2004/05/11(火)「フレディVSジェイソン」

 エルム街の人々に忘れ去られたために力を失ったフレディ・クルーガーが復活しようと、クリスタルレイクの殺人鬼ジェイソンをエルム街に連れてくる。だから最初はフレディwithジェイソンであり、現実でも夢の中でも人々は恐怖に陥る。恐怖はフレディを強くするのだ。

 しかし、ジェイソンが手当たり次第に殺し始めたため、これでは自分への恐怖が不十分と怒ったフレディがジェイソンを倒そうとして、フレディVSジェイソンになる、という話。例によって例のごとくの展開。結末も予想通り。

 殺人鬼が2人出てきても2倍の恐怖にはなりませんね。というか、もともとどちらの映画も怖くない。面白かったのはどちらも1作目だけという点でも共通している。

2004/05/08(土)「スクール・オブ・ロック」

 主に小学校高学年から高校生ぐらいまでをターゲットにした映画だろう。といっても70年代のロックが中心だから、大人でもまず楽しめる。

 ロックバンドを首にされた歌手のデューイ(ジャック・ブラック)は居候している友人ネッド(マイク・ホワイト)から滞納している家賃の支払いを迫られる。ネッドにかかってきた電話を受けたデューイは稼ぐためにネッドになりすまして名門私立小学校の代用教員になる。しかし、何の資格もないデューイに授業ができるわけがない。最初は休憩時間ばかりにしていたが、音楽の時間に生徒たちの音楽の才能を見たネッドは、ロックの演奏を教え、バンドを組んで、ロックコンテストに出ようとする。

 ジャック・ブラックは「愛しのローズマリー」よりも適役。元々ロックが得意だそうで、おかしな演技とともに本領発揮という感じである。生活能力はまるでないダメ人間だが、ロックに対してはだれにも負けない情熱を傾ける。笑いと本気に境目がないブラックの演技は面白い。小学校の厳しい女性校長を演じるのがジョーン・キューザック。もうそんな役をする年齢かとも思うが、やはりこの校長も元はロック好きという設定で、パブでジュークボックスのロックを聴いてノリノリになったりする。やはりいつものキューザックなのである。

 ロックがすべてを解決するというのは、ロックファンにとっては言うことないだろうが、楽天的にすぎる展開とも思う。クラスに音楽の才能がある生徒が多いのは不自然とか、3週間も授業せずにすませられるわけがないとか、マイク・ホワイトの脚本には穴も目立つ。それをあまり感じさせないのはブラックの好演に加えて、監督のリチャード・リンクレイターのテンポのよい演出があるからだろう。

 ニューズウィークは昨年のトップ10の1本に選んだそうだが、僕はそこまで評価はしない。もう少し大人向けに作って欲しかった。

2004/05/03(月)「えびボクサー」

 体長2メートル10センチのエビで一山当てようとする3人の男女を描くイギリス映画。パッケージングはばかばかしいコメディなのだが、中身は中年男のしみじみ系である。しかし、それにしては話の作りの下手さが目立ちすぎて、あーあという感じである。劇中に「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」(旧作の方)がテレビで流れる場面があるけれど、もちろんあの傑作の足下にも及ばない。

 かつてボクサーだった主人公ビル(ケヴィン・マクナリー)は今はパブを経営し、アル中寸前。趣味でボクシングのコーチをしているが、目をかけていたスティーブ(ペリー・フィッツパトリック)は成功しそうにない。そんな時、友人のなんでも屋アミッド(マドハヴ・シャルマ)から強力なパンチを持つ巨大エビの話を聞かされる。全財産はたいて巨大エビのミスターCを買ったビルはスティーブとその恋人シャズ(ルイーズ・マーデンボロー)とともにロンドンに行き、テレビ局に売り込もうとする。

 金儲けだけを考えていたビルが巨大エビに愛着を感じるようになって、という展開はまともだが、せっかく巨大エビを持ってきたのに、古くさい話に終わっている。なかなかエビが活躍しない前半の描写は無駄というか、イライラするだけ。もう少し面白い話を考えつけなかったんですかね。監督・脚本のマーク・ロックはB級であることを自覚したためか、あるいはプロデューサーから要求があったためか、下品なだけのセックス描写を入れている。こういうので観客が喜ぶと思って映画を作っているようでは見込みがない。

 IMDBの評価を見ると、6.8。意外に高い評価だが、投票しているのは15人。アメリカでは公開していないらしい。

2004/05/02(日)「コールドマウンテン」

 主役のエイダ役にはニコール・キッドマンよりも20代の女優、例えば、この映画にも出てきて痛切な印象を残すナタリー・ポートマンなどの方が良かったかもしれない。出征前のたった一度の慌ただしいキスの後、南北戦争に従軍した男を待ち続ける女を演じるには30代の女優ではちょっと無理がある。しかし、キッドマンはいつものように美しく、お嬢さん育ちの女がたくましく変貌していく様子を説得力のある演技で見せてくれる。お互いの思いを十分に伝えられなかったからこそ、エイダ(キッドマン)とインマン(ジュード・ロウ)は惹かれ合う。平和な故郷でのエイダとの短い思い出は地獄のような戦場にいるインマンにとって輝く宝のようなものだ。だから父親を亡くし、頼る者がいなくなって苦しい生活を送るエイダが“Come back to me”と手紙に書いたことで、インマンは戦線を離脱し、脱走兵として死を覚悟して故郷を目指すことになる。それはちょうど、「風と共に去りぬ」のラストで「そうだ、タラに帰ろう」と言ったスカーレット・オハラと同じ故郷への思いが含まれていたのかもしれない。

 アンソニー・ミンゲラ監督のこの映画、単純なラブストーリーではさらさらない。南北戦争によって美しい故郷コールドマウンテンが疲弊し、人の心が荒廃していく様子をしっかりと描いている。ミンゲラが訴えているのは主義主張よりも大地に根を下ろして生きていくことの真っ当さにほかならない。それを体現するのがレニー・ゼルウィガー演じるルビーだ。

 農場は荒れ果て、食べるものもなくやせ細ったエイダのところへやってくるルビーは生きるための実際的な知恵だけを学んだ女である。登場シーンでエイダが「悪魔」と怖がるニワトリの首をクキッと折り、「鍋はどこ」と聞くシーンからルビーにはたくましさがあふれている。ゼルウィガーのアカデミー助演女優賞も納得である。

 映画はインマンの故郷への苦難の道のりとエイダのコールドマウンテンでの暮らしを交互に描くけれど、魅力的なのはコールドマウンテンの描写の方である。女たちに助けられてばかりいるインマンの描写は不要ではないかと思えるほどだ。

 コールドマウンテンにも人の弱みにつけ込み、権力を振りかざす唾棄すべき男がいる。そんな卑しい男に対抗するのはエイダとルビーの人としての当たり前の生き方だ。

 「バカな男たちが“戦争”って雨を降らせて、“大変だ雨だ!”と騒いでいるのよ!」。同じく脱走兵の父親が義勇軍に殺されたと聞かされたルビーは叫ぶ。あるいは「もし戦っているのなら戦いをやめてください。もし行軍しているのなら、歩くのをやめてください」とエイダはインマンへの手紙に書く。そうした女たちの目から見た戦争批判をこの映画はさらりと描いている。この軸足を少しもぶれさせなかったことで、映画は凡百のラブストーリーを軽く超えていく。

 個人的には「イングリッシュ・ペイシェント」も「リプリー」をも超えて、ミンゲラのベストと思う。ジョン・シールの素晴らしい撮影とガブリエル・ヤールの音楽を含めて、充実しまくりの映画である。

2004/04/28(水)「キル・ビル vol.2 ザ・ラブ・ストーリー」

 アイパッチを付けたエル・ドライバー(ダリル・ハンナ)は「柳生十兵衛がモデル」との町山智浩の指摘に納得する。町山智浩はパンフレットで、この映画の基本は「子連れ狼」だとしている。確かにそうなのだろうが、「子連れ狼」の主人公・拝一刀には復讐の動機が十分にあった。この映画の場合、そこが弱いと思う。いや、前作を見る限り、結婚式を襲われ、恋人とその親族と友人を惨殺され、自身も瀕死の重傷を負って、妊娠中の子供を失ったブライド(ユマ・サーマン)の気持ちはそれなりに分かったのだが、この映画で真相が明らかになってみると、弱いと思えてくるのだ。

 ビル(デヴィッド・キャラダイン)の元にたどり着いたブライドことベアトリス・キドー(この名前をなぜ隠すのかがよく分からない)はそこでビルの「ついかっとして」というセリフを思わず聞き返す。ビルはブライドの裏切りに「ついかっとして」惨殺を行ったわけで、見ているこちらもがっかりしてしまう。復讐の元になった事件はそんな単純なことだったのだ。前作のラストで分かったように当時妊娠中だったブライドの子供は生きていた。しかも子供の父親はビル。元はといえば、男女のささいなすれ違いが事件の発端だったわけだ。

 ブライドがビルと殺し屋稼業に決別した理由については映画を見て欲しいが、それが分かってもこの動機の弱さ、物語の基本的な設定の弱さの印象は変わらない。「ザ・ラブ・ストーリー」というサブタイトルはビルとブライドのそれを表しているようだ。しかし、エンドクレジットにまたも流れる「怨み節」とは裏腹に、誤解に基づくラブストーリーを見せられても困るのである。ビルを穏やかなものの分かったキャラクターなどにせず、単純に極悪非道の悪いヤツにしておけば、まだ何とかなったのではないか。クエンティン・タランティーノはなぜ、この部分だけ、東映映画をまねなかったのだろう。

 快調なのはバド(マイケル・マドセン)に返り討ちに遭い、棺桶に入れられ生き埋めにされたブライドを描く場面からエルとの死闘までだった。普通、生き埋めにされたら外から手助けがない限り、脱出は無理。タランティーノはそれを可能にするため、中国でのブライドの修行を見せる(ここで出てくる五点掌爆心拳は「北斗の拳」を参考にしたのだろう)。なんとか脱出してバドのトレーラーに行くと、エル・ドライバーがいる。ここから狭いトレーラーの中でブライドとエルの迫力たっぷりの死闘が描かれる。

 その後のブライドとビルとの描写はまったく生彩を欠いて、長い言い訳を聞かされているような気分になる。前作はハチャメチャなアクションと誤解に基づく日本趣味が魅力だったけれど、今回のようなドラマ重視の作りでは脚本の力が要求される。タランティーノにはそれが足りなかったようだ。この程度の話なら、2作合わせて2時間半もあれば良かったのではないか。4時間以上もかけて描く内容ではないのである。