2014/11/09(日)「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」

 主人公はいない。ストーリーもない。それどころか、音楽もナレーションも場面の解説もない2時間49分。シャルトルーズ修道院とはどんなところか、修道士たちはどんな日常を送っているのか、それを見るためだけの映画である。退屈するかと思ったが、直前までパズルのような小説を読んで頭がヒートアップしていたので、このストーリーのない映像は逆に心地良かった。物語の後先を考えず、ただ画面を眺めていれば良いというのは楽なのだ。頭がリフレッシュする感覚があったのは世俗を離れた修道院を描いた映画だからではなく、環境映像やBGVと同じ効果なのだろう。

 映画は一にも二にも三にも筋、というのが映画作りで重要とされるのが普通で、僕らは映画を見るとき、ストーリーを追っている。これはフィクションに限らない。ドキュメンタリー映画でも監督は自分の主張に沿ってストーリーを組み立てる。音楽もナレーションもダメという修道院側から課された制限は映画を作る上で手足を縛られたようなものだが、だからこそ、修道院内部の時間の流れに身を任せることが可能になっている。そうせざる得ない映画なのだ。

 グランド・シャルトルーズ修道院はフランスのアルプス山中にあり、カトリックの中でも厳しい戒律で知られるカルトジオ会の男子修道院。映画は雪の季節に始まり、雪の季節に終わる。修道院の1年を描いたのかと思えるが、パンフレットによると、フィリップ・グレーニング監督が過ごしたのは2002年の春と夏にかけての4カ月と2003年冬の2カ月の計6カ月だそうだ。1年間のように思える構成は作為的なものだ。しかし映画のフィクショナルな部分はこれぐらいで、ほとんどはただカメラを回し、修道士とその日常を撮影している。

 「主の前で大風が起こり、山を裂き、岩を砕いたが、主はおられなかった。

 風の後、地震が起こったが、主はおられなかった。

 地震の後、火が起こったが、主はおられなかった。

 火の後、静かなやさしいさざめきがあった」(列王記19.11-12)

 冒頭に出るこの字幕とベルイマン映画の連想から、「大いなる沈黙」とは神の沈黙のことかと思った。そうではなく、修道士たちの沈黙の生活を表しているようだ。修道士同士は話すことを許されない時間が多く、1日のほとんどを個室で祈りの時間として過ごす。ほぼ自給自足の生活を支えるための労働もある。個室の小窓を開けて食事を配るシーンなど見ると、修道院の生活は刑務所と変わらないように思える。

 いや、刑務所以上に質素で厳しい生活だ。祈りと労働の日常に耐えられず、修道士の8割は途中で出て行くそうだ。去るのは自由、辞めさせるのも自由。それはこの映画についても同じことが言えると思う。必要以上に称賛する必要はないが、けなす必要もない。騒がしい日常から距離を置くには良い映画だと思う。