2001/02/06(火)「ペイ・フォワード 可能の王国」

 社会科教師シモネット(ケヴィン・スペイシー)から世界を変える方法を考えろ、という課題を出された中学生トレバー(ハーレイ・ジョエル・オスメント)が善意の先贈り(ペイ・フォワード)のアイデアを実践する。1人が3人に善意を与える。与えられた3人はそれぞれ3人に対して同じく善行を行う。つまり善意のチェーンレターで、人々がこれを実践すれば、“クソみたいな”世界は素晴らしい世界に変わるというわけである。

 トレバーはまずホームレスの男(ジム・カヴィーゼル)に食事と洋服の代金を与える。そして母親アーリーン(ヘレン・ハント)とシモネット先生をなんとか結びつけようとする。このアーリーンとシモネットの描写がなかなかいい。アーリーンはアル中、シモネットは顔にやけどの跡があり、自分の生活に他人が入り込むのを嫌う男なのである。それぞれに傷を負った人生を送ってきた中年男女が互いに相手を必要とし、ゆっくりと関係を深めていく。

 単純なペイ・フォワードの広がりを描いた映画ではなく、冴えた人間描写が見どころ。2人の傷はいずれも家庭から発している。その意味でこれは大変よくできた家庭ドラマであり、ラブストーリーなのである。問題はラストの処理で、こういう結末はないんじゃないかなと思う。ドラマ上はほとんど意味がないのである。観客を泣かせるためなのか? あるいは製作者たちはかつてのフランク・キャプラのような善意が実現するドラマを信じることができなかったのか。原作もそうなっているのかもしれないけれど、映画としては著しく興ざめである。ラスト・ショットは「フィールド・オブ・ドリームス」のパクリではないか?

 監督は「ピース・メーカー」「ディープ・インパクト」のミミ・レダー。トレバーの祖母役でなんとアンジー・ディキンソンが出ている。

2001/01/24(水)「ファイナル・デスティネーション」

 搭乗する飛行機が爆発するのを予知夢で知った主人公と友人ら7人が離陸の直前に飛行機を降りて助かる。しかし、その7人は浴槽で滑ったり、交通事故に遭うなどいろいろな事故で一人一人死んでいく。死神が立てた死の筋書きは変えられず、死ぬはずだった7人に順番に死が訪れているらしい。主人公は死の法則を調べ、何とか免れようとするが、その間にも死は次々と訪れる。果たして主人公は…といったストーリー。

 このストーリーだけで映画を作るには少し無理がある。ヒネリようのないアイデアなのである。死神を画面に出せば、陳腐になるだけだし、かといって何も敵の姿が見えないのでは面白くなるはずがない。勝てるはずのない相手に立ち向かっているわけだから、ま、どうしようもありませんね。

 アメリカのティーンエイジャー向けであることがはっきりした作りで、よくあるスラッシャーと同じパターン。出演者もほとんど無名の若者たちである。監督・脚本のジェームズ・ウォンは「Xファイル」などの演出を経て、これが劇場用映画デビューだそうだ。「Xファイル」ぐらいSFしていれば、少しは何とかなったのにね。

 主人公が墓場で会い、「死は避けられない」などと分かった風なことをいう黒人がその後登場しないのは不思議。「また会おう」と言っているのだから、当初はキーパースンの予定だったのではないか。

 この映画のシチュエーション、近く公開されるM・ナイト・シャマラン「アンブレイカブル」に何だか似ている。あちらは毀誉褒貶もあるようだけれど、これよりは、はるかにアイデアを詰め込んでいるだろう。

2001/01/17(水)「レッド プラネット」

 カール・セーガンの火星地球化計画をベースにしたSF映画。地球が汚染され尽くしたため、人類は火星に藻類を送り、酸素を作り出そうとする。その調査に出かけた宇宙船の乗組員が次々に危機にさらされる。昨年の「ミッション・トゥ・マーズ」に続いて火星を舞台にしている。いつものことながら、リアルな宇宙の描写は好ましいのだけれど、SF的アイデアの発展はこれまたいつものことながらない。

 火星軌道上で太陽風の直撃を受けて宇宙船が機能停止、船長(キャリー・アン・モス)を除く乗組員が火星に脱出する。しかし、火星にあるはずの基地は破壊されていた。酸素がなくなる、連れてきたロボットが異常を起こして襲ってくるという危機をどう乗り越えるかが描かれる。あっと驚くような展開をアメリカのSF映画に期待するのはもう無理なのか。リアルの延長で話が地味だ。脚本にアイデアが足りない。

 監督のアントニー・ホフマンはCMディレクター出身。いちおうの絵づくりはできるけれど、それだけのこと。こういう監督を起用するのはちょっと考えものだ。場面自体は良くても演出にメリハリがない。「スペース カウボーイ」のイーストウッド演出を少しは見習ってほしい。

 キャリー・アン・モスは相変わらず美しくて良い。ただし、宇宙船にいたままなので、あまり活躍の場がないのは残念。

2001/01/09(火)「ダンサー・イン・ザ・ダーク」

 ヒロインが空想するミュージカルの場面のみ色鮮やかで、現実はざらざらした(銀残しのような)感触の色合い。過酷な現実を描く部分にまったく共感できない。救いのないストーリーが許せない。ラース・フォン・トリアーはミュージカルを本当に好きなのだろうか。「気持ちが高ぶって歌になり、歌が極まって踊りになる」というミュージカル映画の基本を表していたのは、わずかにビョークが「I've Seen It All」を歌う場面のみだった。

 映画の中で「ミュージカルって、なぜ突然歌ったり、踊り出したりするんだ」と登場人物の1人が話す場面があるけれど、この映画の終幕、裁判所や刑務所でビョークが歌い出す場面はこれに当たる。なぜここで歌い出すのか、失笑するしかないのである。

 この映画で初めてミュージカルに接する人がいたなら、それはとても不幸なことである。最初に経験すべきミュージカルはMGMでアーサー・フリードが制作したものでしょう。

 小林信彦は「ミュージカル映画はなぜつまらなくなったか」という一文でこう書いている。「ミュージカルというのは、社会性もヘタクレもない、歌や踊りを武器にして、現実と別の次元へ飛翔する人間の魂の自由の喜びの表現なのだから、そのような喜びのないミュージカルは、むしろ気の抜けたオペラというべきで、1930年代よりはるかに後退していると言わざるを得ない」。

 ラース・フォン・トリアーはミュージカルを分かっていない。その前に音楽も分かっていないし、映画的な技術も足りないのではないかと思う。でなければ、こんな物語をミュージカル的に作るわけがない。