの母親もアルツハイマーだそうで、映画は43年間に及ぶ夫婦愛とともにアルツハイマーの描写が大きな部分を占める。言葉にこだわりを持っていたアイリスが言葉を失っていく過程は残酷で哀しい。

 この映画が日本初公開作となるエアの演出は輝く過去(それは若さの輝きでもある)と悲惨さを増す現在を描き分けているのだが、話の進め方としてはやや単調になってしまった。役者たちが3人もアカデミー賞にノミネートされながら、作品賞にノミネートされなかったのはそのためだろう。もう少しメリハリを付ける必要があった。

 ウィンスレットが素晴らしすぎたために老年の夫婦の描写と若い頃のラブストーリーが乖離してしまった印象もある。あんな風にして結ばれた夫婦がアルツハイマーに冒されるという風になるはずが、別々の映画を見ているような感じを受ける。ウィンスレットとデンチに落差がありすぎるのである。アルツハイマーはこの映画の重要な主題であり、難しいところなのだが、もっと明確に夫婦愛とアルツハイマーのどちらに重点を置くかを決めた方が良かったのではないか。

2003/01/11(土)「運命の女」

 ダイアン・レインとリチャード・ギアが「コットン・クラブ」以来18年ぶりに共演したサスペンス。クロード・シャブロル「La Femme Infidele」を元に「危険な情事」のエイドリアン・ラインが監督した。

 会社社長の夫エドワード(リチャード・ギア)の妻で何不自由ない生活を送っているコニー(ダイアン・レイン)が強風のニューヨークで若いポール(オリヴィエ・マルティネス)に出会い、情事を重ねるようになる。それはやがて夫に知られ…、という展開。元がフランス映画だけに大人の映画になっており、ラストの処理には味わい深いものがある。「危険な情事」のように安易なホラーになったりはしない。特に後半、危機に陥った夫婦が絆を取り戻していく描写などギアとレインの演技も含めて感心した。しかし、細かいところで微妙に違うなと思わせる部分が残る。

 一番の疑問はなぜコニーはポールに惹かれたのか、という肝心の部分である。もの凄い強風(ホントに何かの冗談じゃないかと思えるぐらいの強風)のソーホーを歩いていたコニーは本を抱えて歩いていたポールとぶつかり、転んで足にけがをする。親切なポールは部屋で手当てをするよう勧める。その時は何のこともなく終わり、続いて2度目にお礼をしにアパートに行った時も何もなく終わる。しかし、コニーは三度、ポールのアパートを訪ね、そこで2人は一線を越えてしまうのである。このコニーの3度目の訪問の気持ちが良く分からない。

 夫に不満があるわけではない。エドワードがかなり高齢でコニーが性生活に不満をもっていたとか、そんなこともない。ポールがコニーに対して特別に積極的だったわけでもない。本で埋まったポールの部屋を見せ、そのユニークさを映画は描こうとしているのだが、コニーとの出会いが運命的なものには感じられないのである。例えば、コニーの役柄が軽薄な女であったなら、こういう展開でも納得できたのかもしれない。でも演じるのがダイアン・レインですからね。軽薄になりようがないのである。

 あるいはエドワードの役がリチャード・ギアではなく、もっと高齢の俳優であったなら、コニーはポールの若さに惹かれたのだという説明もできる(ちなみに元の映画ではこの役はミシェル・ブーケである。やっぱり、という感じがする)。しかし、ギアはいたって若く見えるのである。ならば、なぜコニーはポールに惹かれたのか、そこのところを詳しく描く必要があったように思う。

 恋愛は理屈ではないが、映画は理屈なのだ。理屈ではない部分に説得力を持たせる必要があるだろう。キャストを変えれば、説得力はあったのかもしれないけれど、ミスキャストというにはギアもレインも十分に好演している。だからこれは微妙な齟齬と言うほかない。

 前半のレインはセクシーさも含めて非常に良いのだが、中盤、妻の情事を知ったエドワードが苦悩をにじませてポールのアパートに行く場面のギアの演技がなかなかである。なかなかではあるが、感情を爆発させる部分にこれまた少し説得力が足りない。アルヴィン・サージェントとウィリアム・ブロイルズ・Jrの脚本には詰めの甘さが残る。前半は妻の話なのに後半は夫中心の話で、物語の視点が動くのも気になる。どちらかに(特に夫の視点の方に)統一させた方がすっきりしたのではないか。