2014/11/24(月)「紙の月」

 いくらなんでもこのラストは吉田大八監督のアレンジだろうと思った。まるでリドリー・スコット監督の「テルマ&ルイーズ」を思わせる弾け方なのだ。ついでにもう一つ、映画で気になったことがあったので、確認のために、見終わってすぐに角田光代の原作を読んだ。ハルキ文庫版には吉田監督が解説を書いている。

 意外なことに原作のプロローグは映画のラストに当たる場面だ。しかし、映画で感じた主人公・梨花(宮沢りえ)の開き直った能動的な変化はここにはない。吉田監督は当初の映画化の構想について解説にこう書いている。

 梨花の「ほんとう」が再起動するのは全てを捨て、渡ったタイ・チェンマイに於いてだろうとまず考えた。

 だから日本の話は三分の一、残りはタイで逃げ続ける梨花を撮る。イミグレーションを越え、国境地帯をさまよい、最後は武装警察あるいは軍隊による包囲網を突破して走り続ける。立ち止まらないことで不可能を可能にする梨花、映画にするとしたらそれしか考えられないと僕は二回目の打合せでプロデューサーに訴えた。僕と初めて仕事をするプロデューサーはただ微笑んでいた。

 「テルマ&ルイーズ」を想起させられたのも間違っていたわけではなかったようだ。そういう風にしたいという思いを監督は演出でこの終盤に表現したのだろう。

 原作は日常の小さな違和感や不満が積もる様子を梨花だけでなく、その友人についても描いていく。映画ではこの違和感や不満を腕時計のエピソードで象徴している。梨花が夫(田辺誠一)のために買った安いペアウォッチを夫は仕事にしていこうとしないばかりか、経済的優位性を示すかのように梨花にカルチェの時計をプレゼントするのだ。そうした中、梨花は平林光太(池松壮亮)と出会う。銀行の顧客である光太の祖父(石橋蓮司)の自宅で会った後、駅のホームで光太とすれ違い、短い言葉を交わす。そして3度目、駅の反対側のホームで光太を見つけた梨花は光太のいるホームへ向かう。映画はこの後、ホテルに行く2人の場面に移るのだが、ここの梨花の心理が僕には分からなかった。

 原作ではこうなっている。祖父の家で出会った後の帰り道、梨花と光太は世間話をする。その後、銀行の飲み会の帰りに梨花は光太と遭遇し、飲みに誘われる。「よく気づいたわね」と尋ねた梨花に光太は「最初に会ったとき、いいなって思ったから」と答えるのだ。そして光太は銀行に電話をかけて梨花を呼び出し、自主製作映画に出るように頼む。こういう風に原作は梨花の中で光太の存在が大きくなっていく過程を丹念に積み重ねていく。これなら納得できる。

 大急ぎで映画を擁護しておくと、物足りなかったのはこの梨花の光太への思いに関する部分だけで、それ以外はとても納得できた。銀行の支店に勤務するお局様のような小林聡美と若い大島優子は映画のオリジナルのキャラクター。近藤芳正が演じる次長も含めて支店内の人間関係とその業務の描写が実に面白い。そして若い男に貢ぐために1億円を横領した女の転落の話という観客の予想を超えて、映画は最初に書いたような一種の爽快さを感じさせるラストへ到達するのだ。

 梨花の変化のきっかけは光太であったにしても、元々、梨花の内面にあったものが発現したのだという風に、吉田監督は描きたかったらしい。だから梨花と光太の関係の始まりをくどくどと描くことをやめたのだろう。ラスト近く、「一緒に行きますか?」と小林聡美に問いかける梨花のセリフは、一緒に煩わしい日常のしがらみを捨てませんか、と言っているに等しい。吉田監督、うまいなと思う。

2014/11/23(日)「インターステラー」

 年季の入ったSFファンにしか、どうせ分からないだろうから書いてしまうと、クライマックスのアイデアはグレゴリー・ベンフォード「タイムスケープ」を援用したのではないかと思う。破滅に瀕した世界と、未来から(時間と空間を超えた場所から)送られるモールス信号というのが共通しているのだ(救いを求めている方向は異なる)。もちろん、監督と脚本のクリストファー&ジョナサン・ノーラン兄弟は映画全体を「タイムスケープ」の単純なコピーにはしていない。アイデアを解体し、父と娘の絆を核にして本格SFのストーリーに胸を揺さぶる豊かな情感を持ち込んでいる。この情感が素晴らしい。これを見ると、「2001年宇宙の旅」などはプロットだけの無味乾燥な映画に思えてくる(「2001年」は1968年に作ったことに大きな意味があったのだけれど)。

 世界がなぜ破滅に瀕しているのかは説明されない。大規模な砂嵐が襲い、家の中まで砂にまみれ、人々は肺を患っている。穀物は疫病にやられて食糧危機に瀕している。穀物だけではない。植物も生育できなくなれば、酸素は供給されず、人類には地球規模の窒息死が待っているのだ。科学よりも食糧危機をなんとかするために農業が優先される時代で、学校ではアポロ11号の月面着陸を嘘っぱちと教えている始末。そうした暗い時代にあっても元宇宙船パイロットの父親クーパー(マシュー・マコノヒー)と10歳の娘マーフ(マッケンジー・フォイ)は科学の力を信じている。人類を救うため、移住可能な惑星を探して宇宙に旅立つことになった父親とそれを引き留めようとするマーフ。クーパーが拗ねたマーフに「必ず帰ってくる」と約束する言葉が胸を打つ。

 ここから映画はワームホールや冷凍睡眠、相対性理論によるウラシマ効果というSFのガジェットを使い、一気に時間を進める。地球では父親が旅立った後、成長したマーフ(ジェシカ・チャステイン)が当然のように物理学者の道に進むことになる。何年たっても帰らない父親について、マーフは「自分たちを見捨てた」と考えるようになるが……。

 序盤に描かれた父と娘の絆はクライマックスまで作品の中心に流れていく。マット・デイモンが登場するエピソードは人間の狭量さが見え過ぎて決してうまいとは言えないなどの瑕疵もあるが、「スター・ウォーズ」以降量産されてきたSF映画の中では「ブレードランナー」や「マトリックス」と並んでマイルストーンとなるSF映画であり、同時にクリストファー・ノーラン最良の作品でもあると思う。良質のSF小説の味わいを持ち込めたのはノーラン兄弟がSF小説を読み込み、それを血肉にしているからに違いない。

2014/11/16(日)「FORMA」

 高校時代の同級生・由香里(松岡恵望子)が道路工事の誘導係をしていた綾子(梅野渚)と再会し、「人手不足なので自分の勤める会社で働かないか」と誘ったのが発端。好意の人に思えた綾子だが、由香里にコピーのやり直しや上司の自分に敬語を使うよう命じ、ネチネチとしたいじめが始まる。由香里の婚約者・田村(仁志原了)には高校時代の由香里について告げ口する始末。湊かなえのミステリのようないやーな話、でも面白いと思っていたら、映画は中盤で意外な展開に突き進む。

 坂本あゆみ監督によると、クライマックスの24分間のワンシーンはリハーサルなし、本読みなしの一発勝負だったそうだ。ここの長回しは一定の効果を挙げているが、全編ワンシーン・ワンカットで撮ることには疑問を持つ。映画はカットを割るのが本道だからだ。こういう撮り方をしたのはカットを割る技術と予算的な制約があったのではないかと想像してしまう。

 坂本監督との共同作業の末、仁志原了の脚本は25稿に及んだという。内田けんじの映画を思わせるようなこの脚本がよくできている。綾子が段ボール箱にボールペンで穴を開け、それをかぶって歩く冒頭のシーンの意味はなんだろうと思ったが、映画の展開を見れば、物事を単眼で(一面的に)狭い視野から見てはいけないことのメタファーなのだろう。

2014/11/16(日)Android5.0

ゲーム

Android5.0のイースター・エッグ
 Nexus 10にAndroid5.0ロリポップへのシステムアップグレードの通知があったので実行。ダウンロードファイルは325.5MB。インストール自体は5分程度だが、再起動した後、インストールしてあるアプリ(150個あった)の最適化に時間がかかる。

 写真左はイースター・エッグのスクリーンショット。端末情報のバージョン番号を何回かタップすると出てくる。さらにこれをタップしたりスワイプしたりしていると、写真右のゲーム画面が出てくるのはお約束。Androidのマスコットキャラをロリポップの間にくぐらせるゲームらしいが、なかなか難しい。

 Nexus 7にはまだシステムアップグレード通知は来ていない。

 WOWOWのメンバーズオンデマンドはAndroid5.0にはまだ対応していない。よく使う人はアップグレードをしばらく待った方がいいようです。

2014/11/09(日)「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」

 主人公はいない。ストーリーもない。それどころか、音楽もナレーションも場面の解説もない2時間49分。シャルトルーズ修道院とはどんなところか、修道士たちはどんな日常を送っているのか、それを見るためだけの映画である。退屈するかと思ったが、直前までパズルのような小説を読んで頭がヒートアップしていたので、このストーリーのない映像は逆に心地良かった。物語の後先を考えず、ただ画面を眺めていれば良いというのは楽なのだ。頭がリフレッシュする感覚があったのは世俗を離れた修道院を描いた映画だからではなく、環境映像やBGVと同じ効果なのだろう。

 映画は一にも二にも三にも筋、というのが映画作りで重要とされるのが普通で、僕らは映画を見るとき、ストーリーを追っている。これはフィクションに限らない。ドキュメンタリー映画でも監督は自分の主張に沿ってストーリーを組み立てる。音楽もナレーションもダメという修道院側から課された制限は映画を作る上で手足を縛られたようなものだが、だからこそ、修道院内部の時間の流れに身を任せることが可能になっている。そうせざる得ない映画なのだ。

 グランド・シャルトルーズ修道院はフランスのアルプス山中にあり、カトリックの中でも厳しい戒律で知られるカルトジオ会の男子修道院。映画は雪の季節に始まり、雪の季節に終わる。修道院の1年を描いたのかと思えるが、パンフレットによると、フィリップ・グレーニング監督が過ごしたのは2002年の春と夏にかけての4カ月と2003年冬の2カ月の計6カ月だそうだ。1年間のように思える構成は作為的なものだ。しかし映画のフィクショナルな部分はこれぐらいで、ほとんどはただカメラを回し、修道士とその日常を撮影している。

 「主の前で大風が起こり、山を裂き、岩を砕いたが、主はおられなかった。

 風の後、地震が起こったが、主はおられなかった。

 地震の後、火が起こったが、主はおられなかった。

 火の後、静かなやさしいさざめきがあった」(列王記19.11-12)

 冒頭に出るこの字幕とベルイマン映画の連想から、「大いなる沈黙」とは神の沈黙のことかと思った。そうではなく、修道士たちの沈黙の生活を表しているようだ。修道士同士は話すことを許されない時間が多く、1日のほとんどを個室で祈りの時間として過ごす。ほぼ自給自足の生活を支えるための労働もある。個室の小窓を開けて食事を配るシーンなど見ると、修道院の生活は刑務所と変わらないように思える。

 いや、刑務所以上に質素で厳しい生活だ。祈りと労働の日常に耐えられず、修道士の8割は途中で出て行くそうだ。去るのは自由、辞めさせるのも自由。それはこの映画についても同じことが言えると思う。必要以上に称賛する必要はないが、けなす必要もない。騒がしい日常から距離を置くには良い映画だと思う。