2002/06/29(土)「マジェスティック」

 第2次世界大戦に出征した若者のうち62人が戦死し、片田舎の小さな町ローソンは未だに悲しみに沈んでいる。そこへ9年半ぶりにMIA(戦闘中行方不明者)だったルーク(ジム・キャリー)が帰ってくる。ルークは以前の記憶をすっかりなくしていたが、戦場での勇敢な行動で勲章をもらった町の英雄とも言える人物。父親ハリー(マーティン・ランドー)は息子の帰還を喜び、恋人アデル(ローリー・ホールデン)との愛も甦る。ルークとハリーは閉鎖された映画館マジェスティックを再開し、町には久々に活気が戻る。

 もちろん、映画はこの前にルークが実はピートという新進の脚本家であり、非米活動委員会から学生時代の共産党主催の集会への参加をとがめられて聴聞されようとしていた人物であることを語っており、観客は真相を知っているのだが、この1950年代の美しい田舎町の描写がとにかく素晴らしくよい。小さな諍いはあっても、町の人たちは善人ばかり。国を信じて出征した息子たちの死の悲しみを抱きつつ平和に暮らしている。主人公とアデルがゆっくりと愛をはぐくむシーンはとてもロマンティックだ。

 そんな平和な町に地響きを立て車を連ねてやってくるFBIは悪魔のようだ。赤狩りに狂乱状態となったアメリカは本当のことを言える状況にはなかった。だからこそ、フランク・キャプラ映画のジェームズ・スチュアートを思わせるジム・キャリーのクライマックスのセリフには強く胸を揺さぶられる。「ルークだったら、こう言ったでしょう。俺たちはこんな国のために戦って死んだわけじゃない」。その言葉に町の老人がつぶやく。「自由を守らなければ、彼ら(戦死した町の若者たち)は犬死にだ」。

 フランク・ダラボンははっきりと、キャプラへのオマージュを捧げている。脚本でうまいのは主人公を理想主義の人物にはしなかったこと。ジェームズ・スチュアートが演じたような善人で悪を許さない高潔な人物は今描けば、パロディに近くなる。そこで脚本のマイケル・スローン(ダラボンの高校時代の友人という)は主人公の恋人アデルに自由と正義を信じる役割を振った。アデルは子どものころに見た映画に影響されて弁護士になろうと決意した女性であり、主人公に議会での偽りの証言は間違いだと諭す。アデルが託した合衆国憲法とルークの手紙を読んで、直前まで投獄を逃れるために偽りの証言をしようとしていたピートは用意していた声明文も読まず、告発もしないのである。

 「幸せの黄色いリボン」を思わせるようなラストで感動が最高潮に達する。そんな理想は現実には通用しないよと分かっていても、共感せずにはいられなくなる。

 非米活動委員会がやったことは、この映画の描写ではとても足りないが、これは普通の人たちが勇気と希望を取り戻す物語であり、正義と真実が勝利する物語なのである。ジム・キャリー、マーティン・ランドーをはじめ出演者たちが絶妙。2時間33分をゆったりとしたペースで綴るダラボンの演出もうまい。「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」を超えてこれはダラボンのベストと思う。

2002/06/23(日)「陽はまた昇る」

 ビクターの横浜工場ビデオ事業部がVHSを開発し、販売にこぎつけるまでの苦闘を実話に基づいて描く。ということは知っていた。NHKの「プロジェクトX」が元になったそうで、この番組、あまり見ていないが、映画が感動の押し売りになっていたら嫌だなと気構えて見た。

 監督デビューの佐々部清はそういう危惧を払拭するように手堅く真摯にまとめている。西田敏行がいつものような熱演タイプの演技であるとか、主人公の家族の描写に時間を割いている割にはあまり効果を挙げていないとか、さまざまな瑕疵はあるにせよ、一本筋の通った映画に仕上がっており、デビュー作としては合格点と言える。佐々部清は崔洋一、和泉聖治、杉田成道、降旗康男らに助監督としてついたそうだが、降旗の映画の感触に近いものがある。

 主人公の加賀谷静男(西田敏行)は日本ビクターの開発技師。あと数年で定年を迎えるところで、横浜工場のビデオ事業部長の辞令が下る。高卒の加賀谷が事業部長となるのは異例だったが、実は業務用ビデオを生産する横浜工場はビクターのお荷物的存在。体のいい左遷だった。不況にあえぐビクターは全部門に2年間で20%の人員削減を命じる。横浜工場の人員は241人。50人近い人員のリストラを課せられたことになる。加賀谷は1人の首も切りたくなかった。営業に力を入れ、家庭用VTRの開発で人員を守ろうとする。

 しかし、そんな努力も虚しく、SONYが一足先にベータマックスを発表してしまう。ベータマックスの録画時間は1時間。加賀谷たちは残業を重ねて、2時間の録画が可能な試作機のVHS(Video Home System)を完成させた。通産省はVTRの規格が乱立することを恐れ、家電業界に統一を促す。業界はベータマックスの導入に傾く。ビクターもベータに傾くが、ここでビクターがベータを選べば、工場のスタッフの努力が水の泡になる。加賀谷は世界規格を目指してVHSの技術を公開。松下電器をVHS陣営に引き入れるため、松下幸之助(仲代達矢)に直訴し、VHSの優秀さを訴える。

 リストラされるサラリーマンの悲哀を感じさるを得ず、目頭を熱くさせる描写がところどころにある。部下を救うために必死の努力を重ねる西田敏行の姿もいいが、それを補佐する次長の渡辺謙や下請け工場の社長を演じる井川比佐志、加賀谷たちの努力をくんでVHSの発売を決めるビクター社長夏八木勲らが好演している。

 こういう普通の感動作が日本映画にはもっと必要だろう。いや感動作でなくとも、奇をてらうことなく普通のしっかりした映画を作れば、観客はもっと映画館に足を向ける。

2002/06/15(土)「ブレイド2」

 なぜかパンフレットが出ていないそうだ。映画館におことわりがあった。版権関係のためらしい(原作はアメコミである)。

 ウェズリー・スナイプス主演のヴァンパイアハンターものの第2作。主人公のブレイドはヴァンパイアと人間の混血で日光に影響を受けないため、デイウォーカーと呼ばれる。しかし、血への渇きは共通しており、ブレイドは血清でそれを抑えている。前作はワイヤーアクションをはじめとした香港映画の影響ありありの展開に驚いたが、それがなくなると、苦しい。いやアクションは今回も豊富なのだが、もはやアメリカ映画の中にある香港アクションには驚かなくなってますからね。こういうアクションはアメリカ映画でも普通のことになってしまった。

 ブレイドは前作でヴァンパイアにされた“心の父”ウィスラー(クリス・クリストファーソン)の行方を追っていた(てっきり死んだものと思ってましたね)。ようやくヴァンパイアの隠れ家を見つけ、そこでウィスラーを救い出し、レトロウィルスでDNAを替えて、人間に戻す(こんなに簡単なら、皆そうしてしまえばいいのに)。次の日、ブレイドのアジトを2人のヴァンパイアが訪れる。ヴァンパイアの突然変異リーパーズ(死神族)が現れ、ヴァンパイアたちを餌食にしているというのだ。ヴァンパイアが皆やられたら、次にリーパーズが襲うのは人間。ブレイドはヴァンパイアの首領ダマスキノス(トーマス・クレッチュマン)に頼まれ、リーパーズに立ち向かう。ブレイドに協力するのはブレイドを倒すために作られた軍団ブラッド・パック(!)。ブレイドたちはリーパーズの隠れ家に攻め込み、大量のリーパーズたちと決死の戦いを繰り広げる。

 リーパーズは顔の下半分がパカッと割れて、大きな口を開ける。エイリアンの卵みたいなメイクアップである。心臓は骨に覆われ、普通に杭を刺して殺すことはできない。銀の弾丸も平気(もともと平気じゃないか? 銀の弾丸に弱いのは狼男だよ)。弱点は日光のみ、と従来のヴァンパイアより数段強力。あちこちに出てくるSFXはあまり上等ではないが、そこそこ見られる。

 監督は前作のスティーブン・ノーリントンに代わって「ミミック」のギレルモ・デル・トロ。「ミミック」ほどの出来にはなっていず、続編の例にも漏れず、前作の8割程度の面白さ。B級アクションファンにはお薦めか。ただ個人的には描写のグロさが気になった。

2002/06/08(土)「KT」

 金大中拉致事件を描くポリティカル・サスペンス。日韓の工作員が暗躍する、こういう闇の部分を描く映画が成立すること自体、日本映画では珍しい。未だに真相が分からない金大中事件は貴重な題材なのだ。

 で、十分面白いかというと、面白いことは面白いがメリハリを欠いたな、というのが率直な感想。韓国大使館の一等書記官でKCIAの命令に従って拉致を決行する金車雲(キム・ガプス)が一直線なキャラクターであるのに対して、日本側のキャラクターはどこかねじれており、拉致に協力する自衛隊員・富田満州男(佐藤浩市)には分からない部分が残る。三島由紀夫に共感し、反共意識を持つ人間というキャラは分かるのだが、それが拉致に協力していく考え方の変化が十分には描かれていない。佐藤浩市の演技そのものは良いのだが、主役がこういうあいまいな状態では困る(荒井晴彦の脚本ではこれが書き込まれていたようだ)。

 富田と恋に落ちる韓国人女性・李政美(ヤン・ウニョン)との関係も、ラストへの重要なエピソードになるわけだからもっと描きこむべきだったように思う。大衆紙の記者・原田芳雄は特攻隊と共産主義のどちらにも愛想を尽かし、右でも左でもない人物だが、やはり事件の中核には関わりようがない。韓国語を話せない在日韓国人・筒井道隆の役柄は最後に泣いて終わるだけではもったいない気がする。

 キム・ガプスの強面の演技と悲劇的なキャラクターは強い印象を残す。興行上の問題は別にして、最初の意図通り、こちらを主演に据えた方が映画としてはまとめやすくなったのではないか。

2002/06/08(土)「模倣犯」

 原作は未読。よく分からない部分が二つほど(結末の赤ん坊とか。でもこれは原作にはないようだ)あったので、本棚に積ん読状態だった原作を読み始めた(この映画、原作の販売促進効果があるのではないか)。で、読んでいない時点での感想をとりあえず書いておくと、あまり面白くはないが、まったくダメではないというところか。

 映画が始まって、豆腐屋の孫娘が殺され、雑誌記者のダンナが殺され、その他何人かの女が殺されるまでの描写は非常に雑である。いったい何人殺されたのかも分からず、本来ならじっくり描くべき豆腐屋のじいさん(山崎努)の無念の思いもあっさり流れている。感情移入しようがないような描写に終始して、とりあえず原作の設定を話し終えましたという感じ。

 ところが、ピース(中居正広)が出てきて、グッと調子が変わる。中居正広が好演しているのである。それまでとは違う映画になり、描写も丁寧になる。頭はよいが、どこかねじれた方向に行ってしまったピースと浩美(津田寛治)の関係はなかなかいいし、それまでの話を別の視点で語り直すのも面白い。

 この部分はなんとなく「アメリカン・サイコ」を思わせる話なのだが、残念なことに「アメリカン・サイコ」同様、犯人が殺人を続ける理由にあまり説得力がない。森田芳光監督としてはシリアル・キラーを描くことよりも犯人と山崎努の対決に話を絞っていくのが狙いだったようだ。しかし、犯人の動機や背景を十分に描いてくれないと、こういう話では面白くないのだ。中居VS山崎の構図は道徳的な結論に至り、意外性はない。