2007/09/22(土)「プラネット・テラー in グラインドハウス」

 ゾンビを相手にしたアクションという感じの映画に仕上がっている。グラインドハウスなので例によってフィルムの傷とか、途中に「1巻をなくしました」とかの字幕が出てきていかにもな雰囲気だが、「デス・プルーフ」の時に感じたようにこれも1時間30分程度にまとめるべき映画だろう。面白いけど、ちょっと長い感じ。R-15になったのはそれなりに残虐シーンがあるためか。グロいシーンが苦手な人は要注意。

 映画としては大したアイデアはなく、あの片足マシンガンぐらい。といっても、このマシンガン、どうやって引き金を引いているのか説明はないところが、いかにもB級映画。ま、気楽に楽しむべき映画なのだ。マシンガンを付けるローズ・マッゴーワンは良かったけれど、女医役のマーリー・シェルトンの方が好みだ。「シン・シティ」にも出ているようだが、何の役だったのだろう。タランティーノがゲスト出演していて、これはケッサクな役柄だった。あとは懐かしいマイケル・ビーン(「ターミネーター」)とか。主役級のフレディ・ロドリゲスの動きの良さにも感心。

 IMDBでキャストを調べておおお、と思ったのは劇中、ゾンビから指を食いちぎられる警官トロがトム・サヴィーニだったこと。「13日の金曜日」などのメイクアップ・アーチストで監督としては「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」のリメイク版(1990年)がある。これは傑作だったと思うが、それ以後、まともな監督作はなく、最近では俳優としての出番が多いようだ。ゾンビなのでサヴィーニにお呼びがかかったのか。

2007/09/20(木)「ユナイテッド93」

 全敗の中の1勝。「ユナイテッド93」を見て感じたのはそういうことだ。同時テロで2機の飛行機が貿易センタービルに突っ込み、1機がペンタゴンに墜落した。ハイジャックされた4機目、ユナイテッド93は乗客たちがハイジャック犯たちに反撃し、目標のホワイトハウスに到着させず、墜落したという話。乗客は全員死んでしまったけれども、ホワイトハウスへの攻撃はさせなかった。これが勝利でなくて何だろう。だからこの映画はアメリカ国民からは支持されたのだ。もう単純にカタルシスがあるのである。テロリストたちに一矢を報いた悲劇の中のカタルシスが。

 映画としてもすこぶる良い出来で、前半、管制官たちから見た同時テロの進行の緊張感が凄い。飛行機と連絡がつかなくなって、何が何だか分からないうちに1機が貿易センタービルに突っ込む。CNNはすぐに中継を開始する。間もなく2機目も突っ込み、ようやく事故ではなく、テロではないかとの疑問が芽生え、3機目で決定的になる。

 ユナイテッド93が目標に到達しなかったのは朝の混雑のために離陸が30分遅れたからで、テロリストにハイジャックされた乗客たちは携帯電話で家族からテロの進行を知り、反撃を決意する。乗客の中にパイロット経験者がおり、操縦桿を奪い返そうという計画だった。それがうまくいかなかったのは残念だが、この過程はスリリングで悲壮感があり、観客を引きつける力がある。

 監督のポール・グリーングラスをはじめ映画の製作者たちは遺族から当時の状況を聞き、同意を取った上で映画化したという。ただ、状況を知る材料は携帯電話での通話とボイスレコーダーしかないわけで、細部はフィクションにならざるを得ない。乗客たちが操縦室までたどりつけたかどうかも実際には分からないようだ。

 僕は同時テロの際、墜落した4機目は軍が撃墜したのだろうと思った。そう推測する人は少なくはない。実際に撃墜したパイロットまで特定されているとの説もある。だいたい、同時テロ自体がアメリカ政府の陰謀とのトンデモ説もあるくらいなのだ。だから、この映画の内容をすべて信じてしまうことには少し抵抗がある。最後の字幕で軍がユナイテッド93のハイジャックを知ったのは墜落した後だったと出る。おまけに軍は大統領から撃墜許可を受けていたが、間違いを恐れて実行しなかった、とまでだめ押しされると、本当かと疑問を感じてしまう。プロパガンダ映画に近い作りではないかとの思いが頭をもたげてくるのだ。

 作りは一流、描かれる内容には疑問という映画の典型。ただ、悲劇的な話であるにもかかわらず、カタルシスがあるという希有な映画であることは間違いない。

2007/09/16(日)「包帯クラブ」

 「包帯クラブ」パンフレット天童荒太の原作を堤幸彦監督が映画化。傷ついた人の傷ついた場所に包帯を巻きに行き、それを写真に撮ってネットにアップするという包帯クラブの面々を描く。だれも最初は包帯を巻くだけで心の傷が癒えることなど信じてはいない。しかし、だんだん分かってくる。包帯を巻くことに効果があるのではなく、包帯を巻いてくれた人がいることを知ることによって、傷ついた人は人とつながっていることを知る。それが傷ついた人の心を癒すのだ。やらなければ何も変わらない。やれば変わるかもしれない。それならやろうという登場人物たちの前向きの姿勢が気持ちよい。石原さとみ、柳楽優弥のほか関めぐみ、貫地谷しほり、田中圭、佐藤千亜妃という若い俳優たちがそれぞれに良く、現実の厳しさを併せ持った青春映画として、きっちりまとまった作品だと思う。

 堤幸彦は冒頭で短いショットを積み重ねる。主人公のワラ(石原さとみ)のナレーションとともに描かれるこの冒頭のシーンが秀逸で、堤幸彦はこんなに映画的な手法を取る監督だったかと少し感心しているうちに、映画は厳しい面を見せてくる。主人公のワラ(石原さとみ)は包丁で誤って手首を切り、病院に行く。医者からリストカットと間違えられたことに腹を立てたワラは病院の屋上でディノ(柳楽優弥)と名乗る高校生と出会う。屋上の手すりに立っていたワラを自殺しようとしていると勘違いしたディノは手すりに「手当て、や」と言って包帯を巻き付ける。それが包帯クラブの始まりとなった。親友のタンシオ(貫地谷しほり)の知り合いの浪人生ギモ(田中圭)は包帯クラブのホームページを作り、ディノを引き入れて4人は活動を始める。サッカーでオウンゴールをして引きこもった少年のためにはゴールとボールに包帯を巻く。美容院で髪を切りすぎた女性のために美容院の前で包帯を巻いたタンシオの写真をアップする。街のいろんなところに4人は包帯を巻いていく。

 ディノは生ゴミをポケットに入れて学校に行ったり、自分がいるテントの中に爆竹を投げ込ませたりする。それは他人の痛みを知るためだという。他人の痛みを知らない人間によって人は傷つけられるのだ。「包帯1本巻いて何かが変わったら、めっけもんやん」「来いやー、出てこいやー」と下手な関西弁で言う柳楽優弥は複雑なキャラクターをうまく演じている。両親が7年前に離婚したことでワラは心に傷を持っている。「自分の子供だったら、どんなに醜くてもバカでも親はかわいいものだ」との考えが父親には通じなかったからだ。父親が勤めていた工場が倒産したために高校には進学しなかったリスキ(佐藤千亜妃)と、中学時代は親友だった裕福なテンポ(関めぐみ)の意外な関連も泣かせる。この映画、細部のエピソードにいちいち説得力がある。キャラクターの立たせ方もうまい。森下桂子の脚本は原作の大筋を踏襲しながら、エピソードを作り替え、配置し直し、ふくらませ、新たなエピソードを付け加えて物語を再構築している。よくある単なる原作のダイジェストではない。森下桂子は原作に真摯に向き合い、テーマをより効果的に訴えるために最大限の力を注いでいるのがよく分かる。恐らく堤幸彦の意見も入っているのだろうが、これは脚色のお手本みたいなものだと思わざるを得ない。

 堤幸彦の映画らしくユーモアも散りばめているが、どれも堤幸彦にありがちな滑った場面にはなっていない。一人の少女の命を助けるために包帯クラブの面々が必死に走るクライマックスが感動的で、ここで終わっても良かった。その後にディノの1年前の事件を描くことで、クライマックスが2つあるような感じになってしまったのはちょっとした計算違いだが、これでも大きな減点にはなっていない。希望のあるラストが素敵だ。

 堤幸彦はしばらく前の三池崇史を思わせるようなペースで映画を撮っている。撮っていくうちにだんだんうまくなってきた監督なのではないかと思う。次の「自虐の詩」も楽しみだ。

2007/09/09(日)「デス・プルーフ in グラインドハウス」

 「デス・プルーフ in グラインドハウス」パンフレット個人的にはアメリカン・ニューシネマの傑作中の傑作と思っている「バニシング・ポイント」(1971年、リチャード・C・サラフィアン監督)がこの映画のモチーフの一つとなっている。クライマックスに「バニシング・ポイント」で主人公が乗ったダッジ・チャレンジャーによるカーチェイスが展開されるのだ。「爆走トラック'76」「ダーティ・メリー、クレイジー・ラリー」「バニシング in 60"」と他のカーアクション映画の名前も出てきて、タランティーノ、こういうカーアクション映画が好きだったのだなとニヤリとさせられる。もともとこの映画、60-70年代のB、C級映画(グラインドハウス映画)を復活させようという計画で作られたもので、確かに前半のわざとフィルムに傷をつけたり、大仰で安っぽい音楽を流したり、下品でエロティックな場面を用意したりの作りはかつてのB、C級映画を思わせて、これはこれで面白い。

 この趣向だけで2時間近くは持たないと思ったのかどうかは知らないが、途中に白黒の場面を挟んできれいなカラーへと転換する後半は完璧にカーアクション映画の復活を狙ったものになっている。スティーブ・マックィーン「ブリット」に端を発したカーアクション映画は70年代に最盛期を迎えて、多数の映画が作られた。「フレンチ・コネクション」や「カプリコン1」のようにアクション映画ではない映画にまでカーアクションが登場したほどだった。この映画、前半がグラインドハウス映画の外見を模したものであるのに対して、後半はそうしたカーアクション映画の精神を復活させたものと言えるだろう。しかも、このカーアクション、ボンネットの上にスタントウーマンが乗ったまま展開されるという驚愕の趣向が用意されている。「キル・ビル」でユマ・サーマンのスタントを務めたというゾーイ・ベルのスタントは一見に値する。これがあるから、この映画、ただのグラインドハウス映画のパロディにはならず、見応えのある映画になったのである。

 ストーリーは簡単だ。前半に描かれるのは若い女の子たちの他愛ないおしゃべりと彼女たちを狙うシボレーに乗ったスタントマン・マイク(カート・ラッセル)の姿。いかにもな映画の作りにクスクス笑っているうちに、女の子たちの乗った車にマイクが猛スピードで車を正面衝突させ、女の子たちは全員死亡してしまう。マイクの車はデス・プルーフ(耐死仕様)に補強されているため、マイクは重傷を負うが、助かる。マイクのキャラクターはスラッシャー映画の殺人鬼のようなもので、前半にこれを描いていることがクライマックスのアクションに生きてくる。後半は前半から14カ月後の設定。新進女優やスタントウーマンの女の子たちが登場する。スタントウーマンのゾーイは「バニシング・ポイント」のダッジ・チャレンジャーが売りに出されているのを知り、試乗しようと言い出す。そこで、ゾーイは以前やってもう二度としないと誓ったはずのボンネット乗りを行い、マイクに目を付けられることになる。

 クライマックスのアクションはマイクに攻撃を仕掛けられた女の子たちが反撃に転じるのだが、マイクが偏執狂的な男であると分かっているので、車がボロボロになるまで行われる反撃の激しいアクションにも納得できる。エモーションを伴わないただのカーチェイス、カーアクションほど空しいものはなく、だから、「バニシング in 60"」のアクションに僕は全然興味を持てなかったのだが、タランティーノはそのあたり、よく分かっていると思う。車の爆音とスピード感は官能的で、女の子たちの反撃も気持ちよく、スパッと終わるのが潔い。ボロボロにしてしまったダッジはどうなるとか、余計なことを描いていないのがいい。惜しいのはこのラストのあり方を全体には適用してないことで、こうした映画なら1時間半程度で収めて欲しかったところだ。短く切り詰めれば、もっと締まった映画になっただろうし、もっとグラインドハウス映画っぽくなっていただろう。

 新進女優役のメアリー・エリザベス・ウィンステッドは「ダイ・ハード4.0」でジョン・マクレーンの娘役を演じた女優。登場する多くの女優の中では正統的な美女と言える。「激ヤバ」のセリフに笑った。DJのジャングル・ジュリア役を演じるシドニー・タミーア・ポワチエはシドニー・ポワチエの娘、ジョーダン・ラッドはシェリル・ラッドの娘だそうだ。