2001/06/19(火)「マレーナ」

 こちらはジュゼッペ・トルナトーレ監督の「海の上のピアニスト」以来の作品。戦時中のイタリア、シチリア島。村一番の美女マレーナ(モニカ・ベルッチ)に少年レナート(ジュゼッペ・スルファーロ)が恋心を抱く。マレーナは結婚して2週間で夫が出征。海岸近くの家で一人で暮らしていた。その美貌は村中の男たちから憧れの的。ただし、女たちからは憎しみの的となっている。

 ある日、マレーナの夫が戦死した知らせが届く。生活に困ったマレーナは歯医者との交際を経て、娼婦に堕ちていく。終戦の日、村の女たちは「ふしだらな女」と非難してマレーナに集団リンチを加え、村から出ていくよう命じる。半裸の姿でマレーナは逃げるように村を出ていく。映画はこのマレーナの様子を少年の目から描く。イタリア映画によくある思春期の少年の性の目覚めの描写も取り入れられているが、マレーナが村を出ていく場面まではまあ、普通の映画である。ここがロバート・マリガン「おもいでの夏」ぐらいの出来なら、もっと映画の評価は高まるところ。

 「ニュー・シネマ・パラダイス」以降、高い評価を得ているトルナトーレだが、僕はそれほど買っていない。「ニュー・シネマ・パラダイス」は完全版でさえ、単なるすれ違いのメロドラマとしか思えなかったし、「海の上のピアニスト」もラストに感心しなかった。技術的には大したことない監督なのだが、主に大衆性で支持を集めているのだと思う。この映画もほとんどの場面はなんてことない映画である。ただ、今回、ラストの処理には感心した。

 戦死したと思われたマレーナの夫は生きていた。夫はマレーナを捜して村を出ていく。そして1年後、村の大通りを夫に腕を絡ませてうつむき加減で歩きながらマレーナは帰ってくる。村の女たちは「少し目尻にしわができた」などと陰口をたたくのだが、ひどいことをした負い目もあってか、マレーナを受け入れるようになる。さまざまな悲惨な運命にもまれたことを表面に出さず、楚々として存在するマレーナは素晴らしい。決して少年の憧れを砕くようなくだらない女ではなかったのである。モニカ・ベルッチは何となくイザベル・アジャーニを思わせる美人。演技的にはあまりうまくないようだが、セリフが少ないのが幸いしてか、魅力的な雰囲気で映画を支えている。

 2000年度のアカデミー賞ではオリジナル作曲賞(エンニオ・モリコーネ)と撮影賞(ラホス・コルタイ)にノミネートされた。

2001/06/19(火)「デンジャラス・ビューティー」

 FBI捜査官がミス・アメリカコンテストに出場者として潜入し、爆弾魔の犯行を防ごうとするコメディ。男勝りの捜査官に扮するのはサンドラ・ブロック。元々が美人なので、周囲がブス、ブスというのに美人にしか見えないのはご愛敬。ベテランの美容コンサルタントのビクター(マイケル・ケイン)の指導の下、48時間で見違えるようなスタイル抜群の美人になる。

 元ネタが「マイ・フェア・レディ」なのは明確だが、サンドラ・ブロックはアクションもしっかり披露し、頑張っている。問題は犯人の設定で、あんなことが犯行の動機になるのか、大いに疑問。後半が腰砕けになってしまったのは残念。ま、ブロックを見るだけでも価値はあるかもしれない。

 監督はドナルド・ピートリー。「ミスティック・ピザ」「ラブリー・オールドメン」「リッチー・リッチ」とこういうコメディの演出は手慣れているようだ。ただ、光る部分はありませんね。

2001/06/13(水)「ギャラクシー・クエスト」

「Never Give Up! Never Surrender!」という(このセリフ、見た人には分かる)非公式サイトまでできている。さらにアメリカではSFファンが選ぶヒューゴー賞の映画部門で最優秀賞を受賞(2000年度)。この時の候補作品には「マトリックス」「マルコヴィッチの穴」「シックス・センス」「アイアン・ジャイアント」とレベルの高い作品ばかりがそろっていたのだから大したものである。

 テレビシリーズ「ギャラクシー・クエスト」の登場人物たちが、本物と間違われ、サーミアン星人に助けを求められる。サーミアンは邪悪な異星人サリスに苦しめられていた。宇宙基地に連れてこられたギャラクエの一行はとんでもないところへ来たと逃げだそうとするが、戦場のまっただ中で逃げるに逃げ出せない状況。仕方なく、サリスと戦うことになる。

 サーミアンは嘘という概念を知らず、テレビ番組をドキュメンタリーと信じていた、という設定がもうおかしい。英雄と間違われて主人公が戦う羽目になる話はけっこうある(SFオンラインは「サボテン・ブラザース」を挙げていたが、ほかにもありそう。「キャプテン・スーパーマーケット」もこれに入るかな)。この映画、架空のテレビシリーズを基に架空の物語を積み重ねた多重構造がSFそのものだ。「ギャラクエ」のモデルとなったのはもちろん「スター・トレック」だが、SF映画とそのファンダムをカリカチュアライズしているようで実は理解を示す展開になっており、そこがファンの支持を集めた理由でもあるのだろう。

 しかもスタン・ウィンストンが手がけたクリーチャーなどSFXが半端じゃないのである。パスティーシュながら、本気でSFとして映画化している点が非常に好ましい。ラスト、ファンダムの会場に宇宙船が突っ込むシーンは夢が現実化した瞬間とも言える。

 主人公の艦長を演じるのはティム・アレン。紅一点のシガニー・ウィーバーはホントはもっと若い女優がいいのだろうが、20年前のテレビシリーズに出ていたという設定だからこの年齢になるのでしょう。いや十分、魅力的でした。スポックのモデルと思われる“トカゲ頭”のアラン・リックマンもおかしい。

2001/06/12(火)「ハムナプトラ2 黄金のピラミッド」

 2年前の前作について僕はネガティブな感想を持ったが、今回はまず満足できる仕上がりと思う。SFXがスケールアップしているからではなく、主役の2人、ブレンダン・フレイザーとレイチェル・ワイズがこの2年間でスターへのキャリアを着実に積んできたことが影響しているのだろう。

 フレイザーはコメディだけでなく、シリアスな演技もうまいことを「ゴッドandモンスター」で証明したし、ワイズも「スターリングラード」の好演が記憶に新しい。ワイズは今回、アクションも見せ、戦うヒロインを魅力的に演じている。

 タイトルもなく始まった冒頭で紀元前3500年の伝説の戦士スコーピオン・キング(ザ・ロック)の誕生を凄いSFXで見せる。アヌビスの怪物たちの大群(ほんとにウォーッと思えるほど地の果てまで埋め尽くすような大群)が攻めるシーンはCGと分かっていても十分なスペクタクルだ。舞台変わって現代。前作から8年後の1933年。リック・オコーネル(ブレンダン・フレイザー)とエヴリン(レイチェル・ワイズ)は結婚し、8歳の息子アレックス(フレディ・ボース)と幸せに暮らしている。エジプトで相変わらず秘宝探しを続けているが、そこでスコーピオン・キングが残した腕輪を見つける。一方、大英博物館の館長はミイラのイムホテップを再び甦らせようとしていた。甦ったイムホテップの一団は腕輪をはめたアレックスをさらい、スコーピオン・キングのオアシスへ向かう。スコーピオン・キングを倒せば、世界最強の力を手に入れることができるのだ。

 前半のエモーショナルなものがない単なるSFXではやはり盛り上がらない。後半、人間関係の因縁(なんとエヴリンは○○○で、リックは○○○だった!)とリックとエヴリンの絆がはっきりするにつれて面白くなった。やはりアクションなりSFXなりにはそれなりの理由が必要なのである。リックとエヴリンに対するイムホテップとアナクスナムンの関係もドラマを盛り上げている。クライマックス、危機に陥ったリックとエヴリンが交わす視線は「俺たちに明日はない」みたいで良かった。

 この終わり方では第3作も作れるような気がする。今回は○○○としてのリックの覚醒もなかったし、スコーピオン・キングを倒したことによる強大な力も披露されなかった。ま、細かい所に疑問はつく映画なのだが、クスクス笑いと爆笑の連続なのは前作と同じ。演出的にも主役2人の演技もよくなった分、前作よりは楽しめる出来である。

2001/06/05(火)「日本の黒い夏 冤罪」

 松本サリン事件のマスコミ報道と警察の捜査を批判した熊井啓監督作品。訴えていることは十分まともなのだが、パッケージングが古い。熊井啓は正直な作風だから、こういう展開、作り方になるのだと思う。現代にアピールするタッチに変える必要があると思う。昭和30年代の映画といわれてもそのまま通るような劇伴(この言葉通じないか)、セリフ回しである。

 優等生的視点から「ここが悪かった」と言われても、「はあ、そうですか」と答えるしかない。高校生を狂言回しにするあたりがいかにもという感じ。これは高校生に対して「まだ純粋」という幻想を抱いている証拠である。

 視聴率アップが至上命題のテレビ局と部数拡大がそれの新聞社。加えてメンツにこだわる警察が生み出したまれにみる冤罪劇。夜回りは警察担当記者の使命だけれど、警察のお先棒かつぎになる危険がつきまとう。情報を得るためには警察幹部のご機嫌もうかがわなくてはならない。そのあたりにもう少し踏み込むと、厚みが増したと思う。

 映画の構造として報道に良心的なテレビ局を舞台にしたのはどうか。これはむしろ、被害者の立場から描いた方が説得力が得られたのではないか。

 急いで付け加えておくと、熊井啓のような社会派の監督は今の邦画界には貴重な存在である。エンタテインメントだけを志向していては、邦画は薄っぺらになると思う。次作も是非、社会派の題材で作れるよう期待したい。