2007/07/02(月)「ダイ・ハード4.0」

 「ダイ・ハード4.0」パンフレット12年ぶりの第4作。1作目の完璧な出来に感嘆した後の2作目(レニー・ハーリン監督)と3作目(ジョン・マクティアナン監督)にはがっかりしたが、今回はなかなか面白い。サイバーテロ事件に巻き込まれたジョン・マクレーン(ブルース・ウィリス)がいつものように孤軍奮闘して、敵の野望を打ち砕く。レン・ワイズマンの演出はビジュアル面では文句なく、ヘリに車をぶつけて墜落させたり、戦闘機と戦ったりの派手なアクションを連続させて、ノンストップの映画に仕上げた。マクレーンは今回、過去のどの作品よりも傷だらけになって戦い抜く。

 クライマックスの敵のボスの倒し方などは描写自体は無茶なのだが、「ガメラ3 邪神覚醒」を思い出してしまった。出来が良いと思ったのは脚本にちゃんとドラマがあることで、よくある設定であってもマクレーンと娘との対立と和解が描かれたり、ハッカーの青年をワシントンD.C.まで連れて行くうちにマクレーンと青年との間に理解が生まれるところなどはバディムービーを彷彿させたりする。思えば、1作目が強烈な傑作だったのは周到に伏線を張りまくった脚本にマクレーンと妻や黒人部長刑事との間のドラマが用意されていたからこそであり、ドラマを忘れてアクションしかなかった2作目と3作目がダメだったのは当たり前なのである。今回もドラマ部分が特別に出来が良いわけではないのだが、少なくともこれぐらいはないとアクション映画の心情の部分が成立しないのである。ワイズマンのバランス感覚は悪くない。

 FBIのコンピュータシステムに何者かがクラッキングを仕掛けてくる。事態を重く見たFBIのボウマン(クリフ・カーティス)はブラックリストに載っているクラッカーたちの捜査を命じる。そのころマクレーンはニュージャージーの大学にいた。娘のルーシー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)に会うためだったが、ボーイフレンドと一緒のところに押しかけたためルーシーの反感を買ってしまう。無線連絡でクラッカーのマット・ファレル(ジャスティン・ロング)をD.C.まで連れて来るように命じられたマクレーンはマットのアパートで何者かに襲撃される。危ういところでマットとともに逃れ、D.C.へ向かうが、さらに追撃が待っていた。一味はガブリエル(ティモシー・オリファント)率いるサイバーテロ集団の傭兵部隊だった。サイバーテロは深刻さを増し、交通システムや金融、原子力、水道、電力などが次々に麻痺していく。マットはこれを「ファイアーセール(投げ売り=国のインフラに対する組織的なサイバー攻撃)だ」と指摘する。全米がシステムダウンする中、マクレーンとマットは執拗な敵に対抗するが、ルーシーが人質に取られてしまう。

 マクレーンはガブリエルから“デジタル時代の鳩時計”とバカにされる。携帯電話さえ扱えないマクレーンがサイバーテロ集団に打ち勝っていく構図は痛快で、アクションのエスカレーションと併せてこの映画を大衆的なものにしている。ドラマの描写は過不足なく、ワイズマン、「アンダーワールド」などよりはずっとうまくなった。サイバーテロを捜査しているFBIのところにNSA(国家安全保障局)が乗り込んで来る場面は1作目のロサンゼルス市警に乗り込むFBIを思い起こさせた。脚本のマーク・ボンバックはちゃんと1作目を分析しているようだ。無線で連絡を取り合うボウマンとマクレーンの描写やサイバーテロ集団の本当の目的なども1作目を踏襲している。当然のことながら、マクレーンのYippee-ki-yay, motherfuckerという決めぜりふも出てくる。映画の作りは主人公がマクレーンでなくても成立するのだが、こうした部分がシリーズものを作る上でのお約束なのだろう。

 敵の中で目立っているのはマギー・Qで、アクションも決まっているし、途中で姿を消すのがもったいないほど。マギー・Q主演のアクション映画も見てみたい。

2007/06/09(土)「スキャナー・ダークリー」

 @宮崎映画祭。フィリップ・K・ディックの原作「暗闇のスキャナー」を「恋人たちの距離」「スクール・オブ・ロック」のリチャード・リンクレイターが映画化。原作はディックのドラッグ体験を元にしたSFで、僕が学生時代に今はなきサンリオSF文庫から出ていた。その後、創元SF文庫に移り、現在はハヤカワ文庫に入っている。きらめくような傑作が多いディックの小説の中ではそれほどの傑作ではないと思うが、デヴィッド・クローネンバーグはこれに触発されて「スキャナーズ」を撮ったらしい。そのクローネンバーグの「裸のランチ」のような描写がこの映画にもある。

 映画は俳優の動きをトレースしたアニメである。こうした手法はラルフ・バクシの「指輪物語」が代表的な作品で、当時はロトスコープと言われたが、今では人の手ではなく、コンピュータでトレースするらしい。

 リンクレイターがこの手法を取ったのは現実と非現実の揺らぎを表現したかったからなのかもしれない。そうした揺らぎが映画ではうまく表現できていないのが残念な点で、前半は退屈というほかない。後半、ストーリーの形が見えてきて、映画は面白くなるけれども、ディックが描きたかったのはストーリーよりもドラッグ体験に裏打ちされた悪夢のような描写の方にあるだろう。アニメとしては技術的にも大したことはない作品で、このテーマなら人間とアンドロイドの関係を思索的に描いた押井守「イノセンス」の方が数段上と思う。

 ディックがよくテーマにしたのは本物と偽物(シミュレイクラ)という概念。「ブレードランナー」の原作の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」や「高い城の男」「ユービック」「流れよわが涙、と警官は言った」などなどこれをテーマにした作品が多い。これに現実の揺らぎという部分を含めると、「火星のタイムスリップ」や「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」なども広義のこのテーマに属する。

 この映画に欠けているのはそうした思索的な部分だろう。ディックの小説はしばしば現実が崩壊していくような感覚を味わわせてくれたが、映画はそこの表現が決定的に足りないのだ。ストーリーを語るよりも描写で観客を納得させることは難しい。人の容貌を判別できないように刻々と変わるスーツはいかにもディックらしいガジェットだけれども、映画は端的にアニメの技術が不足していると思う。あの下手なアニメも現実の崩壊感覚を表したつもりなのかもしれないが、表現としては褒められたものではない。

2007/06/06(水)「ファイヤーウォール」

 面白いんだけど、パソコンの画面に流れる口座番号をFAXのスキャナ部品で読み取って、iPodに保存するというのは無理。複写部分と記録装置の間に解析装置が必要だろう。よく考えてある脚本なのにそこだけが気になった。普通にコンパクトなスキャナを使えばよかったのではないか。

 前半、追い詰められた主人公が後半、反撃に転じる。暴力とは無縁の主人公が3人も殺すというのを見ていて、なんとなくサム・ペキンパー「わらの犬」を思い出したが、年取ったとはいえ、ハリソン・フォードでは強くなってもあまり意外性がない。前半に暴力に弱いところを見せておいた方が良かっただろう。

 フォードは今年65歳だから、老けて見えるのは当たり前。過激なアクションを見ていると、年寄りのなんとか、と感じてしまう。個人的には「ワーキングガール」(1988年)の時に老けたと感じたが、あの時は46歳だったのだ。

 インディ・ジョーンズのパート4は大丈夫だろうかと心配になる。

2007/04/19(木)「クジラの島の少女」

 2002年の映画で監督は「スタンドアップ」のニキ・カーロ。「スタンドアップ」同様にフェミニズムの映画と言えるが、真正直で構成にやや難があった「スタンドアップ」より、こちらの方が出来はいい。

 ニュージーランドのマオリ族の島が舞台。この島には祖先の英雄パイケアがクジラに乗ってたどり着いたという伝説がある。族長の息子ポロランギに双子が生まれるが、男の子と妻が出産時に死亡。双子の片方の女の子はパイケアと名付けられる。ポロランギは絶望して島を出て行き、パイケアは祖父母に育てられる。

 当初、パイケアを嫌っていた祖父は成長するに従ってパイケアをかわいがるようになるが、ある出来事をきっかけに男の後継者を育てようと、村の少年たちを集めて訓練をする。訓練に参加を許されなかったパイケアは叔父に訓練を受けるが…。

 原作はマオリ族出身の作家ウィティ・イヒマエラ。クライマックスの奇跡はそうなると分かっていても感動的だ。「スタンドアップ」に足りなかったのはこうしたファンタスティックな場面で、もっともな主張を声高に言うだけでは映画は面白くならないのだ。

 主演のケイシャ・キャッスル=ヒューズはこの映画でアカデミー主演女優賞に最年少でノミネートされた。「スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐」にも出ていたとのこと。

2007/04/15(日)「ブラッド・ダイヤモンド」

「ブラッド・ダイヤモンド」パンフレット 内戦のシエラレオネ共和国を舞台にした血塗られたダイヤモンドの物語。元傭兵で今はダイヤの密輸を行っている主人公(レオナルド・ディカプリオ)と息子を革命統一戦線(RUF)にさらわれた漁師(ジャイモン・フンスー)、アメリカのジャーナリスト(ジェニファー・コネリー)が絡んだ物語が展開される。シエラレオネの内戦は2002年に終結したそうだが、普通の人たちが「給料の3カ月分」を払って買っているダイヤの裏にこうした悲惨な状況があったことを知らしめることには意味があり、こういう映画を作ることを無意味だとも思わない。

 それを認めた上で書くと、エドワード・ズウィック監督の演出はエンタテインメントに振りすぎているところが気になった。それは元傭兵で修羅場をくぐり抜けてきた強い主人公という設定や市街戦の迫力ある描写、終盤の主人公とジャーナリストの電話での会話などに感じてしまう。少し長すぎるものの、ズウィックの演出は娯楽映画としては真っ当にうまく、ディカプリオ、フンスーも好演しているのだが、こういう映画の場合、ドラマが邪魔に感じられることもある。ドラマの部分で感動していいのか、という気分が残る。娯楽映画の側面が強いと、この映画もまた悲劇をネタにして儲けているだけではないのかという根源的問題が浮上してくるのだ。

 物語は漁師のソロモン・バンディー(フンスー)の村がRUFに襲撃される場面で始まる。政府が行おうとしている選挙を行かせないため手を切断される場面や簡単に村人たちが虐殺されるこのシーンはショッキングだ。ソロモンは体格を見込まれて危うく難を逃れ、ダイヤの採掘場で働かされる。そこでピンクの大きなダイヤを見つけ、地中に埋めたところで政府軍が襲撃。ソロモンは刑務所に入れられる。そこへダイヤの密輸を発見され拘束された主人公のダニー・アーチャー(ディカプリオ)が来て、ピンクのダイヤの存在を知る。アーチャーは行方不明となった家族を探すことを条件にソロモンにピンクのダイヤの場所を教えるように頼み、行動をともにさせる。海辺のバーでアーチャーはアメリカ人ジャーナリストのマディー・ボウエン(コネリー)に出会う。マディーはダイヤモンドの真相を取材していた。アーチャーは立ち入り禁止区域に入るため、取材に応じることを条件に他のジャーナリストと同行する。こうして3人はそれぞれの目的でRUFの採掘場に向かうことになる。

 アーチャーのキャラクターをアメリカ人ではなく、ローデシア(現在のジンバブエ)生まれとしたのがうまい設定。南アフリカに逃れたアーチャーは傭兵となり、コッツィー大佐(アーノルド・ボスロー)に見込まれた。今も大佐の下で密輸を行っている。生い立ちの悲劇的側面も終盤に明らかになる。ただ、残念なことに冒険小説を思わせるようなこうした脚本のうまさは前記したようなアンビバレンツな感情を生むことにもつながっている。難しいところだ。

 童顔を脱したディカプリオは「ディパーテッド」に続いて好演で、元傭兵という設定にも無理はない。この役でアカデミー主演男優賞にノミネートされたが、「ディパーテッド」と合わせ技という感じもする。