2010/05/03(月)「ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲」

 6年ぶりの続編。前作の感想を読み返してみたら、前作は2010年が舞台だったのだった。今回はそれから15年後、2025年の設定。ゼブラーマンこと市川新市(哀川翔)は記憶を失い、路上で目ざめる。そこから何があるかというと、ゼブラシティと名前を変えた東京での戦い。都知事の娘ゼブラクイーン(仲里依紗)との戦いである。まるで「ストリート・オブ・ファイヤー」のダイアン・レインを思わせるように刺激的な仲里依紗以外に見るべきものがないのが悲しいところだ。

 前作はスーパーヒーローもののパロディを思わせる展開ながら「信じれば、夢は叶う」というモチーフを軸に据えて充実した出来だったが、今回は相当に落ちる。宮藤官九郎の脚本が弱い。白ゼブラと黒ゼブラの合体のシーンなど爆笑もので、三池崇史の趣味は全開なのだけれど、細部で笑わせられても、話の本筋がこれでは映画は盛り上がらない。仲里依紗のみを見るべき映画であり、それでも入場料金ぐらいの元は取れるのだけれど、映画としては喜べない出来に終わっている。

2010/04/03(土)「花のあと」

  いくらなんでも以登(北川景子)の表情の乏しさは欠陥以外の何ものでもないだろうと最初は思った。表情や感情に乏しいのは以登が剣の試合で一瞬心を通わせる江口孫四郎(宮尾俊太郎)も同様で、人なつっこい笑顔を見せ、表情豊かな片桐才助(甲本雅裕)が登場してからは、なおさらこの2人の演技の未熟さが目立ってしまう。しかし、同時に2人の純情さ、若さゆえの一途さが浮かび上がることにもなっている。

 この一途な2人に比べると、食欲旺盛でやや下品な片桐は当初、俗物にしか見えないのだが、映画が肯定しているのはむしろ、片桐の姿にある。物事の判断が大人であり、懐が広い。片桐は人間的な幅の広い魅力を備えていることが徐々に分かってくるのだ。ラストのナレーションで片桐が筆頭家老にまで上り詰めたことが言及されるが、確かにそれにふさわしい人物のように描かれている。表情に乏しかった以登がラストで満開の美しい桜を見限って片桐の方を向き、初めて笑顔を見せるのは、だから当然なのだろう。以登は一瞬の恋心を経て、人間の本質と本当の愛を知ることになるのだ。それを考えると、生硬と言いたくなる北川景子の演技も中西健二監督の計算のうちだったのではないかと思えてくる。

 藤沢周平の短い原作は以登と孫四郎の関係が中心である。「恋などというものは、そなたらが夢みるようにただ甘し、うれしのものだけではないぞや。いっそ苦く、胸に苦しい思いに責めらるるのが、恋というものじゃ」。映画にもあるこのナレーション通りに、女剣士以登と羽賀道場で一番の使い手である孫四郎の一瞬の恋の行方を描いている。原作の以登は美人とは言えず、容貌を気にしている。孫四郎もハンサムな男ではない。美男美女をキャスティングした映画はまずそこから作りを変えており、それもまた片桐の魅力を強調するためだったのではないかと思う。

 打ち合っているうちに、以登はなぜか恍惚とした気分に身を包まれるのを感じた。身体はしとどに濡れ、眼がくらむような一瞬があったが、その一瞬の眼くらみも、不快感はなくてむしろ甘美なものに思われた。照りつける日射しのせいだけではなかった。どうしたことか、身体は内側から濡れるようであり、恍惚とした気分も、身体の中から湧き出るようである。

 孫四郎との試合で原作の以登はこういう高ぶりを覚える。桜の下で声をかけられ、孫四郎と試合がしたいと思った以登の気持ちは実は孫四郎を恋する気持ちだったわけだから、それが成就したことの高揚感がこうなるのは実に理にかなっている。映画はこれを「俺たちに明日はない」のボニーとクライドのように視線を交わす2人に象徴させている。これはうまい場面だ。このほか、原作の行間を埋め、細部を膨らませた脚本は良い出来である。

 しかし、この映画の成功がそれ以上に甲本雅裕の存在にあるのは間違いない。初めは眉をひそめたくなるような振る舞いがそのうちに思わず微笑みたくなってくる。以登や孫四郎のように一直線の人間にはないぬくもりが感じられて好ましいのである。映画を支えるしっかりした演技だと思う。

2010/03/08(月)「ライアーゲーム ザ・ファイナルステージ」

 テレビシリーズは一切見ていない。見ていなくても分かる作りになっていて、そこには好感を持った。テレビシリーズの最終回を映画でやるというのは最初からテレビの視聴者だけを相手にした映画になりがちだけれど、それを避けたのは賢明だった。

 なぜテレビを見ていなくても分かるのかと言えば、映画で描かれる決勝戦(ファイナルステージ)は独立したゲームだからだ。ゲームの参加者11人が3色のリンゴを投票するだけの「エデンの園」と呼ばれるこのゲームは、単純だがよく考えてあって、ツイストの連続。ゲームが1回終わるたびに意外な結果が現れ、登場人物がその種明かしをするという構成になっている。脚本は20稿に及んだそうだ。穴を防ぎ、つじつまを合わせるために脚本家の2人(黒岩勉、岡田道尚)は相当考えたに違いない。

 この脚本の練り方は評価に値する。ただし、、どうも見ていて小粒だなという印象になってくる。ゲームのような犯人捜しだけの本格ミステリは欧米ではとっくに廃れ、もっと現実に近づいたミステリがほとんどだ。ツイストにツイストを重ね、高い評価を受けているのはジェフリー・ディーヴァーぐらいか。この映画の場合、ゲームそのものが主体なので、そうした批判は当たらないし、騙し合いのゲームの中で人を信じるというテーマも備えているのだけれども、やっぱり物足りない思いは見ていて消しようがない。ゲームの中の心理戦に過ぎず、小さなところでごちゃごちゃやってる印象になってしまうのである。見ていてこういう練った脚本の在り方をゲームの外に持ち出して欲しいと思えてくる。実社会を舞台にしたゲームになれば、金子修介「デスノート」のように面白い映画になっていたかもしれないなと思う。

 セミファイナルでゲームを降りた神崎直(戸田恵理香)にファイナルステージの招待状が来る。1人が棄権したために直に出番が回ってきたのだ。直は天才詐欺師・秋山(松田翔太)の足手まといになりたくなかったが、今回のゲームは人を信じることが要求されると聞き、秋山を助けるためにゲームに参加することになる。参加者は11人。ゲーム「エデンの園」は金、銀、赤の3色のリンゴを投票し、最も数が多かった色のリンゴに投票した者には1億円が支払われる。全員が赤を選べば、全員が1億円を受け取ることになり、敗者はいなくなるが、ゲームに勝って賞金50億円を目指す参加者たちは1回目から裏切りに裏切りを重ねていく。

 舞台の孤島をもっと話に絡めて欲しいとか、悪役側をもう少し描けよ、とかいろいろ不満はある。しかし参加者11人にそれぞれスポットを当てながらもキャラクターがやや類型的になり、厚みを欠いていることが水準作ではあるけれどもそれ以上の作品にはならなかった一番の理由ではないかと思う。

 監督は映画初演出の松山博明。戸田恵理香はバカ正直な主人公にぴったり。松田翔太も雰囲気が良い。映画に登場するゲームの進行役ケルビムは「SAW」のジグソウに影響を受けているのは明らかだろう。映画全体の作りも影響を受けていると思う。

2010/02/15(月)「ゴールデンスランバー」

  「雅春、ちゃちゃっと逃げろ」。一向に敵の見えない展開で主人公の必死の逃亡だけが続き、工夫はいろいろ凝らされてあってもそろそろ少し飽きてきたかなと思ったところで、父親役の伊東四朗が出て来て画面をグッと引き締める。自宅に押しかけた報道陣を前に、息子の無実を心の底から信じている父親は息子を犯人扱いするマスコミを批判し、カメラに向かって息子に逃げ通せと捨て台詞を吐くのだ。

 「俺は子どもの頃から雅春を知ってる。家内はそれ以前から、お腹の中にいる頃から雅春を知ってるんだ」。父親は息子が首相爆殺などという重大な犯罪を犯す人間ではないことを強く訴える。現実の重大事件では子どもの両親をカメラの前で謝罪させることが当たり前のことのように行われているけれども、この場面はそれを批判してもいるのだ。そして父親の息子へのまったく揺るがない信頼と愛情の深さで胸が熱くなる。なにしろこの父親は正義感のかたまりで、小学生時代の息子に書道で「痴漢は死ね」と書かせたぐらいなのだ。

 黄金のまどろみ(ゴールデンスランバー)の中で起きた悪夢のような事件。いや、悪夢のような事件の中で主人公の青柳雅春(堺雅人)は自分を取り巻く人間たちをまどろみながら思い出す。運送会社に勤める主人公が事件の犯人に仕立てられたのは2年前、アイドル(貫地谷しほり)を救ってマスコミから紹介され、一躍注目を集めたためだったのだろう。追っ手の中には警察上層部がいて、事件の首謀者は国家の中枢部にいるらしいことは分かるが、詳細は分からず、青柳はまったく理不尽な逃亡を余儀なくされることになる。典型的な巻き込まれ型サスペンス。次々に迫り来る危機をくぐり抜けて逃走する主人公のサスペンスの部分もよくできているが、しかし、この映画の良さは疑うことを知らない人の良い主人公とそれを助ける周辺の人間たちを生き生きと温かく描いていることだ。

 かつての恋人の竹内結子、心ならずも青柳を陥れる策略に荷担する大学時代の友人・吉岡秀隆、後輩の劇団ひとり、運送会社の先輩渋川清彦、そして「びっくりした?」と言って登場する通り魔の濱田岳、入院患者でやくざな柄本明まで、俳優たちはみな印象に残る演技をしている。彼らが青柳を助けるのは青柳自身の善良な性格に好意を持っているからだろう。この映画の主眼が事件の解決よりもそうした人間たちを描くことにあったのは明らかであり、監督・脚本(林民夫、鈴木謙一と共同)の中村義洋は、その主軸を少しもぶれさせず、伊坂幸太郎原作をテンポ良く見事な映画に仕上げている。疾走するスピード感と密度の濃さを伴った2時間19分だ。主演の堺雅人はキャラクターを生かした役柄を演じきってうまい。追っ手側では、まるでターミネーターのような永島敏行が怪演していて面白かった。

 とはいっても、やっぱり事件は完全に解決させた方が観客の気分は良くなる。ぜひとも敵の正体を明らかにして鉄槌を下す続編を期待したいところだが、書く気はないのか、伊坂幸太郎は。

2010/01/31(日)「今度は愛妻家」

  薬師丸ひろ子の映画でのベストは「Wの悲劇」だと思うが、それは25年も前のこと。最近は「ALWAYS 三丁目の夕日」など母親役が多いのも仕方がないかなと思っていた。「今度は愛妻家」の行定勲監督はかつての角川映画のように薬師丸ひろ子の魅力を引き出したかったのだそうだ。子どものいない結婚10年目の夫婦の役を豊川悦司とともに演じる薬師丸ひろ子は「Wの悲劇」に次ぐ好演を見せていると思う。

 元は中谷まゆみ原作の舞台劇。このため外に出る場面はあっても、基本的に家の中で話が終始する。「日本映画には珍しいスクリューボール・コメディ」と、キネ旬で北川れい子が書いていたが、それは大げさであっても、終盤のウエットな場面を除けばソフィスティケイテッドなコメディに仕上がっている。酒場で知り合った女優志望の女(水川あさみ)が家に訪ねてくるのを待っている夫が、箱根に向かったはずの妻が帰ってきてドタバタする冒頭の場面からとてもおかしい。飲んだ人が必ず吐き出すニンジン茶のエピソードは本筋と絡んで秀逸である。10年間で10人の女と浮気して離婚の危機にある豊川、薬師丸の夫婦もいいのだが、水川あさみとカメラマン豊川の助手を演じる純情で善良な濱田岳の関係が輪をかけて良い。「あんたなんか、何と思っていなかったのよ」「それは最初から分かっていたよ」という派手な女と地味な男の関係が泣かせるのだ。

 加えておかまの文ちゃんを演じる石橋蓮司もおかしいし、ちらりとしか出てこない井川遥も良い。これにストーリーの仕掛けが加わって、楽しめる映画になっている。

 その仕掛けについて以下に少し触れているので、未見の人は読まない方がいい。

 「そこであいつに会わなかったか?」。始まって15分ぐらいの場面にある豊川悦司のこのセリフで映画の仕掛けは分かった。後はその仕掛けに整合性が取れているかどうかを気にしながら見て、まずい部分はなかったと思う。この仕掛けは過去の映画にもあったし、昨年読んだ小説にもあったので珍しくはないが、そんなに長くは引っ張れないたぐいのものである。というわけで映画はラスト30分ほど前にこの仕掛けを明らかにする。そこからもう一つ、意外な人間関係が明らかになる。これは僕は予想していなかった。考えてみれば、前半にそれをにおわせるセリフはあったのだった。

 脚本の仕掛けというのは観客へのサービスみたいなものだから、凝った脚本の映画を見ると嬉しくなる。行定勲は出来不出来のある監督だが、こういう凝った脚本があれば、面白い映画はできるのだ。映画は一にも二にも三にも筋、というのを再認識させる作品だ。