2006/05/21(日)「ブロークバック・マウンテン」

「ブロークバック・マウンテン」パンフレット ようやく見た。主演の男優2人にはまったく魅力を感じなかった。そうなると、女優で見るしかない。ジャック(ジェイク・ギレンホール)と性急な結婚をするラリーン(アン・ハサウェイ)は「プリティ・プリンセス」などよりはいいが、いつものハサウェイの演技以上のものはない。イニスの妻アルマ(ミシェル・ウィリアムズ)は中盤から終盤にかけて屹立してくる。魚かごのエピソードは切なく悲しい。アカデミー助演女優賞にノミネートされたのはこの演技があったからだろう。僕にとってはウィリアムズの演技を見られたことだけが、この映画の価値だった。

 ブロークバック・マウンテンでイニスとジャックが結ばれるくだりの説得力の不足がいかんともしがたいと思う。ジャックは元々、ゲイだろうと思わせるが、イニスがジャックの誘いに応じたのがよく分からない。しかし、それ以上にこの映画は時の流れの重みや取り返しの付かない失敗、自分の思う道を進めなかった男の強い悔恨の思いをもっともっと描くべきだったように思う。そうした部分が薄いので、なんだか淡々とした映画に終わってしまう。淡々とした中にも主人公の強い思いを感じさせる映画は多いのだけれど、この映画はそこまで行っていないのだ。ラリー・マクマートリーは「ラスト・ショー」(1971年)の脚本家だが、あの傑作に比べてこの映画の叙情性の薄さ、人生への厳しい視点のなさなどは大きく劣っているように思う。男2人のラブストーリーをそれ以上のものには描けなかったアン・リーがアカデミー監督賞に値するとは思わない。うじうじした甘い男の映画でしかなく、ゲイの人は怒るべきではないか。どうひいき目に見ても普通の作品である。

 ここまで書いてパンフレットを読んだ。原作を翻訳した米塚真治の文章が原作と映画の違いを論じて非常に分かりやすい。少し引用しよう。

 原作の出だしは、映画の出だしから二十数年後。長女が結婚した、さらにその後のことだ。職を失い、数時間後にはトレーラーハウスを引き払わないといけない状況。あの二枚のシャツも、隙間風に凍えているように見える。そんな状況でイニスの脳裏に去来する回想が、原作の中身だ。

 まさに僕が映画に感じた不満を払拭させるようなオープニング。映画はこのように始まらなければならなかったのだと思う。人生に敗れた男の悔恨に満ちた物語。しかもこの男は自分の同性愛嗜好を認めていない。そういう視点がアン・リーには、というか脚本のラリー・マクマートリーにはなかったのではないか。だからこの程度の甘い物語にしかならないのだ。凡庸な脚本を凡庸な監督が映画化した作品。僕にはそう思える。

 ヒース・レジャーは老けのメイクがまったくできていず、時の流れを感じさせない。鈍感な男をリアルに演じたのなら大したものだが、そうではないだろう。いっそのこと、ブロークバック・マウンテンの場面はもっと若い俳優に演じさせれば良かったのではないかと思う。

2006/04/22(土)「ニュー・ワールド」

 「ニュー・ワールド」パンフレットテレンス・マリック監督7年ぶりの作品。前作の「シン・レッド・ライン」はビデオで見たので、マリック作品を劇場で見るのは「天国の日々」以来20数年ぶり。アメリカ先住民の少女ポカホンタスとイギリス人入植者ジョン・スミスの愛がいつものように美しい映像で綴られる。映像の美しさなど普段の僕ならあまり気にもとめないところ(映画はスジだと思うのだ)だが、マリック作品の映像は重要なファクターになっている。モノローグと少ないセリフ。それを補うのが雄弁な映像なのである。前半、異文化同士がおずおずと接触し、ファーストコンタクトがワーストコンタクトに発展していく様子はとても面白く、一般的な侵略戦争と共通するものがあるように思う。自然とともに生きる先住民の生活の素晴らしさに対して入植者たちは飢えに苦しむ。マリックの狙いはそんなところを描くことにあったのではないか。だから、後半、ポカホンタスが中心になり、舞台がイギリスに移ると、映画の輝きに陰りが見えてくる。新大陸だけで完結した方が良かった話なのだと思う。

 1607年、北アメリカのヴァージニアに3隻の船でイギリス人入植者たちがやってくる。それを遠巻きに先住民たちが見つめる。反乱罪で監禁されていたジョン・スミス(コリン・ファレル)は処刑されそうになるが、ニューポート船長(クリストファー・プラマー)は罪を許し、先住民との交渉役に任命する。川の上流には強大な王ポウハタン(オーガスト・シェレンバーグ)が治めるコミュニティがあるらしい。先住民の一人に案内させて川をさかのぼったスミスはそこで捕らえられる。ポウハタンが処刑を命じた時、末娘のポカホンタス(クオリアンカ・キルヒャー)が命乞いをする。スミスは先住民たちと暮らすことになり、ポカホンタスと愛が芽生える。夢のような生活。しかし王は娘がよそ者と愛し合うのを快く思わず、スミスは入植地に帰される。そこには砦が築かれていたが、食糧は乏しく、中は惨憺たるありさまだった。やがて入植者と先住民の間で争いが起こる。

 という前半が素晴らしく良い。入植者たちが飢えに苦しむ描写は「北の零年」前半の北海道開拓者たちの苦闘を思わせる。あの映画でアイヌと開拓者の間に戦争はなかったが、入植者は侵略者であり、土地を守ろうとする先住民との間で争いが起きるのは必然だっただろう。自然とともに生きる先住民の様子は川の流れ、風の揺らぎ、柔らかな光を十分に捉えて撮影され、映画の魅力になっている。撮影は実際のヴァージニアにあるチカホミニー川上流で行われた。ここの風景を撮影監督のエマニュエル・ルベツキ(アカデミー撮影賞ノミネート)が余すところなく伝えている。だからポカホンタスが入植地に人質にされ、先住民の衣服から洋服に着替え、レベッカという洗礼名を与えられるに従って映画は失速してくる。マリックの映画には自然が欠かせないようだ。

 ポカホンタスはイギリス国王に謁見した記録が残っている実在の人物だが、アメリカでの物語は伝説であり、映画で描かれたこともフィクションが多いのだろう。16歳のクオリアンカ・キルヒャーの素朴な風貌が映画の内容に実に合っていたと思う。

2006/04/20(木)「SAW 2」

 1作目ほどの終盤の驚きはない。ちょっとひねったミステリという感じ。ただし、殺し方の残虐性はアップして、殺される人の数も多い。今回は8人の男女がある家に閉じこめられる。その中に刑事の息子が含まれており、刑事が必死で閉じこめられた場所を探す。残虐シーンが多いいので、一般受けはしないだろう。

2006/04/16(日)「プロデューサーズ」

 「プロデューサーズ」パンフレットオープニングの「オープニング・ナイト」というわくわくするような爆笑の歌を聴いて、これは面白いかもと思ったのだが、その後は感心するスコアはなかった。ミュージカルとしては歌と踊りの抜群にうまい役者がいないことが決定的にもの足りず、どれもこれもB級の歌、B級の踊りだと思う。ミュージカルが血肉となった本物のソング&ダンスマン(ウーマン)がいないことがこの映画の弱いところなのだろう。舞台のオリジナル・キャストでもあるマシュー・ブロデリックは額のしわや体型の緩みが気になった。舞台ではしわまでは見えないからいいにしても、映画に出すなら、もっと若い役者の方がこの役柄には似合っていたと思う。毛布が手放せない幼児性を持つこのブロデリックをはじめ、出てくるのはエキセントリックなキャラクターばかり。それがいかにもメル・ブルックス映画を基にした作品らしい。プロデューサー役のネイサン・レインや脚本家役のウィル・フェレル、ゲイの演出家役のゲイリー・ビーチ、およびその“内縁の助手”ロジャー・バートはおかしくて良いが、映画自体は平凡な出来である。

 メル・ブルックスの1968年のコメディを基にして作られた2001年のブロードウェイ・ミュージカルの映画化。ブルックスもこの映画の脚本とプロデューサーを務めている。監督は舞台での振り付けと演出を担当したスーザン・ストローマン。ストローマンの演出は舞台をそのまま映画にしたような感じを受ける。ブロデリックなどのキャラクターの性格はデフォルメされていてリアリティーとは遠いところにあり、これがコメディだからといって、オーバーな描写ばかりでは面白くない。いや、メル・ブルックスの映画でもこうしたデフォルメされたキャラクターはおなじみなのだけれど、映画にするのであれば、それなりの脚色が必要だと思う。せめて主人公ぐらいはまともなキャラクターにした方が良かった。まともな主人公がおかしな人々に巻き込まれていくという展開の方が個人的には好きなのである。観客に笑いの間を与えるような舞台目線があることも、僕には違和感となった。

 時代は1959年。ブロードウェイの売れないプロデューサー、マックス(ネイサン・レイン)のところに会計士のレオ(ブロデリック)がやってくる。帳簿を見たレオは「売れないミュージカルの方が儲かる場合もある」とつぶやく。それを聞いたマックスは絶対にヒットしないミュージカルを作ろうと決意。ブロードウェイのプロデューサーになることが夢だったレオも会計事務所を辞めてマックスに協力することになる。ニューヨークの老婦人を色仕掛けでだまして出資させ、最低の脚本を探し、最低の演出家に担当させ、言葉のおかしなスウェーデン出身の女優ウーラ(ユマ・サーマン)をキャスティングする。と、ここまでが緩んだペースで描かれる。もう少しメリハリをつけるべき演出だ。脚本家のフランツ(ウィル・フェレル)が主役を務める予定だったが、開演前日に足を骨折。代わりに演出家のロジャー(ゲイリー・ビーチ)が主役を演じることになる。この「ヒトラーの春」という舞台が映画の白眉で、ヒトラーとナチズムを嗤い倒した内容と派手な演出が楽しい。ここが溌剌としているのはやはりストローマンが舞台の人だからなのだろう。

 内容から見て、僕はバズ・ラーマン(「ムーラン・ルージュ」)が監督していたら、もっと面白くなっていたのではないかという感じを受けた。ユマ・サーマンは僕は好きなのだが、ニコール・キッドマンほど歌に魅力がない。キャサリン・ゼタ=ジョーンズあたりをキャスティングすると良かったかもしれない。大いに笑わせてもらったけれど、ミュージカルとしては不満が残った。

2006/04/09(日)「タイフーン」

 「タイフーン」パンフレット復讐の鬼と化したシンをもっと詳細に描くべきだったのだと思う。北からも南からも見捨てられ、家族を殺されたシン(チャン・ドンゴン)の恨みは一応描かれるのだけれど、それが南北朝鮮に核廃棄物を降らせるテロにまで説得力を持たせているかというと、そうはなっていない。激しいアクションを納得させる動機付けの部分が弱い。はっきり言って、前半はどんなに激しいアクションがあろうとも退屈。中盤、姉の口からシンの身の上が明らかになってエモーション的に盛り上がるのだけれども、以降はまたも激しいアクションだけで退屈。ドラマとアクションの融合がうまくいっていない。韓国の国家機関の人間から描くのではなく、これはシンの立場から描くべき話だったのだと思う。クァク・キョンテク監督はアクション場面の撮り方は合格点だけれども、ドラマの描き方に課題を残している。

 アメリカ船籍の貨物船が海賊に襲われ、乗員を皆殺しにされて積み荷を奪われる。奪われたのは核ミサイル用の衛星誘導装置。日米両国は韓国に黙認を要請するが、韓国国家情報院は独自の捜査を始める。捜査に当たるのはアメリカで特殊訓練を受けたカン・セジョン(イ・ジョンジェ)。カンは海賊のリーダーがシンという男であることを突き止める。シンは誘導装置と引き替えにロシアから30トンの核廃棄物を手に入れようとしていた。シンは20年前に家族とともに北朝鮮から亡命しようとしたが、韓国政府は受け入れず、両親は北朝鮮兵士の手で殺された。シンと中国ではぐれ、今は娼婦となった姉のミョンジュン(イ・ミヨン)からその詳細を聞いたカンはミョンジュンと会わせることを条件にシンから誘導装置を取り戻そうとする。しかし、ロシアに既に誘導装置が渡ったと知った韓国政府は作戦の中止を命じ、シンを殺そうとする。

 シンの意図は台風を利用して核廃棄物を積んだ多数の風船を朝鮮半島に運び、そこで爆発させることだった。クライマックスは史上最大級の台風が2個接近する中で、シンの船に乗り込み、テロ行為をやめさせようとするカンとその部隊の活躍が描かれる。アクション場面には別に何の文句もない。オリジナリティがそれほどあるわけではないけれども、日本のアクション映画に比べれば、はるかに迫力があり、よくできている。ただし、アクション映画の魅力というのは単なるアクションだけにあるのではない。登場人物の心情がいかに激しいアクションにシンクロしていくかにかかっているのだ。そこがこの映画は弱いと思う。「ブラザーフッド」の時にも思ったのだが、アクションの割に細部の作り込みが雑に感じるのだ。

 カンの上司役で阪本順治「KT」のキム・ガプスが出演。相変わらず凄みのある顔つきをしていて良い感じである。チャン・ドンゴンもイ・ジョンジェも顔つきだけはアクション映画にぴったりな感じ。脚本をもっとうまく作ってさえいれば、傑作になっていたのにと思う。それにしても南北分断の悲劇が描かれるあたりで映画の雰囲気がきりっと引き締まるのは日本映画にはない長所だなと思う。こうした政治的材料がないのが日本のアクション映画の弱いところなのだろう。