2005/06/13(月)「戦国自衛隊1549」

 「戦国自衛隊1549」パンフレット半村良の原作を映画化した斎藤光正監督作品(1979年)はアクション監督を千葉真一が務め、アクションだけはそれなりの出来だった。ほかには覚えている部分もないぐらいで、ほとんど良い印象がない。当時、角川春樹は「タイトルが出ないのは『地獄の黙示録』よりも先だ」と意味のないことを言っていたと記憶する。

 その「戦国自衛隊」を福井晴敏が新たに書き下ろし、「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」「ゴジラ×メカゴジラ」「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」の3本のゴジラ映画でファンの支持を集めた手塚昌明監督が映画化した。自衛隊の描写はゴジラ映画でお手の物なのでそれなりの映画にはなるだろうとの予想はあった。確かに自衛隊が全面協力しただけあって装甲車やヘリの描写に重みがあり、アクション場面は悪くないが、ドラマが物足りない。SF的な設定は福井晴敏の力を借りただけによくまとまっているけれど、残念ながら時間テーマSF独特の魅力はない。自衛隊が戦国時代に行って戦うというパッケージングをまとめただけの作品に終わっている。惜しい映画だと思う。最後の最後でセンス・オブ・ワンダーを感じさせてくれた「ファイナル・カウントダウン」あたりを見習った方が良かったのではないか。驚いたのは敵役が「ローレライ」と同じ論理、同じ意図で同じことを計画すること。福井晴敏、これは少し安易ではないか。十分な時間がなかったのだろうか。

 陸上自衛隊で行われた人工磁場発生器の実験に太陽プラズマの増大が重なり、的場一佐(鹿賀丈史)率いる部隊が消滅する。後に戦国時代の侍・七兵衛(北村一輝)が実験現場に現れたことから部隊は戦国時代にタイムスリップしたものと分かった。かつて的場の部下で特殊部隊Fユニットにいた鹿島(江口洋介)は今は居酒屋の雇われ店長になっていたが、自衛隊の神崎二尉(鈴木京香)の要請で的場たちを救いに行くことになる。的場たちが過去に行き、その時代に干渉したことで現代にホールと呼ばれる虫食い穴が出現し、世界は消滅の危機にさらされていたのだ。実験を指揮していた神崎は判断ミスの責任を感じて、森三佐(生瀬勝久)率いる救出部隊のロメオ隊に参加。部隊は的場たちと同じ状況を作り出し、1549年に向かう。

 半村良の原作は的場が率いる部隊の戦国時代での活躍を描いたような作品だった(自衛隊が活躍する場面を用意したかったと、かつて半村良は言っていた)。福井晴敏はそれにもう一つの部隊を加えることでオリジナリティーを出している。先に過去へ行った部隊の歴史への干渉を止めることがロメオ隊の使命なのだから、2つの部隊が敵対することは容易に予想できる。この映画に出てくる歴史の修復作用は半村良版でも出てきて、それが隊員たちの運命に重なっていったが、この映画ではそれが中盤のちょっとした驚きの場面につながる。僕は時間テーマSFを偏愛しているが、それは人間がタイムスリップしてもタイムマシンを発明しても時の流れには抗えないからで、そのために時間テーマSFには切ない感じがつきまとうからだ。この映画にはそうした切なさが一切ない。これはアクション映画だなんだという前に原作者のSFに対する意識によるものだろう。福井晴敏はSFの設定はできるけれども、SFが血肉になっている人ではないのだと思う。

 手塚昌明の演出はいつものようにドラマ部分が弱いと思う。脚本にもかかわってくるけれども、ロメオ隊の嶋大輔のような役柄をあと1人か2人用意して、時にのみ込まれていく自衛隊員たちの悲劇を際だたせるともっと面白くなっていただろう。出演者の中では北村一輝の好演が光る。「ゴジラ Final Wars」でも怪演を見せていたが、この人、とにかく目立つ。せりふ回しからして武士そのもので、現代にいる場面のちょっとずれた感じが面白い。それが戦国時代に帰って、実にぴったりと時代に収まるのがまた良かった。

2005/06/07(火)「電車男」

 「電車男」パンフレット「エルメスさんち行きのチケットは、JTBじゃ売ってくれねえんだよ!」

 「一つだけ言っておく。相手の女性は一人だが、おまいにはオレたちがついている」。

 もちろん、原作では“オレたち”ではなく、“2chがついている”、となっている。電車男のまとめサイトを読んだ時に心を動かされたのは電車男とエルメスの話ではなく、こうしたスレッドの住人たちの言葉であり、ラブストーリーの方は平凡なものに思えた。だからこれを映画化するには住人たちをどう描くのかがポイントだろうと思った。脚本の金子ありさは「あくまでもメインはラブストーリーとして描きつつ、“新しい物語”としてネットの向こうの応援者もちゃんと描き出そうと思いました」と語っている。メインはラブストーリーじゃないと僕は思っているので、これは違うと思うが、映画にするならラブストーリーを強調した方が分かりやすいのも事実だろう。こうしてラブストーリーをメインにしつつ、スレッドの住人たちもそれなりに描いた映画になった。端的に言えば、出来は悪くないと思う。映像の色彩には感心しないし、演出も演技もテレビドラマのレベルで、クライマックスのキスシーンの下手さ加減には頭を抱えたくなるのだが、主演の山田孝之の好感度が高く、男から反感を持たれない男であるのがいい。電車男の必死さをややオーバーアクト気味に演じた山田孝之の好感度はそのまま映画の好感度につながっていると思う。

 電車の中で酔っぱらいに絡まれている美女をアキバ系オタク男が助けたことが発端。美女はお礼にエルメスのカップを送ってくる。男は彼女と何とか付き合いたいと思うが、彼女いない歴=年齢(22歳)なので、ネット掲示板の助けを借りる。匿名の書き込みからアドバイスと励ましを受けながら、男はなんとか恋を成就させるというのがプロット。原作はクライマックス前に男が気弱になる場面(伊丹十三の言葉を借りれば、ロウポイント)があり、ちゃんとした物語になっているところが良くできていると思う。ここで「JTBじゃ売ってくれねえんだよ」の書き込みが出てくるのだ(原作を正確に引用すれば、「そういう以前に、エルメスんちに行くとかそっちの方がよっぽど大変なんよ。エルメスんち行きのチケットとかJTBで売ってくれない訳」となる)。映画はこの場面をスレ住人の口から直接言わせている。ここがなかなか感動的である。書き込みを元にした空想の場面なのだが、電車のホームの向こう側にいる電車男に向かって、スレの住人たちが一列に並んでそれぞれ励ましのエールを送るのだ。

 映画は住人たちをもてない男3人組(岡田義徳、三宅弘城、坂本真)、看護婦(国中涼子)、主婦(木村多江)、親に反抗的な少年(瑛太)、30代らしい男(佐々木蔵之介)の7人に代表させて描いている。それぞれにちょっとしたドラマを付け加えているのが金子ありさの工夫だろう。僕は電車男の現在進行形の書き込みには間に合わなかったが、それから少し遅れてまとめサイトを読んだ。掲示板の書き込みを読むのは自分も参加した気分になるものだが、本になり映画になると、そういう感覚は薄れてくる。「大好き>おまいら」という電車男のセリフもだから、あまり真に迫ったものにはなっていない。電車男とスレ住人たちの関係が映画では薄れているのだ。それが残念と言えば残念なところか。

 エルメスを演じる中谷美紀はただ微笑んでいるだけで、クライマックス後に電車男に本心を打ち明けるまで演技のしどころがないのがつらいところだ。山田孝之とちょっと年が離れすぎているのも気になった。本当ならはっきり2ちゃんねるの名前を出した映画にしてほしかったところだが、まずまずの作品になったのでいいだろう。いずれにしても映画の中に_| ̄|○とかのアスキーアートが出てきたのは初めてだと思う。その意味で貴重な作品ではある。

2005/05/30(月)「ミリオンダラー・ベイビー」

 「ミリオンダラー・ベイビー」パンフレットアカデミー主要4部門受賞。それが当然の傑作だと思う。F・X・トゥールの短編をテレビの脚本が多いポール・ハギスが脚本化し、クリント・イーストウッドが監督した。予告編はボクシング映画にしか見えなかったが、イーストウッドは、この優れた脚本がボクシング映画ではなかったから監督を引き受けたのだという。原作を読んでいたので終盤の展開に驚きはしなかったけれど、逆に原作の終盤をそのまま映画にするのは(興行的側面を考えると)難しいと考えていた。だから、この映画がうまく成功していることに感心せざるを得なかった。それは主要登場人物の背景をしっかりと描き込んだからにほかならない。キャラクターの詳細な描写が圧倒的な大衆性につながっている。イーストウッドがプロだと思うのは大衆の視点で映画を作り、自己満足のためだけの映画を作る考えなど微塵もないことだ。主演のヒラリー・スワンク、イーストウッド、モーガン・フリーマンの深みのある演技が加わって、この厳しい映画を見事なものにしている。

 主人公のマギー(ヒラリー・スワンク)は家族のためにウェートレスとして働き、貧しさからはい上がるためにボクシングを始める。31歳。老トレーナーのフランキー(クリント・イーストウッド)はTough ain't Enough(タフなだけでは十分じゃない)と言って依頼を断るが、マギーは秘かにジムのスクラップ(モーガン・フリーマン)の指導を受ける、マギーの熱心な練習を見たフランキーもトレーニングを指導するようになる。試合に出たマギーは圧倒的な強さを見せて連戦連勝。やがてタイトル戦に挑戦する。

 これがそのままうまくいけば、よくあるアメリカン・ドリームを描いた映画になるが、終盤の展開でこの物語はアメリカン・ドリームとは違う人と人との深い絆を描くことこそが狙いだったことが分かる。

 マギーが食堂で客が食べ残した肉を持ち帰るシーンや切りつめて貯めた小銭でスピードバッグを買うシーン、ジムで毎晩遅くまで残って練習するシーンなどで映画は貧しいマギーの切実さと一途さを描き出し、観客のハートをしっかりと掴んでしまう。家族との関係は原作以上に悲痛である。マギーがファイトマネーで母親のために家を買うエピソードは原作にもあるが、映画はマギーをまったく理解しない母親を原作以上に詳しく描く。出した手紙がそのまま返ってきても娘への手紙を書き続けるフランキーとマギーはだから父娘のような関係になる。親に理解されない子供と子供に理解されない親が疑似家族的な絆を深めていく描写に無理がない。

 映画は原作の行間を補完するように描写を積み重ねているが、逆に原作にあって映画にないのはマギーが父親の思い出を語るシーン。マギーの父親は長距離トラックの運転手で、家族のために懸命に働き、自分のためには仕事着と噛み煙草にしか金を使わなかった。12歳の時に父親は癌で死に、マギーの中でも何かが死ぬ。そしてマギーは16歳から働き始めるのだ。このエピソードはあった方が父親を亡くしたマギーがフランキーとの絆を深めていく過程に説得力を持たせただろうが、その代わりに映画は原作には登場しないモーガン・フリーマンを登場させることで、フランキーの過去と人間性を浮き彫りにしている。取捨選択に間違いはないと思う。

 2002年に72歳で亡くなった原作者のトゥールは「自分は、すべての女性との関係に失敗し、父親としても失敗し、闘牛士としてもマトダールにはなれなかったし、確かに物は書きはしたが、小説家とは言いがたい」と言ったそうだ。小説にある敗者に向ける視線の厳しさと切実さは映画にそのまま受け継がれている。「ミリオンダラー・ベイビー」とは1試合で100万ドル稼ぐ女性ボクサーという意味だが、同時にマギーやフランキーのような存在こそが100万ドルの価値を持つ人間であると言っているように思える。

2005/05/23(月)「ザ・インタープリター」

 「ザ・インタープリター」パンフレット国連の通訳が要人の暗殺計画を聞いたことから命を狙われるサスペンス。同名の原作があるが、設定だけを借りてまったく違う話にしてあるそうだ。オリジナルな話としては良くできているけれど、映画としては人間関係が入り乱れて分かりにくくなったきらいがある。シドニー・ポラック監督は場面場面を的確に演出していながら、人間関係の整理がうまく表現できていないのだ。にもかかわらず映画が魅力的なのは、ひとえにニコール・キッドマンとショーン・ペンのお陰である。脚本でもこの2人のキャラクターは心に傷を持った設定にしてあって奥行きが深いが、2人の演技はそれに輪をかけてキャラクターをくっきりと浮かび上がらせている。さすがに2人ともアカデミー主演賞を取った俳優だけのことはある。血肉の通ったキャラクターであり、多少の語り口のまずさを超えさせる力がある。特にキッドマン。知的で美しく毅然としていながら、弱さも見せる女を演じて文句の付けようがない。ハリウッドを代表する女優だなと改めて思った。

 ショッキングな場面で映画は幕を開ける。アフリカのマトボ共和国にあるサッカー場に来た2人の男が少年3人にいきなり射殺される。同行していたカメラマンは車に残っていて難を逃れた。場面変わってニューヨークの国連本部。同時通訳のシルヴィア・ブルーム(ニコール・キッドマン)は忘れ物を取りに通訳ブースに戻り、暗がりの中で男たちの会話を偶然耳にする。そこで照明がついてシルヴィアは顔を見られる。男たちは「先生は生きてここを出られない」と話していた。先生とはマトボ共和国のズワーニ大統領のことで、シルヴィアは翌日、国連本部に報告する。マトボ共和国でズワーニ大統領は住民を虐殺しており、その弁明のために近く国連で演説することになっていた。シルヴィアはその日から周囲に不審な動きがあることを察知する。ズワーニはかつて民衆の指導者だったが、大統領になってから独裁政治を行うようになった。それに反対する勢力が2つあった。ゾーラとクマン・クマンの2人がそれぞれ率いる勢力。暗殺計画はこのどちらかが計画しているらしい。大統領暗殺計画を阻止するためシークレット・サービスのトビン・ケラー(ショーン・ペン)とウッズ(キャサリン・キーナー)が捜査に乗り出す。

 というのが大まかな設定である。単なる通訳と思われたシルヴィアは実はマトボ共和国の出身であり、両親と妹を政府軍が仕掛けた地雷によって亡くした過去を持つことが分かってくる。シルヴィアは一度は銃を取り、ゾーラの反政府勢力に入ったが、ある出来事をきっかけに祖国を離れた。国連の通訳になったのは銃よりも言葉による外交を信じたからだ。ケラーは交通事故で妻を亡くして仕事に復帰したばかり。向かいのビルからシルヴィアを監視しているうちに2人にほのかな心の交流が生まれるのはこうした映画の常套的な手法だろう。眠れないシルヴィアが携帯電話で向かいのビルにいるケラーと話すシーンなどはロマンティックだ。

 シドニー・ポラックはそうしたロマンティックなシーンには冴えを見せるが、過去の作品を見てもサスペンスはあまり得意ではないらしい。ロバート・レッドフォード主演の「コンドル」を見たときも話の本筋が分かりにくかった記憶がある。それにもかかわらずレッドフォードとフェイ・ダナウェイによって映画はある程度面白く見られた。それと同じことがこの映画にも当てはまっている。ストーリーテリングがうまい監督ではなく、俳優の演技を引き出すタイプなのだろう。

2005/05/22(日)「Ray/レイ」

 「Ray/レイ」パンフレットジェイミー・フォックスが終盤、空想の中で目を開けるシーンで、レイ・チャールズとはあまり似ていないことがはっきり分かる。目を瞑って動作を真似るだけでこんなに似てくるものかと思う。フォックスはアカデミー主演男優賞を受賞したが、それに恥じない熱演だと思う。映画化に15年かけたというテイラー・ハックフォード監督はレイ・チャールズの生涯を女好きやヘロイン中毒というネガティブな部分を含めて描き出す。これは賢明な判断で、そういう部分がないと映画は嘘っぽくなるのである。弟を目の前で死なせたことがトラウマ(心的外傷)になったエピソードなどもレイ・チャールズという人間を描くのに欠かせないことだし、失明したレイを厳しく育てる母親(シャロン・ウォレン)の存在もそうだろう。人間的なレイを浮かび上がらせることにハックフォード演出は成功し、力作となっている。

 とは思うものの、音楽的な才能の秘密がどこにあったかについてはないがしろにされている感が強い。子供のころ失明したレイが周囲の物音に目覚めるシーンは“耳で見る”能力を表現して秀逸だが、音楽に関してはそういう部分がない。有名な曲がたくさん流れるにも関わらず、音楽映画的部分が物足りないのは人間レイを追求した結果、音楽家レイの追求が手薄になったからではあるまいか。

 実際、映画を見終わって印象に残るのは盲目、ヘロイン、女好きという3つのことなのである。一度はレイを追放したジョージア州議会が謝罪し、州歌を「わが心のジョージア」に決めるというレイの復権を描いて映画は終わるが、黒人差別、公民権運動に対するレイのスタンスは詳しく描かれない。中盤、ジョージアでのコンサートに訪れたレイがファンからコンサートの中止を求められるシーンがある。ジョージア州はアフリカ系アメリカ人を隔離席に押し込めるという施策を取っていた。コンサート会場の前でその施策に抗議していたファンの1人がレイに駆け寄り、コンサート中止を依頼する。「自分はただの音楽家だ」と最初は断っていたレイは話しているうちになぜか心変わりして公演を辞める。それが元でジョージア州はレイを追放するのだが、この心変わりの部分をもっと知りたくなるのだ。復権のシーンを効果的に見せるにはそれが必要だと思う。スパイク・リーなどのアフリカ系アメリカ人が監督すれば、そういう社会派的な部分をもっと描いたに違いない。

 人の生涯を描く上で何を取り何を捨てるかは難しい。ハックフォードはヘロイン、女好き、盲目を取った。僕は他の部分にもっと興味がある。要するにそういうことで、この映画で満足する人も多いだろう。

 ただし、ハックフォードの技術は決してうまくはないと思う。2時間32分が長く感じるのは語り口にくどい部分があるからだ。これはうまいという表現の仕方もなかった。ハックフォード、とりあえずまとめ方に難はないけれど、見せ方には相変わらず凡庸な部分を引きずっている。