2003/07/09(水)「バトル・ロワイアルII 鎮魂歌」

 前作は傑作だったと思う。あの映画で深作欣二は中学生同士の殺し合いを戦争のメタファーとして描いた。自分の戦争体験を交えて熱く熱く描き、物語の弱さを感じさせない映画に仕上げていた。映画は一にも二にも三にもスジだと僕は思うが、描写のエネルギッシュさがありきたりの物語を凌駕して傑作を生むこともあるのだ。

 今回はまさに戦争である。バトル・ロワイアルに生き残った七原秋也(藤原竜也)はテロ組織「ワイルド・セブン」のリーダーとして爆弾テロを行い、政府から追われている。島に立てこもった組織殲滅のため、政府はバトル・ロワイアルII(BRII)法を制定、落ちこぼれの集まった中学校のクラス42人に七原秋也殺害を命じる。今回も生徒たちは首輪をはめられているが、前回と違うのは出席番号のペアで片方が死ぬと、もう一人の首輪が爆発する仕掛け。前作で殺害された教師キタノ(北野武)の娘シオリ(前田愛)は秋也に会うため、BRIIに参加する。

 生徒たちが島にボートで上陸する場面は映像のタッチも含めて「プライベート・ライアン」そのまま。しかし、どうも「戦争ごっこ」という感じがつきまとう。もちろんBRIIはゲームなのだが、少なくとも前作の生徒たちにはゲームを超えた必死の思いがあった。テロに明確な理由がないことも「ごっこ」感を加速する。秋也は犯行声明で「俺たちはすべての大人に宣戦布告する」と話す。これがもう幼稚な考えとしか思えない。すべての大人ではなくBR法を制定した一部の政治家であり、社会を牛耳る権力、大企業を標的にしないと、単なる馬鹿である。革命にはイデオロギーが必要だし、民衆を味方にしないと成功しないものなのである。

 冒頭、東京の高層ビルがテロの爆破によって次々に崩れ落ちていくシーン(9.11の露骨な影響だ)は視覚的には面白いものの、こういう浅はかな考えに基づくのでは著しく興ざめだ。

 総じて脚本を練る時間がなかったとしか思えないストーリーである。事実、キネマ旬報7月下旬号の製作ドキュメントを読むと、深作健太から脚本の直しを要請された木田紀生には1カ月も与えられず、最終稿が完成したのは撮影開始の2日前というハードスケジュールだ。深作欣二の病状が緊迫していた時だし、撮影が1カ月遅れていたという事情はあるにせよ、あまりにも無茶である。映画の基礎が不十分なので、完成した映画にも一本芯が通っていない。秋也たちテロリストの思想をどう固めるか、そこに十分時間をかけるべきだった。

 深作欣二ならまだ、中学生の話を開き直ってオヤジ映画にしてしまえる技量があったが、監督デビューの深作健太にそれを要求するのは酷だろう。

 前作では生徒たちの死に方が多面的に描かれていた。今回はどれも同じような一面的な描写に終始する。このあたりにも工夫が欲しかった。何より「ワイルド・セブン」の主要メンバーとして役を割り振りながら、スナイパー役の加藤夏希にほとんどセリフも見せ場もないのが大いに不満。ほかの役者も見せ場らしい見せ場はなく、忍成修吾と酒井彩名と前田愛と藤原竜也が中心。生徒たちの集団劇のドラマが今回の主軸ではないにせよ、キャラクターの描写不足が致命傷になった観がある。

 若い役者たちが、ちょっとだけ出てくる北野武や三田佳子、オーバーアクト気味の怪演を見せる教師RIKI役の竹内力に場面をさらわれてしまっているのはそのためだ。

2003/07/02(水)「恋愛寫眞 Collage of Our Life」

 あの「ケイゾク」「トリック」の堤幸彦が監督したラブストーリー。広末涼子と松田龍平主演で、松竹タイトルの富士山の火口がカメラのレンズに重なって始まるデジタルなタイトルバックから良い出来である。前半、カメラマン志望の大学生・松田龍平がちょっと変わった女子大生・広末涼子に出会い、同棲し、ふとしたことで破局を迎える描写の切なさを見ていて、これはもしかしたら大傑作なんじゃないかと思ったのだが、ニューヨークに舞台を移した後半はテレビの2時間ドラマを見るような展開で、急に失速してしまう。ラスト近くのエピソードで映画は盛り返すのだが、惜しい。前半をもう少し膨らませて、後半を簡単な描写にとどめれば、映画の出来はもっと良くなったはずだ。前半100点満点、後半60点程度の出来なのである。

 広末涼子は「これは男の子の目線から描いたラブストーリー」と堤監督に言ったそうだが、その通りの内容だ。誠人(松田龍平)は同棲した静流(広末涼子)に写真を教えて、2人一緒に写真雑誌のコンテストに応募する。誠人は落選するが、静流は新人奨励賞に選ばれる。ずっと写真を続けてきた自分より静流の方が才能があるのか。そんな思いに駆られて、誠人はいたたまれなくなり、結局、静流をアパートから追い出してしまう。「ずっと一緒にいたかっただけなの。誠人と同じことをして」という静流の別れ際のセリフが泣かせる。静流は男にとって理想的な女なのであり、ヒロスエが言う男の目線というのはここを指している。

 とにかく前半のヒロスエが素晴らしく良い。チャーミングな表情の一方で、私生児で家庭的には恵まれなかった静流の生い立ちも含めた深い演技を見せる。加えてタイトル通り、写真(撮影は斎藤清貴)を多用してあるが、その1枚1枚が実に良い出来である。堤監督は撮影にも凝っており、この前半の切ないラブストーリーをもっともっと見ていたかった。

 3年後、誠人にニューヨークへ行った静流から手紙が来る。写真の個展を開くという案内だった。誠人はその手紙を捨ててしまうが、同級生から静流が1年前に死んだらしいとの噂を聞く(映画はこの「死んだ恋人からの手紙が来た」というアイデアが先にあったらしい)。手紙をもらったのに死んでいるわけがない。誠人は自分の目で確かめるためにニューヨークへ行く。ここからのタッチがいつもの堤幸彦の映画を思わせるものであまり良くない。チンピラにボコボコにされた誠人を助ける日本びいきの牧師の描写など不要だと思う。静流のニューヨークの友人役を演じる小池栄子を評価する人もいるようだが、僕はあまり買わない。

 全体としてこれは、なくして初めてなくしたものの重要さに気づく男の話で、若いからこその失敗の話であり、それを乗り越えて成長していく話でもある。20歳になったばかりの松田龍平には少し荷が重い役だったかもしれない。しかし、広末涼子に関しては満足できる映画であり、これが今のところのヒロスエの代表作になった観がある。全編に流れる音楽(見岳章、武内亨)と主題歌の山下達郎「2000トンの雨」も良かった。

2003/06/17(火)「スパイ・ゾルゲ」

 細かいことから始めるなら、ロシア人もドイツ人も外国人の話す言葉はすべて英語というこの映画の取った手法は間違っている。少なくとも昭和史を描く覚悟があるなら、ロシア語とドイツ語ぐらいしゃべれる俳優を用意しなくてはいけない。さらに細かいことを言えば、226事件の将校たちが処刑される場面で頭を撃たれたのに「天皇陛下バンザイ」などと叫ぶのはおかしい。このほかにもたくさんツッコミどころのある映画で、主演のイアン・グレン(「トゥームレイダー」)がまるで木偶の坊であるとか、女優たちはいったい何のために出てきたんだか分からないとか、主人公がゾルゲか尾崎秀実(本木雅弘)か揺れ動くとか、いくらなんでも3時間2分は長すぎるとか、話に起伏がなさすぎるとか、もう挙げていったらきりがない。篠田正浩監督、本当にこの映画で引退するのか。

 大物スパイのゾルゲを中心にして激動の昭和史を描くというアイデアだけは良かった。篠田正浩が間違ったのは描くのは人間ではなく、状況だ、と考えたことだ。状況を作り出すのは人間なのだから、まず何を置いてもそういう状況を作り出した人間を描かなくてはいけない。戦前の上海から始まって満州事変や226事件を経て開戦に至る昭和の歴史を単に順番に並べただけで話にまったく深みがない。それは人間を描いていないからにほかならない。

 映画は「スター・ウォーズ クローンの攻撃」でも使われたHD24pでハードディスクに撮影されたそうだが、そうしたCGを駆使した映像をいくら使っても時代のリアルな感じは意外なほど出てこない。人の営みや苦しみなど普通の風景と感情が映画からすっぽり抜け落ちているからだろう。無味乾燥な映画なのである。だいたい、観客はだれに感情移入してこの映画を見ればいいのか。ナレーションが尾崎になったり、ゾルゲになったりするようではストーリーテリングの基礎をわきまえていないと思われてしまう。

 いっそのことゾルゲでも尾崎でもなく、別の第3者の視点から物語を組み立てた方が良かったのではないかと思う。この映画の一番の弱さがこの昭和史を極めて表面的になぞっただけのつまらない脚本にあることは間違いなく、これが故笠原和夫なら、と思わずにはいられない。笠原和夫なら間違いなく、沖縄出身でアメリカ人からも日本人からも差別され、共産主義に希望を見いだした宮城与徳(永澤俊矢)の視点から話を語ったのではないか(篠田正浩も途中でそれを考えたという)。映画のクレジットに出てくる参考文献を篠田正浩は簡単にまとめただけなのだろう。脚本を17稿書いたとはいっても、出来がこれではお話にならない。

 見ている最中、凡庸という言葉が頭に浮かんでいた。篠田正浩はこんなに凡庸だったのか。話の語り方、表現、手法のことごとくが新人監督が撮ったように青臭くて下手である。前作の「梟の城」の時にも思ったのだが、篠田正浩は60年代から70年代初めまでで才能を消費し尽くしてしまったのではないか。

2003/05/12(月)「棒たおし!」

 城戸賞の受賞作を基に全編宮崎ロケした作品。出てくる風景がすべて見慣れたもので、「おおお、これはあそこだ」「ああ、ここも映ってる」と思うが、そういう部分だけで宮崎県民に評価されても仕方がないだろう。第一、映画は宮崎が舞台と明示しているわけでもない。どこかの地方の街である。ただ、脚本のチーズケーキが宮崎名物(?)チーズまんじゅうに変わっているとかのアレンジはある。

 脚本は昨年10月14日に読んだ。「ウォーターボーイズ」を思わせる青春ものでとても面白かった。映画はその生真面目バージョンという感じである。主人公の高山次雄を演じる谷内伸也の演技が堅く、相手役の紺野小百合(平愛梨)の演技も未熟なのが誤算だったと思う。この2人が中盤、小学校の校庭で話すシーンが2度あるが、いずれも相米慎二を思わせる長回しで撮られている。ところが、2人の演技では画面が持たないのである。演技的に未熟な部分があるのだから、ここは長回しに固執せず、カットを割ってあげた方が良かったと思う。平愛梨はラスト近くの列車を待つシーンまでアップらしいアップもない。

 この2人とは好対照にうまいのが心臓に病気を抱えながら、体育祭での棒たおしに懸ける久永勇(金子恭平)。脚本でも儲け役だが、金子恭平はいきいきと演じていて好感が持てる。真冬に撮影されたこの映画に熱い部分があるとすれば、それは勇の役柄しかない。勇は棒たおしに興味を示さない次雄にビデオを見せる。このビデオが迫力満点の大学の棒たおしの映像で、これを見たら、荒々しい棒たおしの魅力も分かるというぐらいの面白さ。しかし、残念ながら映画のクライマックスの棒たおしはこの迫力に欠けていた。主人公に熱さが足りない。棒たおしに懸ける気持ちが伝わってこない。

 生真面目バージョンと書いたのは元の脚本にはない「人は死ぬと分かっているのに、どうして生きるのか考えた事ある?」という小百合のセリフが映画のポイントになっているからでもある。こういうだめ押し的なセリフが僕はあまり好きじゃない。そういうことは画面で見せればいい。笑って笑って少し感動させてという展開になるはずが、笑いも少しあるけど本音は真面目なんだぜ、という映画になったのはこういうセリフを入れたことと無関係ではないだろう。

 アイドルたちが出演していても前田哲監督はアイドル映画を撮るつもりはさらさらなかったようだ。自分なりの青春映画を撮ろうとした意図はよく分かる。どうか、ブライアン・シンガーのように捲土重来を果たしてほしい。

2003/03/09(日)「ワンピース The Movie デッドエンドの冒険」

 4作目の映画。初の単独公開(航海)が売りだが、昨年春まで「アニメまつり」として併映だった「デジモン」の興行力がなくなった(昨年夏に惨敗した)ので、単独公開せざるを得なかったのだろう。余計な併映がなくなって上映時間はこれまでの70分程度から20分ほど長くなったものの、出来そのものは変わらない。毎回同じパターンの話なので、印象も変わらない。

 ルフィたちが海軍に追われる冒頭の演出にさえがなく、次に意味のない一人称の視点で港町の移動シーンがあって、これはちょっとと思ったら、その通りの出来だった。サンジやゾロに活躍の場面がないとか、シーンによって絵の出来不出来に差が大きいとか、細かい不満はいろいろあるのだが、何よりも話がもっと面白くないと苦しい。

 万年金欠病のルフィたちが賞金3億デリーの海賊船レース・デッドエンドに参加することになる。優勝候補のガスパーデは悪魔の実の能力者。アメアメの実を食べて、体が「ターミネーター2」のT1000のように変わっている。港町ハンナバルでルフィたちと知り合った賞金稼ぎのシュライヤ・バスクードはこのガスパーデを狙う。シュライヤは8年前、妹をガスパーデに殺された恨みから海賊を狙う凄腕の賞金稼ぎになった。ガスパーデの船には病気に苦しむボイラー職人のビエラじいさんがおり、ビエラに育てられた少年アナグマは薬を買う金を手に入れるため、ルフィの船に潜入するが、ゾロに発見される。

 映画はテレビシリーズの番外編みたいなものだから、毎回、悪人に苦しめられている者たちをルフィが救う展開にせざるを得ないのだが、今回もシュライヤとアナグマの話が中心になる。ゾロに見つかったアナグマが生きていても意味がないから自分を殺せ、と言ったのに対してナミが激怒したり、ルフィが終盤、「どんなことがあっても生き抜け」みたいなセリフを吐くのが義理と人情と友情と正義と不正に対する強い怒りに彩られた「ワンピース」らしいところ。ギャグを交えて本音を語るのが根強い人気の要因か。

 監督はテレビシリーズを担当している宇田鋼之介。テレビシリーズで魚人のアーロンたちにメタメタにやられたエピソードのような話を映画にも期待したいところだ。上映時間が長くなったのにあまり盛り上がらないのはルフィたちに危機らしい危機がないためではないかと思う。やられてやられてやられた後に反撃する展開はこういう話の定石なのだ。テレビとの同時進行で時間的な制約があるのは分かるが、次の作品ではもっと面白い話を見せてほしい。