2004/10/11(月)「オーシャン・オブ・ファイヤー」

 しっかり作られた佳作。1890年、アラビア砂漠の過酷なレースに挑む西部男の話。「ロード・オブ・ザ・リング」のアラゴルンことヴィゴ・モーテンセン主演で、監督は「遠い空の向こうに」「ジュラシック・パークIII」のジョー・ジョンストン。

 主人公のフランク・ホプキンスは実在の人物とのことだが、映画の方はレースに絡む陰謀などフィクションだろう。それでも由緒正しい冒険活劇の趣で、2時間余り十分楽しめる。一番いいのは主人公の愛馬(ヒダルゴ)がよく描けていることで、レースをあきらめかけた主人公をよそにさっさとスタート地点にいるところなど微笑ましかった。主人公は先住民と白人の間に生まれたという設定で、星条旗を背負っていないところにも好感が持てる。

 アラブの族長を演じる俳優は、以前ならオマー・シャリフが演じるところだよなあ、と思ったら、終盤に至ってオマー・シャリフその人だと気づいた。

2004/10/11(月)「殺人の追憶」

 「殺人の追憶」チラシ1986年から1991年にかけて韓国の農村で起きた猟奇的な連続殺人事件を描いたミステリー。今年4月に出張先で見ようと思って見られなかった。評判の高さは聞いていたが、これは凄い傑作だと思う。10人の若い女性が殺されたにもかかわらず、未解決のままになっている事件で、それはとりもなおさず当時の警察の無能さを象徴しているわけでもあるが(なにせDNA鑑定さえアメリカに頼まなければならなかったのだ)、これは警察批判などの社会派の視点に立った作品ではまったくない。いや、冤罪を生む田舎警察の捜査のデタラメぶりなど批判も込められてはいるけれど、それ以上に監督のポン・ジュノが目指したのはエンタテインメントとしての完成度だったのだと思う。そして突き詰めたエンタテインメントは芸術の域にまで高まるものなのである。

 主演のソン・ガンホ、キム・サンギョンら刑事たちの人間臭くてユーモラスな描写と、後半グイグイ高まっていく強烈なサスペンスが一体となって迫ってくる。懸命な捜査にもかかわらず、連続する殺人を防げず、クライマックスには知り合いの少女まで犠牲にしてしまう刑事たち。その無念さと無力感は観客にもひしひしと伝わる。韓国人なら民主化が始まったころの時代風俗の描写にもグッと来るものがあるのではないか。細部にまで心を配ったドラマ作りであり、その見事さには感心せざるを得ない。

 予告編とチラシに阪本順治が黒沢明を引き合いに出した賛辞を寄せているけれど、その通りで「野良犬」や「天国と地獄」に匹敵する描写がこの映画にはある。ここぞという場面で鳴り響かせる岩代太郎の音楽も素晴らしい。

2004/10/08(金)「テイキング・ライブス」

 マイケル・パイの原作にアンジェリーナ・ジョリーの役柄は登場しないそうだ。この映画、中盤まではサイコスリラーとしてまずまずの出来なのだが、終盤の展開がメタメタである。脚本家(ジョン・ボーケンキャンプ)がジョリー主演にするために書いたと思われる部分が物語の完成度を著しく落としているのだ。途中で(といっても終盤に近い)犯人が分かる構成はヒッチコックあたりを参考にしたのかと思ったが、その後の展開に今ひとつ工夫がない。ヒッチコックと言えば、音楽もバーナード・ハーマン風で、ジョリーが死体発見現場に横たわるシーンに流れる音楽は「めまい」を参考にしたかのよう。映画自体の完成度は決して褒められたものではないにもかかわらず、そこそこ楽しめた気になるのは一重にFBI捜査官役をカッコよく演じるアンジェリーナ・ジョリーのお陰だろう。ジョリーの場合、「トゥームレイダー」などでもそうだが、本人は好演し、好感が持てるのに映画としてはパッとしない出来の作品が多い。監督に恵まれていないのだ。

 カナダのモントリオールが舞台。工事現場で絞殺され、両手を切断された死体が見つかる。モントリオール警察のレクレア(「キス・オブ・ザ・ドラゴン」のチェッキー・カリョ。パンフレットの表記ではチェッキー・ケイリオ)はFBIに捜査協力を要請。単身乗り込んできたイリアナ・スコット(アンジェリーナ・ジョリー)はプロファイリングに天才的なサエを見せる。イリアナはモントリオール警察のパーケット(オリビエ・マルティネス)、デュバル(ジャン=ユーグ・アングラード)とともに捜査を進め、事件の目撃者コスタ(イーサン・ホーク)を追及する。その頃、ある老婦人が警察に「死んだはずの息子を見た」と届け出る。その老婦人、アッシャー夫人(ジーナ・ローランズ)の息子マーティンは1983年、家出した後に事故死していた。気になったイリアナはアッシャー夫人を訪ね、マーティンが双子の兄のリースが死んだ後に家出したことを聞かされる。墓を掘り返した結果、埋葬された死体はマーティンではなかった。マーティンは20年間にわたって、次々に殺人を犯し、その人間になりすまして(人生を乗っ取って=テイキング・ライブス)生きてきたらしい。警察はコスタを囮にしてマーティンをおびき出す作戦を取る。コスタの周辺には謎の男(キーファー・サザーランド)がいた。

 捜査を進めていくうちにイリアナはコスタに惹かれていく。一応の事件が解決した(と思われた)後、ホテルを訪ねたマーティンを迎え入れるイリアナの表情がいい。その後にある激しいラブシーンを予感し受け入れているようなアンジェリーナ・ジョリーのたたずまいは大人の女を感じさせる。アンジェリーナ・ジョリーに関しては十分に満足のいく作品なのだが、それだけに前半と後半とで別の映画のようになる腰砕けの脚本が残念すぎる。監督はD・J・カルーソー。劇場用映画は2作目らしいが、豪華キャストを生かし切れていない恨みが残る。アップを多用した撮り方だけは映画的だった。

 アッシャー夫人が最初に出てきた時、そのファッションからしてジーナ・ローランズかと思い、いや、こんなにおばあさんのはずはないと思い返したのだが、やはりジーナ・ローランズだった。うーん、随分おばあさんになったものだ。

2004/10/01(金)「アメリカン・スプレンダー」

 「アメリカン・スプレンダー」チラシ公式ホームページの作りは、サエない男のラブストーリーといった感じだが、実際にはハービー・ピーカーというコミック原作者の自伝的映画で、ラブストーリーの部分は大きくない。ハービーは自分の身の回りのことを書く、いわば私小説的なコミック作家。病院の書類係で2度の結婚にも破れた男がコミックの原作を書くことで、ささやかな幸福を得るという話である。

 といってもサエない日常にそれほどの変化はない。監督のシャリ・スプリンガー・バーマンとロバート・プルチーニはドキュメンタリー作家だから、物語よりもハービーという人間を浮かび上がらせることに重点を置いている。俳優とコミックの絵と実際のハービー・ピーカーまで登場させる手法は面白く、映画製作の過程まで見せる。このあたりがアカデミー脚色賞にノミネートされた理由だろう。脚色の過程を描いたスパイク・ジョーンズ「アダプテーション」を思い起こさせる手法だが、違うのは「アダプテーション」が終盤、フィクション性を高めたのに対して、この映画は事実に近づいていくこと。実際のハービーがたびたび登場して物語に解説を加えており、こういう表現方法によって、物語自体の求心力はやや薄れたような気がする。「アメリカの輝き」というタイトルとは裏腹にアメリカの小さな日常を描いた映画になっている。

 クリーブランドの退役軍人病院の書類係として働くハービー(ポール・ジアマッティ)は2度目の妻にも逃げられ、退屈な日々を送っていた。ある日、ハービーは近所のガレージセールでロバート・クラム(ジェイムズ・アーバニアク)と知り合う。クラムは異色のコミックを書き、やがて「フリッツ・ザ・キャット」の作者として有名になる。ハービーも一念発起して自分の日常を書くことにする。絵は描けないので、コミックの原作だが、それを読んだクラムは「傑作だ」と評価する。「アメリカン・スプレンダー」と題して出版したコミックはマスコミでも高い評価を受ける。デラウェア州でコミック書店を経営するジョイス(ホープ・デイヴィス)は自分のために取っておいた「アメリカン・スプレンダー」を相棒に売られてしまい、ハービーにコミックを譲ってくれないかと手紙を書く。それをきっかけに2人には交流が生まれ、クリーブランドにやってきたジョイスとハーピーは結婚することになる。テレビの人気番組にも出演するようになり、ハーピーは有名になるが、ある日、がんに冒されていることが分かる。

 ハービーは妻の協力でがんの闘病記までコミックにする。この闘病記はさらりとした描写で、映画の狙いがこんなところにはないことを示している。監督2人の頭にあったのはあくまで、普通のダメな中年男の生き方であり、ハービーその人を描くことだったのだろう。ハービー・ピーカーがアメリカでどのくらい有名なのか知らないが、この内容から見てコミック自体はそれほど売れているわけではないと思う(当初は自費出版だったそうだ)。それでも世のダメな中年男の共感を得る部分は大きいようだ。

 主役を演じるポール・ジアマッティは実際のハービーと風貌がそっくり。原作者がテレビに出る場面はそのまま当時のビデオが使われているが、全然違和感がない。このほか、NERD(おたく)のトビー役のジュダ・フリードランダーなど話し方まで実際のトビーをそっくりにまねている。

2004/09/25(土)「アイ,ロボット」

「アイ,ロボット」パンフレット昨日見た。「ダークシティ」のアレックス・プロヤス監督がアイザック・アシモフのロボットシリーズにインスパイアされて撮ったSF。ジェフ・ヴィンターの“Hardwired”という脚本が基になっており、これにアシモフの「われはロボット」や「鋼鉄都市」などを組み合わせたという。ロボットが犯人とみられる殺人事件によって始まり、ロボット工学三原則をメインにしたプロットから、アクションたっぷりのスケールの大きな話に展開していく。この脚本の完成度が高い。知的なプロットであるばかりでなく、ミステリとしても良くできており、しかも大衆向けの視線をずらしていないので、同じような展開を見せた押井守「イノセンス」より分かりやすい。ロボットのVFXはレベルが高いし、ロボットを嫌悪する主人公のキャラクターも彫りの深いものになっている。しっかりしたSFになっている点でここ数年のSF映画では最も充実感があり、数少ないロボットテーマのSF映画に限れば、スピルバーグ「A.I.」など軽く越えてこれがベストだろう。

三原則とは言うまでもなく、

1.ロボットは人間に危害を加えてはならない
2.ロボットは人間から与えられた命令に服従しなければならない
3.ロボットは第1条、第2条に反する恐れのない限り、自分を守らなければならない

の3項である(ポール・バーホーベン「ロボコップ」では独自のものに置き換えて使ってあった)。アシモフの小説ではこれに矛盾する状況が現出し、ミステリ的に展開されることが多い。アシモフはミステリ方面でも評価の高い作家で、「黒後家蜘蛛の会」シリーズなど非SFのミステリもある。

「アイ,ロボット」も三原則との矛盾が発端となる。2035年のシカゴ、ロボット工学の権威であるラニング博士(ジェームズ・クロムウェル)がビルから転落死する。博士の死の状況から刑事のスプーナー(ウィル・スミス)は他殺を疑う。その第一容疑者がUSロボティクス(USR)社の新型ロボットNS-5のサニーだった。サニーは逃走するが、警察によって署に連行される。スプーナーの尋問に対し、サニーはロボットが持つはずのない怒りの感情を見せた。サニーはラニング博士によって感情回路をインプットされたユニークな存在らしい。警察はサニーの犯行と断定。しかし、ロボットに殺人罪は適用されないと主張するUSR社の社長ロバートソン(ブルース・グリーンウッド)によって、社に連れ帰られ、廃棄処分を受けることになる。USR社はそれまでのNS-4型に代わって、NS-5型の量産を進めていた。世界中に2億体のNS-5が送り込まれていく。スプーナーはNS-4型のロボットが格納された地域で、NS-5がNS-4を破壊している光景を見る。そして大量のNS-5たちが人間に対して反乱を起こし始める。

三原則があるのに、なぜサニーは博士を殺せたのか、なぜ博士はサニーをユニークな存在にしたのか、なぜロボットたちは反乱を起こしたのか、その背後にいるのは誰なのかという謎を散りばめつつ、ストーリーは進行する。加えて、主人公スプーナーにも三原則を頑固に守ったロボットに絡む哀しい過去がある。スプーナーはロボットを毛嫌いし、アナログな生活を送っている男なのである。さまざまな状況をタイトにまとめ、ユーモアを織り込みつつ映画を作り上げたプロヤスの演出は見事で、つくづくSFを分かっている監督だなと思う。

プロヤスは「アイ,ロボット」に飽きたらず、純粋なアシモフ作品を映画化したい希望を持っているそうだ。それならば、同じロボットシリーズで、人は本能的に宇宙を目指すものだという力強い主張に彩られた傑作「はだかの太陽」をぜひぜひ映画化してほしいと思う。