2001/08/28(火)「キス・オブ・ザ・ドラゴン」

 ジェット・リー主演のアクション映画。キネマ旬報9月上旬号に「全米の批評家からの評価だが、必ずしも良好とは言えず、また観客からの受けもいまひとつといったところ」とあるが、十分に面白い出来。監督のクリス・ナオンよりも、製作・脚本のリュック・ベッソンのタッチが色濃く出ている。ジェット・リーはパンフレットで警察署殴り込みのシーンについて「一番意識したのは高倉健の任侠映画」と語っている。僕は映画全体に日活アクションの世界を連想した。アクション映画の定石を外していない作りに好感が持てる。

 中国の秘密捜査官リュウ(ジェット・リー)が麻薬組織摘発に協力するため、パリにやってくる。フランス側の捜査の代表はリチャード警部(チェッキー・カリョ)。ところが、リチャードはホテルで麻薬組織のボスを殺し、その罪をリュウになすりつけようとする。リチャードは麻薬組織に絡む悪徳警部だったのだ。という巻き込まれ型のプロット。警察からも組織からも追われ、リュウはたった一人でリチャードに戦いを挑むことになる。

 ジェット・リーは今回、製作にも関わり、特にアクション場面について自らアイデアを出したという。アクション監督は長年リーと組んでいるコーリー・ユエン。ホテルや街頭、船の上などで密度の濃いアクションが次々に披露される。ジャッキー・チェンとはひと味違ったこうしたアクションも見どころなのだが、それ以上に映画の細部に手を抜いていない。凶暴で狡猾なリチャード警部の役柄は「レオン」のゲイリー・オールドマンを彷彿させる。センチメンタルな濡れた音楽(クレイグ・アームストロング)も「レオン」のよう。加えてリチャードに迫害され、地獄のような日々を送っている薄幸な娼婦役ブリジット・フォンダがとてもいい。小品だが、しっかりと作られた佳作。

 「キス・オブ・ザ・ドラゴン」というタイトルの意味はラスト近くで判明する。あまり本筋とは関係ありません。

2001/08/28(火)「アメリカン・サイコ」

 シリアル・キラー(連続殺人犯)はプアー・ホワイト(低所得者層の白人。しかも幼児虐待の経験がある場合が多い)というのがお決まりだが、この映画の主人公は裕福な環境にある。80年代のヤッピーを描いて、どこか「レス・ザン・ゼロ」のような雰囲気だなと思ったら、その通り原作は「レス・ザン・ゼロ」の原作者ブレット・イーストン・エリスの3作目に当たるそうだ。だからこれは一般的なサイコ映画とは違っている。イーストン・エリス、自分の土俵で相撲を取ったな、という感じである。

 原作がどうなっているかは知らないが、監督・脚本のメアリー・ハロンが取ったのもヤッピーの苦悩としての殺人(といっても当初、本人は苦悩を自覚していないだろう)。シリアル・キラー自体がテーマではなく、あくまでヤッピーの描写の方が重点であり、カリカチュアライズと皮肉なタッチが随所にある。

 主人公のパトリック・ベイトマン(クリスチャン・ベール)はウォール街の一流企業ピアース&ピアースで副社長の地位に就いている。毎日エクササイズに精を出し、健康に気を遣い、美しい婚約者がおり、何不自由ない生活。しかし、内面は空っぽだ。仲間とは、作った名刺の出来を比べ合ったりする(自分より出来のいい名刺を持っている奴に嫉妬し、殺人の動機の一つになるのがおかしい)。上辺を取り繕った生活の中で、ベイトマンはある夜、衝動的にホームレスを殺す。それから殺人の衝動を抑えられなくなる。自分よりいい暮らしをしているビジネスマン、街で買った娼婦、自分の秘書(クロエ・セヴィニー)までも殺そうとする。

 ベイトマンはエド・ゲインやテッド・バンディに言及し、ビデオで「悪魔のいけにえ」を見ているぐらいだから、シリアル・キラーには関心があるようだ。思わず笑ってしまうシーンが挿入される映画自体も別に悪い出来ではない。ただし、やっぱり連続殺人とヤッピーとは結びつかない。苦悩の果ての殺人なら分かるが、殺人が日常化するのに説得力がないのである。ヤッピーの空虚な日常を描くのなら連続殺人を持ち出す必要はなかったのではないか。

2001/08/21(火)「ドリヴン」

 シルベスター・スタローンとレニー・ハーリンが「クリフハンガー」以来8年ぶりに組んだカーレースの映画。脚本もスタローンが書いているが、これがひどい出来。人間関係の描写にリアリティーを欠き、ドラマは盛り上がらず、もうアマチュアが書いたとしか思えない脚本である。スタローンは製作を兼ねているから、ハーリンとしても修正しにくかったのだろう。しかし、演出に関しても見るべき所はほとんどない。

 映画が描くのはF1ではなく、CARTというレース。世界を転戦して順位を競うのはF1と同じで、日本のツインリンクもてぎも出てくる。

 昨年度のチャンピオン、ボー・ブランデンバーグ(ティル・シュワイガー)と無名のルーキー、ジミー・ブライ(キップ・パルデュー)が優勝を競っている今年のレース。シカゴで行われたレースでジミーはボーに敗れ、チームのオーナーであるカール・ヘンリー(バート・レイノルズ)はかつての名レーサー、ジョー・ダント(シルベスター・スタローン)に支援を頼む。ジョーはレース中の事故で引退し、今は隠遁生活を送っていたが、カールの誘いで久しぶりにレースに復帰する。主演とはいってもスタローンは一歩下がった形ではある。年齢的に見て、これは妥当な判断だろう。

 ただし、やはり出たがりのスタローンであるからコーチ役に徹しているわけでもない。自信を失っているジョーの再生を図る物語にすれば良かったのに、とりあえずアドバイスめいた言葉を口にするだけ。この主人公が2人いるような設定が失敗の要因かもしれない。

 人間関係のドラマにしてもボーの恋人ソフィア(エステラ・ウォーレン)がちょっとしたことで別れ、ブライと付き合い、やっぱりボーの元へ帰る描写などどうでもいい感じ。ボーを悪役としては描いていないから、2人の男の間を行ったり来たりするウォーレン(「猿の惑星」)がなんだかバカな女にしか見えない。

 スタローンと元妻の描写に関してもこれは言え、こういうドラマの部分はほとんど雑である。こんな人間関係を描くぐらいなら、もっとレースの本質に迫るべきだった。ハーリンはカーレースが好きと言っているが、本気で好きならマニアックな部分が出てきてもいいはずだ。

2001/08/18(土)「千と千尋の神隠し」

 傑作の多い宮崎駿の映画の中でも1、2を争う完成度と思う。完璧なものを見せられた、という感が強い。

 10歳の少女千尋が引っ越しの途中、両親と一緒に異世界に迷い込む。両親は無断で料理をガツガツと食ったために豚になる。働く意志のない者は排除される世界。人間はいず、魔物が跋扈する。千尋は恐ろしい世界に立ちすくむが、ハクという名の少年に助けられ、八百万の神たちが休息に訪れる風呂屋「油屋」で働くことになる。油屋を支配するのは魔女・湯婆婆。千尋の両親を豚に変えたのも湯婆婆だった。何もできなかった千尋は懸命に働き、やがて周囲の理解を得るようになる。

 宮崎駿は硬派の人だから、この映画にも至る所に現実世界のメタファーが入り込む。千尋の父親が異世界の風景を見て「90年のバブル崩壊で潰れたテーマパークの一つ」と断じる場面からしてそうである。両親の庇護を離れた少女はどうするか。どうすればいいのか。宮崎駿はさまざまなメタファーを織り込みながら、それを描いている。

 ファンタジーは閉じた世界を描く手法であり、豚になった両親の救出と異世界からの脱出を描くこの映画もまたきれいに閉じた世界を描いている。完成度が高いのはこのプロットが分かり易いからでもある。物語の決着をどこにもっていくか迷いが見られた前作「もののけ姫」よりも数段優れた映画になったのはそうしたことも要因と思う。しかし、それだけではない。カオナシ、クサレ神、湯婆婆といった登場人物に代表されるイマジネーションの豊かさ、細部の作りの豊かさにはうならされてしまうのだ。

 千尋というキャラクターは普通の少女のようでいて、実はコナンやルパンやナウシカの血を継ぐ宮崎駿ならではの魅力を持ったキャラクターだ。油屋の外にある階段を転げ落ちるようにして駆け下りる千尋の描写は「ルパン三世 カリオストロの城」のルパンを彷彿させる。その懸命な生き方、悪に染まらないまっすぐな心を見ると、胸が熱くなる。

 この映画には絶対的な悪は登場しない。登場人物はその環境によって悪にも善にもなりうる存在として描かれている。その意味でエコロジーの先駆けとなった「風の谷のナウシカ」に通じる作品でもあると思う。傑作にして、既に名作。必見。